第五章 1
かくて人間は演算力という宝剣を手に入れ、自身の限界を越えた力を手にする。
数え切れぬほどの羊も、惑星の歩みも、質量砲の弾道も魔法のごとくに数え上げ、夢見るように解き明かす。
そして演算機械は複雑化し、もはやその全容を理解しうるものは誰もいない。天候予測に、株価予想、検索エンジンに自動翻訳、世界の隅々にまで満ちて、人の生活の基盤となって久しい。
あるいはそれは魔法の鏡、問いかけに答える不思議な機械。
それがどのような思考を行ったのか、望む答えを本当に出力しているのか、それをもはや追跡できないとしても、人はそれを信じるのか。
魔法の鏡を信じた魔女の、末路を知っていたとしても。
※
――秋
東西南北から人の流れる交差点、その中央に立って人の流れの渦中に身を置くような、そんな目まぐるしい日々が過ぎる。毎日想像もつかないことが起き、いろいろな人と会って、交わされる論戦は目まぐるしく変化していく。
三ノ須の競技会にて、私が記録したタイムは10秒76。これは世界記録に肉薄し、それまでの日本記録を大きく上回る数字だ。私はついにそれを人前に示した。
大いなる驚きを持って迎えられるとともに、当然、議論も巻き起こった。そしてその渦の中に、私もいた。
「私にとって、この体は両親から受け継いだ大切な宝だと思っています。何一つ恥じることはありません、挑める壁があるなら挑んでいきたいんです。そのために、挑戦の場を与えてほしいと……」
「母は現在、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学で治療を受けています。AFTD、アスリート系図病とも呼ばれる希少疾患です。治療のかいあって今では意識の戻ることが多くなったそうで、月に何度かは電話で連絡もできています。IPS細胞などによって治療のハードルはぐっと下がっているそうです、いずれは注射一本で治るようになるとも……」
「日本陸連がゲノム編集者への公式声明を出したことはたいへん意義のあることだと思います。いえ、父が現役を退いたことと、ゲノム編集者であったことは関連付けるべきではないと考えています。私たちのような選手が世界中でカミングアウトを行っています。過去において確かにアンタッチャブルな存在であったとしても、それは永遠に続くべきではなく……」
※
「みーずなー」
サチが背中をどんと叩く。セーラー服の丈をやや詰めているのはサチの特徴だ。気のせいか生地も軽い気がして、校内に吹きすさぶ秋風を受けて襟元がひらひら揺れる。ちなみに私は朝練の帰りだったので、パーカーにハーフパンツという姿だった。
「見たよー昨日のテレビ。すごいじゃん、有名人なのだよー」
「そうでもないよ、他にもカミングアウトしてる人たくさんいるし」
ダイダロスの作戦において重要だったことが、SNSの操作による世論形成と、同じゲノム編集者の掘り起こしである。
考えてみれば、私の両親がゲノム編集を受けてから30年以上経っている。処置が一般に広がっている可能性は大いにあった。世論の盛り上がりによって、世界中からカミングアウトが起こっているのだ。
国内ではプロのピアニスト、ファッションモデル、若手数学者などでゲノム編集者がカミングアウトを行い、世界規模でも文学者や企業経営者、国家元首に近いと目される政治家などでもカミングアウトが相次いだ。
そしてスポーツ選手もだ。ジュニアクラスのサッカー選手、アマチュアボクシングなどにゲノム編集者が見つかり、アマチュアスポーツの世界だけでも全世界で1000人を超えつつあった。
「びっくりしたよー、ゲノム編集受けてたなんてー」
「私が受けてるわけじゃないのよ、両親の影響なの」
私たちは紅葉した木立の間を縫って歩く、黄色い落葉に混じって黄色い声援、それを気のせいだと思うのは逆に失礼というものだろう。中等部の女子たちがエールを送ってくれているのだ。笑顔で会釈を返す。
国内でも数多く起こったカミングアウトの中で、やはり最大のインパクトを持って迎えられたのは私だった。それまで遠い夢でしかなかった日本人の100メートル金メダル。それが一気に現実味を帯びてきたのだ、当然の反応だろう。
私はいくつかの記録会に出ると同時に、いくつものメディアに露出するようになった。テレビでコメントし、ネット配信で己の意見を述べ、雑誌のインタビューにも積極的に答える。
練習のスケジュールはイカロと亜里亜によって管理され、学業も疎かにできなかった。目の回るような日々だった。
まさか、首相に会うとは思わなかったけど。
※
「ゴール地点をより遠くに置きます」
イカロはそう主張する。学内にあるイカロの部屋には数台のダイダロスが扇型に並び、それぞれが無数のウインドウを開いては閉じてを繰り返す。今日は亜里亜は来ていないらしい。
もうSNSの情報操作はあまり行っていない。私たちが何もせずとも、言論環境は醸成され、論客が何千人という単位で生まれていたのだ。
イカロの言う遠くのゴール、それは世界がいずれ到達するであろう目標、すなわち。
「デザイナーベビーの解禁です」
医療目的ではない遺伝子編集を受けた人間、いわゆるデザイナーベビーは現在においても多くの国で禁止されている。それは何より、生まれ出ずる生命に手を加えることが、生命の尊厳を貶めることに繋がるという宗教的思想からだ。
今現在、本人の意志に反してゲノム治療を受けた人間を排除するべきではない、それは理解されているが、新たに生まれることを認めていけば際限がなくなる。私だって畏れを感じないわけではない。
「そんなこと可能なの?」
「はい」
イカロの答えには淀みがない。彼はダイダロスを駆使している時は、迷いとか自信の無さと無縁に思える。彼はやや薄暗い部屋で、仄白く光るダイダロスの画面をせわしなく操作している。
ここ最近はイカロも亜里亜もちゃんと授業に出ているが、イカロがあまり外に出ないのは変わらなかった。イカロは特に旅行もしないし、外食もせずに亜里亜の運んでくる料理を食べている。どうも亜里亜にキッチンを使わせることだけは断ってるようだ、まだ初等部でもあるし、何かしら一線を引いているのだろう。
考えてみれば二人とも初等部なのに一人暮らしをしているのだ、三ノ須という世界の中とはいえ、大したものだと思う。
ではイカロの趣味と言えるものは何か、あえていうなら映画のようだ。何度か、イカロが映画を見ていたことがあった。
ダイダロスの画面を九分割して、別々の映画を同時に流していたのだ。
「そんなんで面白いの?」と私が聞くと。
「理解できてます」と答える。そして画面の端で、それぞれの映画の要点が自動的にまとめられていた。
それはともかく、デザイナーベビーの解禁か。
「イカロ、デザイナーベビーは私も自身のことを学ぶ上で本を読んだけど、宗教的倫理の壁が高いはずよ、世論操作だけで何とかできるの?」
「はい、必然性があれば可能です」
「必然性?」
「これです」
それはCG映像である。
モニターの中央に大きく浮かび上がる月。そこに物資が投下される様子がCGで示されている。緩衝材で包まれた荷物が月面に落ちてぽんぽんと転がり、地上ではその物資を用いてドーム型のテントを建て、月面移動車やアンテナなどが組み立てられる。
「月面開発計画を進展させます」
「なっ……」
月面開発。それは2006年にNASAにより提唱された計画だったが、莫大な費用の問題などのため頓挫し、2010年にオバマ大統領により中止が発表された。
ロシア連邦宇宙局などは数十年のスパンで計画を建てていたが遅々として進まず、中国国家航天局などは潤沢な予算によってかなり現実的な範囲で進めていたようだが、宇宙進出による軍事的緊張、技術的問題などの理由でやはり停滞している。
「現在、月面基地を建設するための技術的ネックはやはりロケットの打ち上げ費用です。数百億円とも言われるロケットが使い捨てであるためですが、何度も使用できる機体を用いることで、コストを100分の1にまで抑えることが可能になります。
例えばスペースシャトルは25トンの物資を運搬できますが、一度のミッションあたり4億ドルの費用がかかると言われています。僕は1トンあたり6万ドル。25トンなら150万ドルのコストで打ち上げられるロケットを目指します」
「ちょっと待って、スペースシャトルって逆にコストがかかるって聞いたわよ」
イカロはうなずき、腕を動かしてダイダロスの画面を切り替える。
そこにはスペースシャトルに似ているが、さらに鋭角的で洗練された印象の機体、そして横倒しになったそれをすっぽり収めるような、カマボコ型のドックが描かれる。
「スペースシャトルが予定されていたほどコストを削減できなかったのは、膨大な数の点検にかかる人件費と、部品交換のコストがかかるためです。なのでダイダロスはこのように提案しました、点検から主要部品の換装、打ち上げ準備までをオートメーションで行うドックを建造するべきであると、これによって人間が直接関わる点検項目は200以下まで減らすことができます。同時に耐熱タイルや観測機器など、劣化の激しい部品にも大幅な改良を施します」
「そんなことが……」
「もちろんすぐにはできません。本格的な活動は15年ほど先になるでしょう。アメリカにてそのような宇宙ベンチャーを立ち上げ、どなたか優秀な方に経営をお任せします。これによって宇宙開発と月面への移住が現実味を帯びますが、そこで遺伝子操作が重要になるのです」
「放射線、だっけ」
「そうです。月面では地上の300倍から1400倍の放射線が常に降り注いでいます。月面基地は月の極点に建てることになるでしょうが、やはり放射線の問題はつきまといます。ゲノム編集によって放射線耐性を持つ人間を生み出すことが必要になるでしょう。やがては、宇宙環境に耐えるために様々な遺伝子処理を受けた人類が出現するでしょうね」
つまり……。
人間が宇宙へ進出するならば、遺伝子操作の必要性が生まれる。
遺伝子操作が必要なものと認められれば、スポーツや美容のための遺伝子操作への心理的ハードルも下がる。
これからの百年あまり、人類の未来に大きく関わるような巨大事業。
それが、私がオリンピックに出るための布石である、という想像は、なんだか目がくらくらする思いだった。
「ちょっと……話のスケールが大きすぎて。現実味が」
「ミズナさん、演算力は世界を変える力です。ダイダロスならば月面に基地を建てることも、遠く火星や木星に行くことすら可能にするでしょう。そしてそれは人間の歴史としての必然です。ミズナさんの願いは……ゲノム編集者が受け入れられる社会の到来は、いつか訪れる自然なものだったのです」
「……」
その言葉は、確かに私の心のざわめきを鎮める、甘いソーダのような優しさがあった。
ゴールを遠くに置く、というイカロの言葉。
つまり何段階も先の目標を提示することで、その第1段階としての私の目的を叶える。人類が月に出ていく、火星に出ていく、それは長らくの停滞のために忘れられかけていたが、実現するならば全人類の胸を高鳴らせる大きな目標だろう。
ダイダロスには月が浮かんでいる。
この三ノ須の、どことも知られぬ密室で、イカロは確かに世界を動かそうとしていた。
ーーしかし、まだ。
心に不安が残っている。
なぜだろう? ダイダロスの力はもう散々見せられたし、イカロの計画はあまりにも完璧だ、そして私の周りで実際に世界が動き始めている。
ここから何かしら歯車が狂うことなど、有り得るのだろうか。
画面の端に、速報、の赤い文字。
そのニュースが飛び込んできたのは、まさにその時だった。
Tips スペースシャトル
NASAにより開発された地球往還機。30年に渡って135回打ち上げられた。再使用によるコスト削減がコンセプトとされていたが、実際には使い捨ての部品や、使用後の点検作業などに多額のコストがかかっていた。
その後も宇宙ベンチャーや各国の宇宙開発局により、再使用をコンセプトとした宇宙ロケットはしばしば提案されている。
章題の読みは「あとしょうふうのはて」です




