第四章 7
※
合宿は最終日を迎えていた。
「ミズナさんすごいですわ! 11秒7、全日本レベルですわ!」
「うん、調子上がってきたわ、合宿明けの競技会はもっと行けそう」
いつの間にか本当に私のトレーナーになってる亜里亜がウォッチを掲げ、他の部員たちもそれに群がる。しかし真夏の炎天下の中、黒のゴスロリ服で計測してる亜里亜は超人か何かだろうか。
11秒7、それだって女子としては一流のタイムだが、実際には体感でわかる。今の走りは11秒2か3だ。合宿と競技会を機に一気に才能が開花するという筋書きらしく、私がここで出すタイムはあくまでも11秒台後半でなくてはならないらしい。
本当に上手くいくのだろうか。不安はつきまとうが、今さらイカロのシナリオを外れられない。言われた通りにやるだけだ。
音が聞こえる。
足首に食い込む鉄輪と、それに触れる金属の音が。
最終日は練習もそこそこで切り上げ、打ち上げが開かれた。
競技会目前とはいえボクサーではないのだし、合宿所の広間には宴会の準備が整っている。いつもより豪華な食事と甘いジュース。念願のスイーツになぜかキャビアまである。
「さあさあ、最終日はしっかり食べて青春の思い出にするのですわ! このカブト蒸しは絶品ですわよ、イカ刺しは漁師から直接買い付けましたわ!」
割烹着を着た亜里亜は和食コーナーの担当だった。刺身の船盛りにタラバガニの炭火焼き、アワビの洗いに握り寿司まである。というか亜里亜が寿司を握っていた。もはや何が何だか分からない。
「ミズナ、競技会がんばってね!」
「めっちゃ応援するから! この調子なら全日本入りだよ!」
陸上部の部員が次々と声をかけてくる。投擲や長距離走の子も、とにかくほぼ全員だ。今回の合宿で全日本クラスの記録を出したのは私だけなので、期待されてるのだろうか。
それは顧問の先生も同じだった。顧問は30代の女性で、専門家ではないので初日と最終日だけ出張してくる形だが、同じく激しい激励を受けた。私の記録のことはすでに学園側も把握しており、合宿明けの競技会では計測も万全の態勢で行われるそうだ。例年通りなら日本陸連の役員も来るのだろう。
ふと、この部にはこんなに部員がいたんだなと気付く。
音が聞こえる。
後方にて蛇のようにのたうち、砂煙をあげる鎖の音が。
三ノ須学園は広く、陸上部は専攻種目によって練習場所が違う。短距離は人気がなかったこともあり、私はいつも数人で、あるいは一人で静かに走っていた。それすらも春の間は学内アルバイトにかまけて幽霊部員になっていたのだ。
それが今、大勢から期待されている。応援されているというのは確かに嬉しくもあり、面映ゆくもあった。
そして鎖。
それはふと立ち止まった瞬間に幻視される、私の足に繋がれた鎖。
なぜそんなイメージが見えるのか、ありもしない鎖の音が聞こえるのか、自分でもよく分からない。くすんで錆び付いた、太く重い鎖だ。
タイムをごまかしてることの罪悪感か、ゲノム編集者を縛る社会の枷か。
世間から隠れて生きてきたのに、急に多くの視線を浴びるようになったがための重圧か。
どれも正しいような気もするし、間違っている気もする。
もはや止まりはしない、最後まで戦う。
そう何度も何度も決意しているのに、鎖を引きずる音が止まない。
私を包む激励と称賛の声、それが薄膜を隔てた違う世界の出来事に思える。
私は気がそぞろになり、そして私を置いてきぼりにして宴は深まる。未来は隕石のごとく来る。
※
「ミズナ様、迷宮について解析できました」
そう告げるのはプルートゥだ。
私と亜里亜は迷宮をリタイアしているため、迷宮がクリアされないままになる事態は避けたかった。この合宿のうちに彼女たちに走破してもらっておきたい。
そう思っていたので、プルートゥの冒頭の発言に少し安堵する。
「そうなの?」
「はい、まずここは走破の迷宮でした。走りでの攻略が向いているでしょう」
ちなみに亜里亜は打ち上げの片付けのあと、能勢公子さんにお茶に誘われてるとか言って訪問着に着替えて出ていった。亜里亜は人の三倍の早さで生きてる気がする。
「ゴールはどこなの?」
「いえ、ルールが見えただけです。この映像を」
空中でピアノタッチを行うと、水上に光が延びて映像が投影される。迷宮の一角、桜色の街灯が照らしている。
「鍵はこの桜色の灯明でした。かつてのガス灯のような覆いのついた灯りですね。蝋燭の火が和紙で囲まれています」
「うん」
「和紙の模様は一つずつ違いますが、よく見てください。ここに、模様に隠れるように「九十九」と描かれています」
確かに。
富士山と桜の絵のようだが、桜の枝が奇妙にねじまがって、漢数字の九十九になっている。
映像は次々と切り替わる。神社と桜、牛車と桜、平安ふうの貴人たちの行列と桜。そして隠されている漢数字は、九十八、九十七、九十六。
「数が減っていってるわけね」
「はい、おそらくはこの数字をゼロにすることが迷宮の目的。しかし条件があります。曲がる、ということです。灯明は必ず道を挟むように、およそ50メートルから60メートルの間隔で出現します。このとき、道を直線して二つ連続でくぐった場合、数は減りません」
なるほど、見えてきた。
「つまり灯明をくぐるごとに曲がりながら、九十九の灯明をくぐればいいわけね。距離にして4950メートルから5940メートル、そこまで極端な距離でもないわね」
「すべての道と建造物が、スタートから12分で消滅するのです」
「……え?」
それが何を意味するのか、私には肌感覚として分かる。最低でも4950メートル、それを12分で?
「イカロ、男子5000メートル走の世界記録は……?」
『じ、12分37秒です、女子は14分11秒』
「……無茶よ、しかも直角のカーブを入れながらなんて……」
道幅はグリップを効かせにくい板張り、しかも数段ではあるが階段が出現することもある。亜里亜のバイクなら行けるかも知れないが、私たちはリタイアしているし……。
ざり、と音がする。
背後を見る。そこには牛頭人身の怪物、ミノタウロスが立っていた。
二メートルはある大柄な体をスーツで包み、感情の見えない獣の目で私たちを睥睨する。濡れたような黒い鼻、産毛の生えた皮膚の質感。そんなものが意識される。
合宿の間、彼の姿を見たのは二度目だった。プルートゥが彼に向き直る。
「ミノタウロス、私としては貴方が適任と思うけれど、攻略できない迷宮に何日もかけてはいられない。オリンピアのメンバーもいずれ演算力の確保のために迷宮に潜る。鉢合わせも避けたい。わかりますね? ここは全員でリタイアして、迷宮を差し替えるべきと提案します」
プルートゥのその言葉に、牛の黒曜石のような瞳が彼女を見る。
そして洞窟の奥から響くような、濁った声が。
「取る」
短い言葉だ。装飾がすべて削ぎ落とされた、むき出しの野生。
ミノタウロスは桟橋のようなスタート地点に立って、やや前傾に構える。
「……あなた、その筋肉どうやって手に入れたの?」
「……」
「ねえ、走破できるの?」
ミノタウロスは私を見ていないというより、意図的に無視する気配があった。私も少し意固地になって言葉を重ねる。
そしてミノタウロスは、根負けしたように首を回して私を見る。
「お前は」
ごふ、と息の漏れるような音。
「迷宮の走り方を、知らない」
「……?」
私だって今はロングタイツに陸上用のシューズだ。アスリートということぐらい分かるはず。私が何か知らないと……。
……。
迷宮?
そうか、もしかして……。
そしてミノタウロスが地を蹴る。
一瞬、その影に向かって風が吹くような感覚。周囲の大気が乱される。
牛鬼は手足をすさまじい勢いで振り乱し、出現していく木板の道を進撃する。
「イカロ! 観測用ドローン飛んでる!?」
『はい、映像回します』
どす、と落ちてくるのは立派なテレビ台に載った80インチの大型モニターだ。いつぞやのブラウン管テレビからだいぶ時代が進んだ。
画面が明滅し、複数の角度からミノタウロスの姿が捉えられる。直角に曲がり続けているために追尾が一瞬遅れる。
「――速い」
上体を前傾に、風圧を潜り抜けて進むような走法。
この走りはすなわち、50メートル走の走り。ショットガンダッシュだ。
100メートル走において、走者はまず45度の角度で前傾し、一次加速を得る。そして30メートルあたりで腹筋で体を起こし二次加速に移るわけだが、ミノタウロスはほとんど常に前傾姿勢を続け、さらに欄干に体も触れずに直角に曲がっている。これは体を支える強靭な筋肉と、急な制動に耐えられる体幹あっての技だ。
そして速度は尋常ではない。およそ50メートルで直角に曲がることを繰り返しながらすでに二分以上も疾走している。
「……やっぱり、これは掛け値なしの全力疾走」
なぜ気付かなかった。ここは拡張世界、現実ではない。
ならば人間は100の力を常に出し続けられるのか。もし仮に、かのウサイン・ボルトが持つ50メートル5秒47(100メートル走の前半部分での計測)のペースを常に出し続けられるとしたら。
「5000メートルを、547.00秒……9分弱!?」
だがミノタウロスの走りはまさに反射する弾丸。ジグザグに湖上を突っ走りながら、周囲に次々と社を生み出していく。平等院鳳凰堂のような横長の社殿。東大寺のような巨大なもの。複雑に絡み合った切妻屋根、短い階段をまたぎ越えて牛鬼が走る。
「ミノタウロス! 湖の外縁が近づいている! 右手に向かって!」
通信を繋いでいるのか、プルートゥが叫ぶ。
そうか、これだ。
左右に次々と出現する建物。桃色の灯火に照らし出されて桃源郷の眺めではあるが、それが周囲を見えづらくしている。しかもこの世界は夜の刻限、遠景は飾り気のない墨を塗ったような山。無闇に走れば地形に追い詰められる仕掛けか。
ミノタウロスは大きく曲がって、私たちから見て右手奥の方向へ向かう。
そこに立ちはだかる影。白塗りの城のような、三十三間堂のような建物が目の前一杯に出現する。
「――ッ!」
ミノタウロスはグリップを効かせて曲がる。木板を焦がすかと思える摩擦力だ。
「いけない、囲まれようとしている! 建物を追い越すように走って回り込んで!」
明らかに建物の出現する速度が上がっている。今まではミノタウロスの走りに追随するように生まれていたが、今は先回りするように水面に浮かび上がり、時には真正面にも出てくる。その霊廟だか御厨だか神宮だか、何でもいいが、それはこの走破者を包囲にかかる。
と、そこでミノタウロスが前傾を深くし、遠くに見える神殿の連なりに向かっていく。
「ミノタウロス! そちらは行き止まり! 道はない!」
血まみれの美女はそう叫ぶが、私には察しがついた。
ミノタウロスは前へと突っ走る。命を突き崩さんと進む闘牛のごとく。そこには二つ並んだ社殿。その中央に切れ目が見え、先刻走ってきた木板の道が見える。
そして一瞬、踏み足が既存の道に差し掛かり、そして消滅する一瞬、ミノタウロスの黒い靴、その爪先が沈み込むように見えて。
跳躍。
全身を大砲で撃ち出すような勢い、背筋を思いきりしならせてから、空中で手足を畳む。空中で歩くと例えられたバスケプレイヤーのような豪快な歩み、信じがたい滞空時間によって二つの欄干を越え、最大で道から一メートル近くも高みを飛んで、そして落水せんとする瞬間、そこに板子一枚現れて両足で降り立つ。
そして上半身の勢いが一瞬遅れてきて、さすがに前につんのめりかけるが、驚異的な背筋で体を起こし、一度するどく前方を見て、そしてまた前傾にて走り出す。
「なっ……」
跳ぶことは予想できた。
しかし、あの巨体で、あの滞空時間。私の記憶にあるどんな大会でもあんな跳躍は。
「イカロ! いまあいつ何メートル飛んだの!」
『計測します……踏み切り地点での右足爪先から、着地点で後方にあった左足踵まで……じ、10メートル17です!』
「なんと……」
その数値はさすがにプルートゥも驚愕しかない。という様子だった。
10メートル17。まさか、これから人類が100年かけてもたどり着けない世界に。
「あいつ、道が消える瞬間を見切ってた」
私は分析する。あの踏み切りの一瞬が、生まれてからもっとも印象深い一瞬のように脳裏に焼き付いている。
道が消える瞬間、あいつは板のヘリに見事に土踏まずを合わせた。そして板の側面を使い、体を前に投げるような力をプラスしたのだ。
だが、そうだとしても常識を超えている。
私は我知らず、荒い息をついていた。
ミノタウロスの疾走に、躍動に、私までが走っていると錯覚するかのように。
Tips 50メートル走
50メートル走は陸上の正式種目としては扱われず、100メートル走の前半部分などが参考記録として扱われている。
同じ短距離種目としては60メートル走が知られている。海外で1~3月に行われる室内競技会においては人気種目である。かつてはオリンピック種目でもあった。
いつの間にか連載一周年を過ぎてました、途中で休んでいた時期があったので、ずっと書いてたわけではないのですが。
ともかく一周年ということで、今後ともよろしくお願いします。




