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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
幕間 鋼樹刀狼の迷宮
32/126

幕間 1



「ええ、私はですね、病や怪我における苦痛とは何を意味するのかと考えているのですよ」


奇妙な男だった。軽薄そうな印象なのに、あの厳格な父を相手に軽妙に話し続けている。

青みがかった銀髪を無造作に伸ばした男。背は低く顔は小さく、いかにもな小市民風なのに、まるで気後れする様子がない。


「比較すべきは嗅覚です。持続的に濃厚な匂いに触れると、すぐに鼻が麻痺してしまう。しかして痛みはどうでしょう。あれは慣れることができない。私は苦痛にあえぐ患者をたくさん見てきましたが、痛みは人の人生に大きな影を落とす。それは一種のバグなのですよ。人体の不完全性なのです。不必要な痛みはすぐに失われるべきなのです」


屋敷の大広間にて、暖炉の暖かな風を受けて話している。対峙する父は岩のような大男であり、葉巻をふかしながら話を聞いている。


「ネクタルという言葉をご存知ですか。いえいえまさか本物ではありませんよ。そのように名付けた薬です。とかく薬品の名前というものは飾り気がないものですが、これはその何と言いますか、例外的、というものですね。そのぐらいの自信の現れ、とでも言いますか。いや違うな。そうとしか言いようがない。ええ、そんなところです」


聞いたことがある。それは神話において神の国で飲まれる霊酒、不老不死の妙薬だ。

マホガニーの長テーブルに置かれた小瓶。中身を満たすのは薄桃色の薬。父は頬杖をついて、興味があるのか無いのか、しわぶき一つ漏らさず静止している。


そして男は金額を提示する。4億クローネだと。

途方もない額だ。五千万ドル相当というところか。


「最初のひと瓶は進呈いたします。ああ使い方ですか、ほら、この瓶はマニキュアのように蓋に小筆がついていまして、それでこう、舌に塗ればよろしいのです。何かの映画でそんな印象的なシーンが有りましたね。ええ、舌下錠のようなものです。飲むのはダメですよ」


一年後。男はまた屋敷にやってきた。父は黒いスーツを着た男たちをたくさん同席させ、やたらと馬鹿丁寧に男を出迎えた。


その一年後、男はまたやってきた。父と長い間話をしていたが、やがて父の凄まじい怒鳴り声が聞こえ、銀髪の男は慌てて屋敷を出ていった。


その翌日、男はまた来た。今度は父が玄関に立って男を出迎えた。

そしてその日の夜のうちに、私たちは屋敷から引っ越すこととなった。財産を失ったのだ。


「親父はね、頭痛持ちだったんだよ」


修道院が経営する慈善学校において、兄がそう話してくれた。この頃には私たちの前から父も母も去り、私は唯一の肉親である兄と一緒だった。


「ときどき、逆らいようのない激痛に襲われたのさ。人間の受ける最も苦しい痛みは頭痛らしい。その痛みは雷だとか、地震だとか、あるいは死の衝動にすら例えられるのさ。似たような症例はたくさんあるらしいが、親父のは特別だったらしい。遺伝病なんだよ。うちの家系の男にときどき現れるらしいな。女はほとんど出ないらしい」


だから、あの男から薬を買っていたのか、そう尋ねると兄は「分からない」と答えた。


「医者が完全にさじを投げてた頭痛だからね。治す方法……いや、痛みを止める方法か、そんなものあるのかどうか。それに4億クローネはいくらなんでもぼったくりが過ぎる。どれほど苦しい痛みでもそこまでは払えないよ。だいたい、そんな金があるなら、あの銀髪の小男を拉致しちまうほうが手っ取り早い。親父はこの国ではちょっとした顔役だったんだぜ。簡単なことだったはずだ」


五年後、私は慈善学校を出て、修道女として教会の事務を手伝っていた。


毎日シーツを洗い、募金を訴えて歩き、寄付の帳簿をつける日々を送っていると、ある日、店の前に胴長のリムジンが駐まる。

それは兄だった。アルマーニのスーツを着て、肩にストールをかけた兄が私を迎えに来たのだ。


「親父とお袋が死んだよ」


冬の川にて水死体で発見されたのだという。自殺なのか他殺なのかは分からず、死因が水死かどうかも正確には分からなかったという。その遺体は発見されぬまま30日以上経過していたが、氷のように冷たい川の水に浸かっていたため、不自然なほど綺麗に保存されていた。死蝋化と言うらしい。脂肪分が変質し、表面が蝋のようにつるつると変質するのだそうだ。


父には頭を掻きむしったような跡があった。体毛が無残に抜け落ち、皮膚が裂けるほど激しくだ。兄は大金をはたいて腕のいい死体修復士エンバーマーを呼び、美しく整えた二人に葬送服を着せ、生まれ故郷の墓に埋めた。


「親父はそれなりに資産を残していた。それに親父の友人だって老人が声をかけてくれてね。今はその人の手伝いをしつつ独立を考えてる。親父が持っていたシマを任せてもらえるらしい」


父と母は死んでいた。という話を私が受け入れるまでの間に、兄はたくさん話した。


「お前はどうする。カタギでいたいなら修道院に残ってもいいぞ、融資してやるよ」

「私も行くよ、兄さんを手伝う」


私の答えに兄は意外そうな顔をする。修道院にいた女がマフィアの手伝いというのはさすがに気がとがめるものがあったのか、最初は兄の経営する会社の一つに、役員という形で入社した。

兄は私には何でも話した。父から受け継いだ仕事のこと。政治家との付き合いのこと。談合のこと、街場のカジノでのトラブルのこと。


そして頭痛のこと。


「どうもダメだな。そろそろ本格的に来そうだ。アスピリンをひと瓶飲んでやっと眠れるかどうかというところさ。親父を見てたから分かるよ、きっと、もっとひどくなる」

「お医者様は何と言ってるの」

「こういう頭痛の症状は20~40代の男に見られるらしいが、これは俺達の家系に見られる遺伝病だから、同じには語れないらしいな。いちおうステロイド剤に炭酸リチウム、他にいくつか薬を用意させた。自家注射も指導を受けたよ。点鼻薬もね」

「私も少しは調べたよ、不規則な生活がよくないんでしょう?」

「酒やタバコもね。仕方ないのさ、そういうのと無縁ではいられない稼業だからな」


そして二年後。

兄はすっかり変貌していた。目の周りが深く落ちくぼみ、濃いくまができている。体は痩せて骨が浮いてきているのに、眼球だけはギラギラと光っていていつも興奮している。部屋の中を動き回り、思い出したように何かの薬を摂取する。そして自室に閉じこもることが多くなり、誰も自室に入れようとしなかった。

兄は仕方なく仕事の一部を人に任せ、週の半分ほどを郊外の屋敷に引きこもって過ごした。


あの銀髪の男が訪ねてきたのは、その頃だった。


「お久しぶりです。十年ぶりでしたか、いえ九年でしょうか」


兄は私を家から追い出し、銀髪の男と二人だけで会った。中から凄まじい怒声がとどろき、銃声まで響いたが、私ももはやファミリーの一人という認識があったため、けして警察は呼べなかった。

結局、兄は薄桃色の小瓶を買わなかった。

兄はまだファミリーを受け継いだばかりで、4億クローネという金額は到底払えるものではなかったのだ。


なぜ力づくで瓶を奪わなかったのか、兄のコネクションを使って薬の出どころを調べられなかったのか。私はいっそ不思議なほどだったが、兄はそれについては何も答えなかった。

あの瓶を売りに来た男は何者だったのだろう。昔話にあるような、不思議な品を売る魔法使いだったのか。それ以外に具体的な想像が浮かばない。


兄は伏せることが多くなり、やがて病床を離れられなくなった。あっというまの衰弱だった。父よりも症状がひどい、おそらく稼業に奔走するあまりに生活リズムが乱れていたのだ。

兄は薬を大量に摂取し、意識を混濁させていたが、それでも筆舌に尽くしがたい苦痛の訴えが繰り返された。


「お前はファミリーを離れろ」


兄が数週間ぶりに明瞭な意識を持った瞬間があり、かすむ目で私を見つけた兄は、開口一番でそう言った。


「事業は人手に渡す。お前には米ドルで二千万残してやる。アメリカにでも渡って家を建てろ。仕事を持ってもいいし、結婚して子を生んでもいい、この国には残るな」

「なぜ? 私は父さんと母さんの、代々の墓を守っていくよ。ファミリーは私が面倒を見てもいい、もう子供じゃないよ、それなりに仕事も理解してる」

「だめだ。ファミリーは男が継ぐものなんだ。この頭痛は汚らしく生きてきた一族への罰なんだ。聖痕なんだよ。見えるだろ、茨のトゲが刺さった細かい穴が」


兄は、とうてい笑顔には見えない表情で笑った。


「痛みとは、なあ、痛みとは財産だと思わないか。痛みは何かの罰だ、必ず原因があるのだとすれば、痛みとは精算なんだよ。現世での、あるいは先祖からの罪を償っている。償うことは喜びだ。俺はどうしようもない不良で、親父の言うことも聞かなかったし、カタギになるチャンスは何度もあったのに、古いツテを頼って結局この稼業に戻ってきた。だがそれも終わりだ、これで終わりなんだよ。めでたいことだ。この絶望的な痛みはついに消え去る。この世から消えるんだ、痛快じゃないか」


後半はほとんど聞き取れなかった。私はひとしきり兄が喋り終わるまで待って、乱れた布団をそっとかけ直す。


「兄さん、痛みはただの痛みだよ。意味なんか無い、耐えることに意味はないんだよ」


そして、枕元に小瓶を置く。

兄がこれ以上ないほど目を見開く。だがもはや体を起こせない。


「どうやって」

「あの人からお金を借りたの、兄さんもお世話になった父さんの友人、株の六割を担保にね。大丈夫、お金なんかいくらでも稼げる。私はそれなりに優秀な頭目になれそうだよ。ファミリーはみんな私に同情してくれてるし、それなりに仕事ぶりを買ってくれてる。この借金は、秘密にせざるを得なかったけどね」


私は兄の舌に薬を塗ろうとする。だが兄は力の入らないはずの口を引き結ぶ。


「――やめろ、そんな薬は必要ない」

「兄さん、何も悪いことじゃないよ。誰だって痛みから逃げる権利がある。痛みを忘れて生きる自由がある……」


もはや兄に抵抗できる体力は残っていなかった。私は兄の口をこじ開け、震える口元を押さえ、左手の指を三本ほど口腔に差し入れて突っかい棒にする。そして薄桃色の薬を――。







「いかがでしたか」

「死んだよ」


屋敷の外で、私は銀髪の男に告げる。


「兄は痛みが心臓を支えるハリになっていた。痛みを失った瞬間、眠るように死んだ」

「そうですか。興味深いことです。最後に安らぎを得たのだと信じましょう」

「安らぎなんかじゃなかったと思うけどね」


私は小首をかしげて、純粋な疑問として問いかける。


「あなたは何者なの? なぜ父も兄もあなたに力づくの行動が取れないの? なぜあんな薬を手に入れて、あれほどの大金を求めるの? あなたは何がしたいの?」

「ただの興味ですよ」


銀髪の小男は、独り言のように淡々と語る。


「私はルポライターの端くれでしてね。世界中の痛みにまつわる病を訪ね歩いているのです。あの万能薬ネクタルは神々の住まう山にて開発されました。まだ不完全なものですが、鎮痛だけなら完璧な効能でした。紛れもない神の御業。その奇跡を目にしたとき、激甚なる痛みの病を抱えた一族はどのように変貌するのか。痛みを消すために全財産を投げ出せるのか。家族を犠牲にできるのか。十年のお付き合いでしたが、あなたの一族は実に面白かった。私の予想通りでしたよ。あなたたちの物語に同席できて光栄でしたよ、ええ」

「そう」


不思議と、怒りは沸かなかった。

この人物は父と兄に何の恨みもないし、あの薬は人の世の摂理を外れている。一時でも痛みを忘れられたのはただの偶然。本来は無かった奇跡に過ぎない。


「予想って何なの」

「痛みは、人生それ自体と天秤にかけられる、ということですね」

「そうかな。痛みを持っていても、平然と人生を送っている人もいるよ」

「いませんよ。私はあなたの一族の頭痛について詳しく知っています。岩のように屈強な男だった、あなたのお父様の病状もね。耐えることなど不可能です」


私は、男の顔を真正面から見る。

小さな体だった。何も特別な人間には見えない、魔法使いにも神様にも程遠い。


男は私が睨みつけていることに困惑の表情を浮かべていたが。

ある一瞬を境にして、はっと目を見開く。

この病気は一族の男性によく現れ、女性にはほとんど・・・・見られない。

だが。


「いわゆる群発頭痛は眼球をえぐられるような痛みと言うけれど、この頭痛は少し違う。例えるなら耳から氷の棒を突き入れられるような痛み。眼圧が高まり、痛みは頭頂部から肩甲骨のあたりまで広範囲、とくに左側頭部に雷撃のような痛みが断続的に襲う。発作が始まると、おおよそ十五分あたり四十回の引きつるような、首の筋肉が剛直するような痛み。脳には冷ややかな感覚があって思考が千々に乱れ、歩く、立ち上がる、体をひねるなどの動作ごとにばあんと耳のそばで空気が弾けるような痛みがある……」

「あ、あなたは……」

「私には薬なんか必要ない。だからあなたも必要ない」


私は男のそばまで近づく、やろうと思えば首をかき切るぐらいはできただろう。だがそれも必要ない。私のこれからの人生に、この男はまったく必要ないのだから。


「失せろ」

「ひ――」


銀髪の男は面白いほどに動揺し、ぺたりと石畳の上に尻餅をつく。


私が最後に男を一瞥して、振り返ろうとする刹那。



拍手が。



はっと音のする方を見れば、そこには白衣を着た長身の男。

医師のような清潔な白衣に、腰までの黒髪を一本の棒のように束ねて背中に流している。


「アスクレピオス、キミの負けです。あの頭痛に耐えている人間がいるとはね」


それは東洋人のようだった。目が細くつり上がっていて、それでいて柔和な笑みを浮かべている。


「お嬢さん。どうです。我々の協力者になりませんか?」

「協力者?」

「ええ、そうしていただけるなら、一生分のネクタルを進呈いたしますよ。ネクタルは我々の目的のために生産している薬です。さらなる改良を進めている最中ですが、あなたの人生を助ける妙薬になるでしょう」


「馬鹿な! たかがマフィアの頭目! こんな小娘に何ができる!」


アスクレピオスと呼ばれた男が叫び、糸目の東洋人はかるく腕を広げて微笑む。


「我々が仲間を決める基準は存在しない・・・・・。体力や知力、経験、それとも目的の重さ、何も関係ないのですよ。決められないなら戦えばいい。走破者は走破すること以外の何も求められない。より優れた走破者が我らの仲間になる、簡単な話でしょう」

「馬鹿な、お前に何の権限がある。あるがままに生きる、それが走破者の唯一の……」

「リーダーの決定だ」


糸目の男の声が急に低くなり、ぐ、とアスクレピオスが息を呑む。


「ネクタルのサンプルを持ち出し、売りつける、それはいいだろう。だが相手の人生が破滅しうるギリギリの額を提示した。貴様、少々汚らしいな。人間の破滅を眺めて楽しむ。それをジャーナリズムとうそぶくのか。それはただのサディズムだ、愉悦に過ぎんよ。相手がマフィアなら見逃されると思ったのか。彼女の兄はまだ25歳だった」

「うぐ、だ、だが……」

「心配するな、お前は席をかけて彼女と対人戦を行う、それだけだ。勝てば何もかも忘れてやろう。リーダーは寛容だからな、私と違って」


やや凄みの効いた声を出していた東洋人の男は、私を見て、不自然なほどにこりと笑う。思惑を影に潜めるような糸目が、酷薄な印象を備えていた。


「さあお嬢さん。立ち会いは私が務めましょう。医師でありネクタルの開発者、この景龍ケイロンがね」














Tips 三大疼痛

世界三大疼痛と言われる病気は心筋梗塞、尿路結石、群発性頭痛と言われている。他に歯痛や痛風なども耐え難い痛みの病気として知られる。歯痛は人類との関係が根深く、歯痛について語られた文学作品が数多く存在する。

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