第四章 8
――そして。
「ミノタウロス、次が最後の灯明と思われます。何かが出現するはず」
かたり、と絵に描いたように出現する黒い板。道の中央に現れるそれをミノタウロスが拾った瞬間。湖全体が桜色の光に包まれる。
それまで築かれた道が急速に枝分かれし、光の波が走るように湖全体に広がる。それに伴って浮き上がる無数の社殿。様式も規模も統一性がないが、あまりにも雑多なために統一感を求める気すらも失せるような壮観さ、そして炎に炙られるように、全てが桃色の光で染め上げられる。
朱塗りの社殿も、木造りの古風な社もほんのりと桜色にまとめ上げる光の中で、牛鬼もまた雑駁ながらも風景に溶け込んでいた。現代的なスーツも、あまりにも異様な牛面も区別なく受け入れる、それは混沌が持つ美意識だ。
「クリア、ってことみたいね……」
「行ってみますか」
ミノタウロスがゴールしたのは湖の中央付近。道は網目状に水面を埋め尽くしていたため、方向さえ見定めれば折れ曲がりつつ向かえる。
道の端には黒い影が見える。
それは透き通った人影のようなもので、シルエットだけの存在ながら和装の貴人であることが雰囲気でわかった。背の高いもの、肥えたもの、老人や女性も、道のたもとに座って足先を水面に近づけ、複数人で寄り集まって盃を酌み交わしている。空気に混ざるほどにほのかな笑い声。楽しげにささやき交わす音。
いつしか桜も生まれていた。桃色の灯火を受けて美々しく咲き誇る桜の古木。それが地を這うように、あるいは天を覆うように枝を伸ばして社殿の隙間を埋めていく。
「何がしたいのコレ……桜とか人影とか今までなかったのに」
「迷宮のデザインは自由奔放です。建物が神社とかお寺ばかりですし、神様のお祭り、神霊たちの宴、そのような趣向なのかも知れませんね」
黒い人影は会話をしていたようだが、どうも現代日本語とかけ離れた言葉を話しているらしい。まったく聞き取れない。なにげに純粋なNPCを見たのは初めてだった。
中央に行けばミノタウロスはすでに姿を消しており、用済みだとばかりにパスワードの記された板だけが落ちている。本来、クリアしてしまえば用済みになる迷宮だ。クリアー後の演出など無用の長物だろうに、天塩創一の思考は相変わらず読み取れない。
「……ミノタウロスは仲間なんじゃないの? 勝手に帰っちゃうわけ?」
「仲間ではありませんよ。必要に応じて団結するだけの間柄です」
私は上方をちらりと見る。イカロは地上でダイダロスを通じてモニターしているはずだが、言葉少なげであった。どうも彼はプルートゥたちがいるときは気配を消す傾向がある。関わりたくないのだろうか。それとも何かを畏れているのか。
「私はこれで引き上げますが、ミズナ様、考えていただけましたでしょうか」
「……」
「仲間に、とは言いません。必要に応じて団結するだけですよ。この迷宮は一人二人で攻略できるものではありません。協力できる相手は多いほど良いはず」
「そうかしら」
私は山々を見渡して言う。山の麓がうっすらと桜色の光につつまれ、そこから燎原に火が広がるように桜色の光が伸び上がる。等間隔で灯明が灯され、立木が桜に変わって満開の花をつけているのだ。
やがてこの世界はすべてが永遠の桜色に包まれ、夜の底にて神の影たちが酒を交わし、つぶやきを交わしながら宴を続ける世界となるのだろう。その宴は地の果てまで、時の果てまで続くかに思われた。
「……ここ数日ね、ちょっとした浮気話の調査をしてたの、ダイダロスを使ってね」
それは把握してなかったのか、プルートゥはきょとんとした反応になる。
「あるご婦人がね、死別した旦那の遺品から、浮気の証拠写真を見つけたのよ。ご主人が若い頃、自分によく似た女と旅行している写真ね」
「はあ……? 自分と似た女性、ですか、それはタチが悪い……」
「でも違ったのよ。それはね、旦那さんの写真ですらなかった。旦那さんが、自ら探した写真なの、自分と、奥さんによく似た人物の写真をね」
端的に言うならば、あの件は美しい話とは言い難い。
それは一人の男の血のにじむような執念が成し遂げた、見事なまでの復讐だったのだ。
当初、これを愛憎渦巻くロマンスだと考えていた亜里亜は実にがっかりしていたが、そうでなければこの件をイカロに引き渡すことに同意しなかっただろう。
そこから先は、イカロに協力を仰いで調べた。彼の手業はやはり亜里亜とは比較にならず、あっという間に写真の本来の被写体を見つけ出し、すべての過程を白日のもとにさらけ出した。
SNS上には膨大な写真がある。
何気ない夫婦の写真、ありふれた家族の肖像。浮かんでは消える泡のような自撮り。
ご主人、能勢六星さんはどれほどの時間をかけてそれを見つけたのか、膨大な量の写真を一つ一つ見ていき、自分と妻に似た夫婦を見つけた。そしてSNS上でその夫妻にコミュニケーションを取り、その写真をネガごと譲ってもらったのだ。佐賀に旅行に行ったのは偶然ではない、その写真を手に入れた後に行ったのだ。
元の被写体に告げた言葉は、亡き妻との思い出の写真を紛失してしまい、せめて貴方たちの写真を代わりとしたいから。SNS上に残っていたやり取りはそんな内容だった。実に拙い嘘だが、相手方の夫婦はそんな言葉でも納得したらしい。同時期に能勢六星さんの個人口座から50万円が引き落とされていたが、納得した理由の大半はそれだろう。
「話が見えてきません……自分たちによく似た夫婦の写真を手に入れて、それを遺品に遺した、と?」
「遺品にするつもりは無かったのかも知れない。何かの折に奥さんがその写真を見つければ良かったのかも」
そう、あの夫婦はいろいろと奇妙だった。
風采の上がらない夫と、凛々しく自立した印象の妻。
なぜ夫の浮気写真の存在に、遺品を整理する段になるまで気づかなかったのか?
そして、なぜ奥さんは夫の旅行について行かなかったのか?
半分は仕事の旅行だから? 旅や乗り物が苦手だから?
どちらでもない。能勢公子さんは家にいたかったのだ。夫のいない間、あの家に。
「つまり」
プルートゥは、さすがにそれはこんな神さびた場所で、女同士でする話にしては生々しすぎたのか、眉をしかめつつ言う。
「浮気をしていたのは……奥様の方だった、と」
あの写真は、夫が用意した浮気の写真。
しかし実のところは違う。あれは妻にあてた精一杯の皮肉なのだ。私はここでお前の知らない女と過ごしている。
――お前と同じようにな。
それは実のところ、想像以上の効果を公子さんに与えたように思う。
絶対に露見していないと思っていた浮気に、夫は気付いていた、そして自分を黄泉の国から責め立てている。
それはヒエラルキーの逆転。
あくまで推測だが、風采の上がらない凡庸な男だと思っていた夫に、自分の浮気が見抜かれていた。それは公子さんの自尊心を、誇りを大きく傷つけたのかも知れない。
それならば、色々な不自然が説明できる。
なぜ夫の私物を徹底的に処分したのか。そういえば私たちは仏壇も見ていない、あの家には遺影すらなかったのではないか。それはつまり、本来の夫と、写真の中の人物が別人であると分からなくしたかったから。
そしてそもそもの起こり、なぜあの人は亜里亜にそんな話をしようとしたのか。
いくら亜里亜に只者ではない気配があると言っても、外見は小学生なのだ。
あれはつまり、聞いてくれるなら誰でも良かった。もっと言うならば、自分の語る話を鵜呑みにしてくれる相手なら誰でも良かった、そういう一幕だったのだ。
それは私たちに対する欺瞞と言うより、自分自身に向けての洗脳、そんな印象がある。
浮気をしていたのは夫であり、自分は被害者であると思いたかった。強くそう思い込み、怒りを墓石にぶつけるほどの激昂で自分を塗りつぶしてしまいたかったのではないか。
亜里亜はしかし、全ては推測に過ぎませんわ。と言うだけにとどめた。
そして今日はお茶の席に呼ばれている。明日の朝にはこの土地を離れるが、彼女たちの友人関係は良好なままで終わるのだろうと思う。亜里亜は実に立派なレディだ。女の酸いも甘いも受け止めて責めることがない。人生の深淵に渦巻く泥に足を踏み込み、泥の中でも矜持を保つ。
「その話が……どうしたと言われるのですか……?」
プルートゥは困惑している風に眉をひそめる。私は耳の裏をかるく掻いて言った。
「私はまだまだ小娘で、騙されやすい女だってことよ」
「……」
「人はみんな善良で、安易に人を騙したりしないと思っている。あらゆる言葉は信頼をもって迎えられるべきと、嘘なんてものは想像上の怪物のようなものと考えている。人を信じることが正しいのか考えたこともない。失踪した父のことだって未だに待っている。いつか帰ってきて、母の病気も治って、三人で暮らせる日が来ると思っている。だから父の残した金メダルの夢にしがみついている」
語るうちに私は自分の世界観に没入しそうになる自分に気づき、少し血が上っていた頭をかるく振って冷ます。
「良くないわよね。演算力は世界を動かすほどの力なのに、それを奪い合うゲームに参加しているのに、緊張感が足りなかったのよ。同盟にせよ敵対にせよ、慎重に考えるべきだったのに。私は考えてすらいなかった。走破者がどのような人々なのか」
「同盟は、決裂でしょうか」
それは本当に残念そうな響きの声だったので、私も胸の痛みを覚える。ゆっくりと視線を上げ、彼女を見た。美しい顔だ。額から流血してなお美しい。その血潮にはこの世の汚らわしいことなど何も含まれていない。ミルクのような鮮血だった。
「そうは言ってないわ。組むことが有利になるのは間違いないもの。でもね」
「でも?」
「大事なことがあるでしょう……? あなたのこと、私はまるで知らないもの」
「私ですか? 私は北欧にて裕福な家に生まれましたが、ゆえあって修道院に預けられ……」
「そうじゃないのよ」
出鼻をくじくような私の発言に、プルートゥは多少不満そうに口を尖らせる。
ある程度の演算力を保有する走破者は、いかなる権力や軍事力でも捉えることはできない。
それは素性や過去についてもそうだろう。情報などあやふやなものだ、魔法使いならばいくらでも書き換えられる。
だが、プルートゥの言ったあの言葉。
迷宮には誠実であるべき。
私は、その言葉だけは真実だと感じられた。あの言葉すら疑ったらもはや何もかも荒唐無稽に堕するという意味もあるが、プルートゥはともかく、この迷宮に強く魅せられ、何らかの殉教者に近い思想を持っている。そのことだけは信じられると思えた。
「一つだけ教えて、プルートゥ」
「……はい」
「私の目的はね……オリンピックで金メダルを取ることよ。そのためにダイダロスで世界を変えようとしている。では、あなたの目的は何なの? あなたはダイダロスで、世界をどのように変えたいと思っているの?」
私の言葉に。
プルートゥは私をまっすぐに見つめたまま、その表情は笑むとも怒るともつかない不可思議な停滞に入る。
それは思考を重ねていたのか、あるいは覚悟を固めていたのか、言葉に重みを持たせるために時間が必要だったのか。
大きな生き物は所作の一つ一つが大きいように、プルートゥのゆっくりとした様子が、語られることそれ自体の大きさを思わせた。不用意に口に上らせれば、言葉それ自体が山のような槌となって、世界を砕いてしまいそうな。
「私はね、ミズナ様」
そしてプルートゥの目に浮かぶ、深い悲しみの表情。
それははっきりと分かった。それは決別の悲しみ。
しょせん、走破者は並び立たぬのだと。
世界の形が変わるのは一度きりのことであり、その鍵を握るのはたった一人であるのだと、その瞳は語っていた。白磁の肌に血潮、額から流れ、目尻を伝って頬へと流れる、涙のような鮮血がそう語っていたのだ。
「世界から、死の痛みを奪いたいのですよ」
Tips 顔の類似性
都市伝説によれば自分と似た人物が世界には三人いると言われるが、顔の造作を決定する遺伝子の数は限られており、実際はもっと多くいるとも言われる。
2015年ごろから顔認識を利用した「そっくりさん探し」のアプリは散見されるようになり、登録されたデータベースの中から自分に似た顔を探すもの、自分と似た有名人を探すアプリなどが存在している。




