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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
第五章 蛙都嘯風の涯
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第五章 2


「何かの速報?」

「確認しましょう。フランスでのスポーツニュースのようですね、スポーツ関連のニュースは優先度を高めてますので、速報を拾ったようです」


イカロが操作を行い、その速報が文字情報として出現する。それは端的な文章だった。


フランス、マルセイユにおいて行われたマラソン大会、中国の馬劉波選手、1時間58分22秒の世界新で優勝


――!!


瞳孔が開く。

信じられないという感情の波が、直後に来る理性の腕によって押さえられる。そんな馬鹿な、この数字は。


私が驚愕に取りつかれて数秒ののち、部屋のドアが開かれる。


「イカロさま、今日は栄養のあるキノコと山菜の天ぷらですわ、私が山梨まで行って採ってきましたわ」

「イカロ! このニュース詳しく調べて」

「は、はい、フランスと中国でそれぞれ詳しく報道されてますね、翻訳にかけて……」

「何してますのイカロ様の部屋で、あなたも食べるつもりですわね山菜泥棒」

「誰が山菜泥棒よ」


思わず突っ込んでしまうが、今はそれどころではない。


男子マラソンにおいては、長らくサブ2、すなわち「二時間の壁」というものが存在した。

人間の限界とも言われるこの数字、ケニアのある選手が非公式ながら破ったことはある。1時間59分40秒というその数字は、しかし41人のランナーが交代で走ってペースメーカーとなり、さらに七人がフォーメーションを組んで風よけとなることで達成したものだ。

公的な世界記録としては、同じくそのケニアの選手が持つ2時間1分39秒、これが世界最速である。

マラトンの戦いは除外するとしても、1896年の第一回近代オリンピックから続くマラソンの歴史、数えきれないほどのランナーが目指してきた地平が、ついに達成されたということだ。


だが、私は興奮よりも先に、強烈な違和感を覚えていた。

中国の馬選手など聞いたこともないし、1時間58分22秒、それは短距離と長距離という違いこそあれ、陸上選手の肌感覚としてあまりにも常軌を逸している。

私がそのようなことを説明するが、亜里亜は小首をかしげるのみだった。


「またゲノム編集者ではありませんこと? きっと、このあとカミングアウトするのですわ」

「いえ……」


イカロが否定する。扇型に組まれたダイダロスの一角で、ニュースの情報が集まりつつある。その選手の素性、レース当時の天候と気温、コースの評価なども集まっている。


「この大会、上位15名までは事後的なドーピング検査があります。馬選手は採血による遺伝子検査にパスしています」


まさか……。


「レースのコンディションは?」

「評価点はあまり芳しくありません」


マラソンにおいて最適とされる気温は3℃から10℃、日照りのない曇りが望ましく、コースは適度なカーブを持ち、スタート地点とゴール地点の勾配がマイナスになっているものが良い。つまり下り坂が多ければ有利というわけだ。


そのフランスの大会というのは気温は14~17℃、曇り、勾配はスタートからゴールまででプラス2メートルの登り、理想からはほど遠い……。


またも赤文字が走る。

画面の端を流れるのは、中国でのニュースのようだ。


「ミズナさん、中国の新華基因研究所……遺伝子やバイオテクノロジーを研究している機関のようですが、そこが馬選手について記者会見を行うとのニュースが」

「バイオテクノロジー……」

「天ぷら冷めますわよ」

「食べるから、ちょっと忙しいから」


すべてはお膳立てされていたかのように、一気にことが進むように思えた。


私たちだけではない、世界中の陸上選手が、オリンピック委員会が、そしてWADAも最大限の注目をもって見守るなか、それは始まった。長机に数人の白衣の人物が並び、中央の人物がマイクを取る。


「はじめまして、局長の景龍(ケイロン)です」


体を包むような大きめの白衣を着た、黒髪に糸目の人物である。その人物はフランスにて優勝した馬選手が、自分達の研究の賜物であると発表した。


「結論から言えば、これはまったく新しい形のドーピングと言えるでしょう」


会場がざわめく。中国本土の記者会見で、このように想定外のざわめきが起きるのは珍しい気がする。会場には外国人記者が多く招待されているようだ。

おそらくフランスで馬選手とやらが優勝することは、完全に折り込み済みだったのだろう。


「近年、話題になっている全感覚投入というシステムがあります。あれは舌の粘膜から電気刺激を送り、その信号が脊髄からの信号に擬態することで、五感の全てを上書きするシステムです」


景龍(ケイロン)氏の背後に映像が投影される。それは食べ終わったブドウの房のような、トゲがいくつも生えた分子模型のようだ。


「我々はこの物質が、それと似た作用を持つことを発見しました。この物質を舌の表面に塗ると、味蕾(みらい)に取りついて分子機械として作用し、脊髄からの信号に偽装して電気刺激を脳へ送る、そこまでは変わりませんが、この物質が送る信号には何の意味もありません。空白なのです。

――しかし、特に苦痛に関わる神経系に信号が送られ、回路を渋滞させます。すなわち、痛みを感じにくくなるのです」


「? それはただの鎮痛薬ではありませんの?」


亜里亜が言う。その疑問はもっともだ。

彼女はマイペースに舞茸の天ぷらを食していた。彼女だけ食べさせるのもなんだか悪いので、私とイカロも少しずつ食べる。

景龍氏は小瓶を取り出す。

中身は桃色の液体だ、それを無造作に長机に置く。


「これがその実物です。舌の表面に塗ることで作用し、三時間ほどかけて自然に吸収されるまで効果が持続します。人間の全身には触点50万、冷点25万、温点3万、痛点200万ほどの感覚受容細胞がありますが、そのうち痛点だけを選択的に、六割ほど閉塞するのです」


記者のざわめきは続いている。

亜里亜はまた首をかしげる。


「? でも結局これドーピングですわよね? WADAが今後ドーピングリストに追加するだけではありませんこと?」

「……そうよね、たしかにそうなんだけど……」


Tジャックの原理を応用した、まったく新しいドーピング、それはそれで素晴らしい発明だと思う。

しかし、だからと言ってそれを接種した選手を海外の大会に送り出し、優勝させる、これはやりすぎだ。今後WADAが禁止薬物に指定するだろうし、国際的な批判も起きかねない。

景龍氏、どこか読みがたい顔立ちだが、見たところ聡明そうなのに、なぜこんなセンセーショナルに過ぎることを。


だが、その私の思考に意味はなかった。

まったく予想もしてなかった発言が飛び出したのだ。


「我々は、この物質を発見しました。そうです、この物質は自然界に存在していたのです」


再度のざわめき。


「天然モノですの? なるほど、天然モノならドーピングにならないって理屈ですわね」

「いえ……そんなことは無いんだけど……」


天然であっても禁止されている物質はある。

例えば麻黄という漢方薬はエフェドリンを含む、これは覚醒剤であるメタンフェタミンと非常によく似ているため禁止されている。

同じく七味唐辛子などに含まれる麻の実、これはごく僅かだがカンナビノイドを含んでいる可能性がある。カンナビノイドはどれほど微量でも検出されてはいけないので、アスリートはヘンプシード、いわゆる食用大麻にも神経を使う。


…………


ではいったい、この男は何が言いたいのか?


あそこまでセンセーショナルな演出をして、やることは新物質の発見報告? それだって、およそ聞いたこともないような漢方薬か、抗生物質のようなものに過ぎない……。


「我々の」


ひときわ、景龍の声が高まったように思える。

まるで、この会見を眺める世界中のやきもきした視線に冷や水を浴びせるような。


「我々の発見したこの物質、それが含まれている天然物質とは、これです」


それは白衣のポケットに入っていたのか。

ごろんと転がるそれは、ほんのりとピンク色を示す、蜜の詰まった果実。


「――桃です」


一際、大きなどよめきが起こる。


「漢方の世界では、桃は開花前のつぼみを下剤や利尿剤に、種の中身は桂枝茯苓丸けいしぶくりょうがん桃核承気湯とうかくじょうきとうなどと呼ばれ、婦人病に用いられる代表的な生薬でした。我々が今回、見つけた物質はおもに熟しきった果肉に含まれます。しかし胃液で分解されやすいため、これまでほとんど気付かれなかったのです。品種によって量は増減しますが、おもに改良を経た新しい品種ほど量が多い傾向があり……」


「何てこと……」


私の呟きに、亜里亜が反応する。


「どうしましたの? 桃にそんなものが含まれてたというのは、確かに驚きですけれど」

「この男」


私はダイダロスの中央、白衣の男に指を突きつける。


「走破者よ」

「なっ……」


イカロと亜里亜の声が和する。


「ミズナさん、なぜです、どこも不審な点など……」

「おかしいと思ってたの、世論の操作がうまく行きすぎてた。根本的なことを言えば、ゲノム編集者がそう簡単に受け入れられることに違和感があったの。宇宙開発に向けた下準備……それも理解できるけど、もう一つ何かあると思うべきだった。例えば、ゲノム編集者が必ずしも有利にならない社会の到来。ゲノム編集を受けなくても、人間の限界を超えられるような薬の出現。そんなことが予期されてたんじゃないの? だからダイダロスは私たちの作戦が「可能である」と回答したんじゃないの?」

「そ、そんなことは……」


イカロは答えに窮する。

私の予測が当たっているとは限らない。確かなことは、フランスでどこかの誰かが人間の限界を越えたということ。たかが桃を食べただけでだ!

世界はそんな形ではなかったはずだ。誰かが書き換えた、そう考える方が自然。そして、それを理解できるのは走破者だけなのだ。


「こう考えられない? 生物の遺伝子を後天的に書き換えるようなウイルスの存在。それは鳥か虫を媒介にして世界中に広がり、桃の樹に取りついて遺伝子を書き換えた。ある物質を果肉の中に生成するようなプログラムを書き加えたのよ。一本残らず、根こそぎに」

「そんなことありえませんわ!」


亜里亜が叫ぶ。

だが私は知っている。

ダイダロスに、不可能は何もないのだと。


「イカロ、検討してみて、その計画が可能かどうか」

「――はい」


イカロも緊張している。

そうだ、演算力は世界を変える。


私たちのやっている戦い、迷宮に潜り、演算力を奪い合うという戦いは。

それはすなわち、世界を書き換えあう戦いでもあるのだと……。


長らくの検討ののち、イカロは呟く。


「……ダイダロスの回答は、可能、と」


私はようやく理解した。

景龍(ケイロン)、この男は世界を変えようとしているわけではない。




世界はもう、変わってしまったのだ。











Tips 天然物質とドーピング

天然物質には麻薬成分や、強い薬理作用のあるものがあり、WADAはそれらについても指定薬物として禁止している。

また、天然物質の中でもコーヒーなどに含まれるカフェイン、陳皮(ちんぴ)(みかんの皮)などに含まれるシネフリンなどは禁止物質ではないが、監視プログラムとして将来的な禁止の可能性も示唆されている。

それらの物質が即時禁止されないのは、人体への害の小ささ、普及度の高さにより禁止が現実的でないためと言われる。

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― 新着の感想 ―
[一言] うわぁ~~そういう筋書きか!!これはすごい展開ですよ。
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