第四章 5
山肌には丈の低い木が生えていたものの、走って降りれないほどではない。私は150メートルほどの斜面を砂埃とともにずり下りて、亜里亜はオフロード仕様のミニバイクを出現させて降りてくる。
「あれは……」
それは水の上を駆ける猛牛。
灰色のスーツでは隠しきれないほど太い脚、それを疾駆させて水面を駆ける影がある。その速度は目で追えないほど速い。
いや、その足元に次々と足場が出現している。厳島神社のように水面に浮かぶ社殿が。
そこを走るのはミノタウロス。
彼が走った後には高さ3メートルほどの灯明が灯る。透かしの入った桃色の紙で覆われた灯明が淡い光を放ち、周囲に社殿や床板を浮かび上がらせる。それまで何もなかった宵闇の水面に神社が浮かんでゆく。鍵盤のように並んだ木板の左右は平桁と擬宝珠で飾られ、立派な茅葺きの屋根も見える、あの形状は切妻屋根というのだったか。
「……いえ、何かおかしい」
走るそばから立派な水上神社が浮かび上がる。それはいいが、向こうの山肌まで見えているのだ。建物があったなら向こうの景色が見えるわけがない。
つまり、あの建物は走るのにあわせて出現している。
そしてミノタウロスが何度か方向転換し、すでにある道に差し掛かろうとした瞬間。そこにあった桜色の灯明がふっつりと消える。
「――ヌ」
牛面のつぶやき、水面を渡って届く。
ミノタウロスは革靴のつま先を削る勢いで直角に曲がり、闇夜の中で瞬時に加速。すでにできていた道と平行に走り、足元では床が生まれ、その横では欄干ごと道がどんどん消えていく。
「あれは……」
「一種のスネークゲームのようなものでしょうか。走るとそこが道になり、一度通った場所に差し掛かると消えてしまう、と」
声が背後から聞こえ、私たちは振り向く。亜里亜はすでにバイクを降りて、ゴスロリの裾をはたいていた。
「……プルートゥ」
「ご機嫌麗しゅうございます。ミズナ様。亜里亜様」
彼女は例によってパンツスーツに日本刀を佩き、全身のあちこちを血まみれの包帯で包んだ姿だった。包帯の位置はこの間見たときとほぼ同じ、その雪のように白い肌は月光の淡い光の中でもなお白く。その頬に、涙と同じ形で一筋の血が伝った。
「ふむ、ずいぶんと滅茶苦茶な構造ですね。屋根も茅葺きだったり、銅板葺きだったり瓦だったり、建築様式もいろいろな時代のものが混ざっています。この無秩序ぶりからして、様式はヒントではないということでしょうか」
プルートゥは指先を動かしてぶつぶつと呟いている。彼女もまた自分のダイダロスにアクセスしているのだろう。
「この湖の面積は約12平方キロでほぼ円形。幅10メートルでまんべんなく走破すると1200キロ。あまり現実的な数字ではありませんね。バイクを用意するべきでしょうか。社殿のどこかにゴールがあるとすれば探査用ドローンの用意も……」
亜里亜は指先を振るように動かしていたが、プルートゥはキーボードにそうするように指で宙を叩いている。操作にも個人差があるらしいが、その所作はかなりの熟練を思わせた。
「あなたたちも普通に攻略するのね」
「はい、もちろんです。一定期間、新たに迷宮を攻略しなければ演算力へのアクセス権を失いますから」
「その一定期間ってどのぐらいなの?」
なんだか情報を一方的に引き出してるようで負い目を感じるが、プルートゥの方は出し惜しみする気はないようだ。こちらを向いてにこりと笑う。相変わらず血まみれだが。
「複数の証言によれば、おおよそ40日から50日ですね。演算力へのアクセス権を失ってもまた迷宮に潜ることはできますが、それまで手にいれたパスワードはすべて無効となります。他者に奪われていた場合、奪われた分は残ります」
「演算力を身内で譲渡していた場合は? 例えば、いま演算力を行使してるのはイカロよ、イカロが私たちから奪ったという形にすれば……」
「ミズナ様、迷宮の前では誠実であるべきです」
彼女は笑顔を絶やさないが、しかしある一瞬、その表情が作り物のような、強固な仮面のように見える瞬間がある。
スーツは鎧と表現する人がいるが、彼女のその仕立てのよいパンツスーツ、包帯に覆われた体、流れる血、腰に添えられた日本刀は彼女を構成する記号であり、暗号であり、彼女が自己を分解し、走破者として再構築するための儀式なのではないかと思える。本当の彼女というものはここにはおらず、己の定義する役割の中に自己を置く、言うなれば強烈なプロ意識のようなものが感じられる人物だった。
「ダイダロスは我々を見ています。おそらくミズナ様と亜里亜様が演算力を失えば、イカロ様の扱う演算力も失われるでしょう。それは必然です。脳髄はよく迷宮の複雑さに例えられますが、複雑なものの中には知性が潜んでいるのです。小手先のことでは逃れられはしません」
「……」
それは天塩創一の意志だろうか。彼が迷宮に遺した個人認証のシステム? 私たちのグループをすでに認識している?
それともプルートゥですら実際に見たことはなく、ただ存在を確信しているだけなのだろうか。迷宮それ自体が持つ人格、魂の所在を。
ばしゃん、と水音が響き、視界の端が急に暗くなる。
「おっと、失敗のようですね」
数百メートル先に水しぶきが見える。ミノタウロスが落水したとき、周囲の建造物もすべて消えたようだ。彼は一度こちらを見たような気もしたが、ばしゃりと音を立てて水面に水柱が立ち、気配が消えた。ログアウトしたのだろう。
「ふむ、謎解き型の迷宮のようですね。あの方には向いてないようです。ですが妨害は出ていないようですし、そのうち誰かが走破するでしょう」
「妨害? 何の話ですの?」
「そういう連中がいるのですよ」
プルートゥは空中で動かす手を止めて、私たちに向き直る。
「天塩創一の迷宮には数多くの方々が挑みました。ある人間は演算力を失って脱落し、ある者は現実世界で襲われた。おおよそですが、演算力が1万台相当に満たないものは己の身を守れないのですよ」
「じゃあ、私たちは初心者卒業と思ってよろしいの?」
「はい」
プルートゥはぱちりと指を鳴らす。白塗りの丸テーブルと三脚の椅子が出現した。私たちは特に異論もなくそれに座る。プルートゥはさらに指を鳴らし、テーブルの上に小さなランプが出現する。仄白い明かりが私たちを照らし出す。
「ダイダロスが稼働中のとき、外部からのアクセスを受け付けないのはご存知ですか」
「知ってる、それで一度ピンチになったから」
プルートゥは両腕を開いて微笑む。
「あれは司法からの逆探知を防ぐ意味もありますが、本来の目的はダイダロス同士の闘いを避けるためです。つまり電子戦ですね。電子戦を認めてしまうと、演算力の多い者が世界中のダイダロスを乗っ取ってしまう、それを防ぐためかと」
「なるほど、納得ですわ」
「ダイダロスにはそのような盤外戦術を防ぐ仕様があります。そしてある程度の演算力を所持した走破者は、現実世界のあらゆる権力、軍事力をもってしても捕らえられない。できることは、迷宮で演算力を奪いあうだけです」
「その話がどう妨害に結びつくの」
私のちょっと先を急かすような物言いに、ブラッディ・ビューティは曖昧に笑う。
「この迷宮世界の頂点に君臨する、至高の走破者たちがいました」
「……」
「かつては12の席があり、演算力を等分していました。400万台相当の演算力の大半をその12人で保有していたのですよ。まだ天塩創一氏が生きていた頃のことです。天塩氏は走破者を集め、そして世界の命運を委ねた」
「命運……」
「べつに誇張ではないでしょう。演算力とは人の社会そのもの。演算力を行使する者は国家や世界をも動かすのです。天塩氏は己の考えを語ることは少ない方でしたが、少なくとも我々のリーダーだった人物は、演算力を天命と考えていた。この演算力は我々に与えられた神の雷であり、世界をより良くするために利用されねばならない、と」
「なんだか、のぼせ上がった発言だけど……」
「否定は致しません。リーダーは高揚していたようですね。そして世界中の紛争や、麻薬カルテル、ギャング間の抗争などに介入を始めたのです。最初は順調に見えましたが、やがて、我々の間に意見の隔たりが生まれ始めた」
「……」
「紛争を止めさせることが問題の解決につながるのか。対立する二者の片方を悪と断じ、正義と思しき側に肩入れすることは正しいのか。他のメンバーとリーダーは対立を深め、その中で、何人かのメンバーが消息を絶ちました。当時はダイダロス同士での敵対的なアクセスが可能であり、消息を絶ったメンバーのダイダロスには攻撃の痕跡がありました。ダイダロスを無効化された走破者は無力です。世界のどこにいても居場所を暴かれてしまう」
私はちらりと上方に意識を向ける。この会話をイカロが聞いていないはずはない。私はこの話を聞いていていいのか少し悩んだが、プルートゥはすべて承知である、という顔で私に微笑みかける。写真で見たなら雪を溶かしそうな笑顔だが、間近で受ける印象は大理石の板のようだった。暖かさと冷徹さが共存している。
「天塩創一氏がなぜ命を断ったかは不明ですが、彼は最後にダイダロス同士の電子攻撃をできなくするよう改良を施しました。リーダーのもとには数人の同志が残りましたが、有力な走破者はリーダーと反目し、アポロなどはリーダーを疎ましく思って離れていきました。かのグループは解散したのです。私が走破者となった頃はすでにメンバーがいくらか残存しているのみでした」
「ミノタウロスは何なの?」
「あの方の素性は本当に存じません。一介の走破者はけっこうな頻度で出現しますが、彼は目覚ましい速さで演算力を集めています。私は彼に接触し、迷宮の秩序のために協力いただいているのですよ」
「……ああ、なんだっけ、美学がどうとか」
プルートゥは説明を少し恥ずかしがるように、はにかみつつ頭をかく。指先にべっとりと血が付着したが、夜のために赤が見えにくかったのは幸いだった。
「基準はいくつかあります。初心者を現実世界で攻撃しないこと。走破者でないものを巻き込まないこと。そして妨害行為を行わないことです」
「妨害……そこでその話に繋がるのね」
「はい」
私にもプルートゥの意図が分かってきた。彼女は要するに私たちを味方に引き込みたいのだ。そのために徒党を組み、知識を共有しようとしている。
つまり彼女の敵対している存在はそれほどに大きく、脅威であることの現れだろう。
「迷宮は走破者が一人しかいないときにリタイアされると別なものに差し替えられますが、誰かがログインしていた場合はそのままです」
「……なるほど、迷宮を差し替えさせないよう、ログインしつづけるわけね」
「察しがよろしいですね。そう、数人のグループが迷宮に入れ替わりで滞在して差し替えを許さない、あるいはゴール地点に陣取り、他のプレイヤーを排除し続ける。これなら他のプレイヤーはいつかアクセス権を失います」
「そんな手段でうまくいくの? 40日近くも守り続けるんでしょ?」
「合理的ではありませんが、警戒はしております。ここ最近。走破者たちの動きが活発になっているのです。走破者同士の対人戦がなかなか発生せず、状況が煮詰まっていることに業を煮やしたのか、あるいは現実世界で何かが起きる前兆なのか。かつてのメンバーとも連絡が取れないままです」
「かつてのメンバー……走破者の集団、だったわね」
「はい、かつてのリーダーはその集団を、この世の頂きに座すものと定義しました。あまりにも自惚れた、奢りが過ぎる定義ですが、リーダーにはそのぐらいの万能感があったのです。神の雷を振るい、迷宮を支配する我々は」
「……」
「自らを、オリンピアと呼んでいました」
Tips スネークゲーム
ゲームの形態の一つ、ヘビゲームとも言う。蛇のような体の長いユニットを操ってフィールド内を歩き回り、エサを食べ続けることが主な目的となる。蛇の体はエサを食べるごとに段々と長くなっていき、障害物や自分の体を通り抜けることはできない。
原点と言われるのは1976年に発売されたブロッケード(Blockade)というゲーム。これは対人ゲームであり、互いに走った軌跡がブロックとして残り、相手をそれ以上動けないように封じ込めれば勝利となる。ブロック崩しなどに並ぶ最古のゲームの一つである。




