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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
第四章 夜遊無垠の邦
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第四章 3




「なっ……」


私も流石にあっけにとられる。なんという強烈な一撃。人間なら頭がかち割れていた勢いだ。

老婦人は肩で大きく息をして、奥歯を噛みしめる気配がある。

そういう激昂はごく短かった。激しい表情をすっと奥に隠してその場にかがみ込み、白い手袋をはめて、散乱した酒瓶の破片を丁寧に片付け始める。


「ちょ、ちょっと、行きましょうよ、覗き見しちゃダメなやつよ」


藪の前にかがみ込んでいた亜里亜はしかし、その頭頂部からぴんと毛を一本立てる。

そして振り向いた彼女の目は大きく見開かれ、表面張力で震える水のようにうるんで見えた。


「……ミズナさん、分かりませんの?」

「な、何が?」

「あれはラブですわ」


…………


……


「は?」

「あれこそ女の怒りですわ、死の棘ですわ、水増(みずま)す雨の愛憎ですわ、激しい怒りは激しいラブがあってこそ生まれるのですわ、あれはラブ&ロマンスの一場面なのですわ」

「パッション&バイオレンスにしか見えなかったけど」


と、亜里亜はヤブの中にがさがさと踏み込んでいく、ちょっとちょっと!


「そこのあなた!」


いきなりヤブから出てきた少女に呼びかけられて、老婦人はわずかに身をこわばらせる。

しかしそれも一瞬だった。この婦人は表面的な動揺や感情の乱れを抑え込める強い意志がある。まだ着物の裾を酒で濡らしたままで、耳のあたりの髪のほつれを整えて言う。


「何かしら?」

「見たところ愛についてお悩みのようですわね! それももはや解決しようもない深い愛憎! どこにも行き場のないマグマのような怒り! そういうものを抱えていると見ましたわ!」


あのわずかの観察でそんなことまで分かったのだろうか。

ともかく放っても置けない、私もヤブをまたぎ超えて霊園に入る。


「あなたのその悩み、怒り、どうにもならないこの世の理不尽さ、出口の見えない迷宮ならば、せめて誰かに話すべきですわ! 話すことで心が軽くなることもありましてよ! 同じ女としてその怒りを分かち合えるつもりですわ!」

「……あなたが?」


警戒するような言葉は当然だろう。亜里亜の外見は十歳そこそこの女の子なのだ。

しかしそこはさすが亜里亜というべきか、婦人は意外そうな顔をしたものの、簡単にあしらうような素振りはなかった。亜里亜の目をまっすぐに見つめて、握っていた拳を静かにほどく。


「……家はすぐそこです。よければどうぞ」


えっ嘘、受け入れた?

外見よりも精神年齢の高い亜里亜が放つ気配のゆえか、死と暗黒を織り込んだゴスロリ服の魔力か、それとも女同士の話に年齢は関係ないとかそういう理屈だろうか。

そして私たちは黄昏時を過ぎて、闇の足音迫る刻限の中を歩き出す。


「……ああもう、イカロに遅れるって連絡入れとかないと……」





たどり着いたのは町外れではあったが、立派な日本家屋である。高い生け垣に囲まれた波のような瓦屋根。昭和期の古い家電や古民具などがそれとなく置かれており、掛け軸や壺などの調度に風格を感じる。床の間には赤が強めのアンスリウムが生けられていた。


婦人は鉄瓶からお茶を注ぎ、私たちは立派な黒壇のローテーブルを囲う。


「けっこうなお茶ですわ。深蒸しですわね」

「ええ、以前に勤めていた茶園のものです。そちらのお嬢さんはこちらを」


私と亜里亜のお茶は色が違った。飲んでみるとカフェインレスの緑茶だ。合宿で来ている人間だと見抜いて気を使ってくれたらしい。


「私は能勢のぜ公子きみこと申します。この町にて茶園に勤めておりましたが、78になった今では隠居の身です」


78、という年齢に私は少なからず驚く。しゃんと伸びた腰、薄いけれどきちんと施された化粧、髪も小高く結い上げて立ち居振る舞いにスキがない。小皺も少なく、せいぜい60過ぎかと思っていたからだ。


私たちもそれぞれ名乗る。肩書としては三ノ須の生徒とだけ伝えた。


「お見受けしたところ、旦那さまのことで怒りを覚えておいでとお察しいたしますわ」


亜里亜がいきなり踏み込む、なぜそんなこと分かったんだろう。


「察しの良い方ですね。いえ、それも当然かしら。あのような場所で感情を(あらわ)にするなど、亭主のことしかありえないでしょう」


そういうものなんだ。私ってもしかしてヒヨっ子なのかな……。


「私と亭主はともにこの町に生まれました。大きな街からは離れていますけど、静かで穏やかな良い街だったと思っています。日本代表の合宿が行われている時期には観光客なども見えて、私どもの茶園にもお客様が増えたものです」


能勢夫人はローテーブルに座り、腰をぴしりと伸ばしたまま話す。その着物は浅葱色のものに変わっていた。今では先ほどの激情の名残もない。


「あの方は茶園の社員でした。製茶というのは一年を通して仕事があるのです。本業の茶摘みと工場での製茶だけでも数多くの工程がありますが、それ以外に茶畑の草刈り、機械の手入れ、直売店での販売業などもあります。私たちはとにかく忙しかった。あの方と親しくなった後も、逢瀬を重ねることは少なかった。あの方と結ばれたのは私が21、あの方が24の頃です。結婚式も身内だけのささやかなもので、一泊二日の温泉が新婚旅行でした。ですがそれでも良かった。二人とも仕事に明け暮れるだけの情熱があり、若さがあったから」

「素敵なお話ですわね。きっと応援したくなるような活気ある茶園だったのでしょうね」


聞き手はおもに亜里亜だった。私よりは頭二つほど背が低いのに、ゴスロリ服でそうして座っていると能勢夫人に貫禄負けしていない。

なんだか私のほうが小娘になってしまったような感覚がある。それは錯覚ではないのかも知れない。


「私どもは茶園を退職したあとも、この町に住み続けました。子供には恵まれなかったけれど、あの人と慎ましく静かに暮らしていたのです。私は相談役として会社に残り、またお茶の許状も取って茶道教室を開いておりました」


なんだか遠回しな語りである。旦那さんについてなかなか話が踏み込まない。あとで亜里亜に聞いたところによれば、「話すための勇気を絞っていたのですわ」だそうだ。


「そして二年前、亭主が他界いたしました」


確かご亭主は三歳歳上だったはず。それで二年前に他界ということはええと、没年は79歳か。


「先日、三回忌を済ませました。親戚にも乏しい私ですから、亭主の墓は私がずっと守っていくことになるでしょう」


そこで声が重くなったことは私にも分かった。


「しかし私は辛いのです、あの人が、私をずっと偽っていたから」

「それは……」


声が漏れる。さすがに、そこまで言われて察しないほど浮世離れしていない。

ご主人が浮気をしていた、そう言うことだろう。


亜里亜がテーブルの上を滑るような声で問いかける。


「差し出がましいようですが、確証はございますの?」

「はい」


きっぱりとそう言う。能勢夫人は立ち上がり、後ろの棚から菓子箱を取り出した。

中身は書類か何かかと思ったが、写真が数枚だけだった。今どき珍しいアナログ写真だ。


一枚を見る。そこには紺色のジャケットを羽織り、明るい茶の革靴を履いた男性。それと、肩に頭を預けてもたれかかる女性が写っている。花柄の長いスカートに白のチェーンバッグ。どことなく知的で凛々しい顔立ちながらも、華やいだ楽しげな顔である。


「あら? これって能勢さんじゃありませんこと?」


確かに、二人とも若いが、女性の方の強い印象は共通している、能勢公子さんだ。


……いや。

でも少し、違う……。


二人の背景には赤いやぐらが組まれた神社の社殿がある。清水寺かと思ったが、少し違うような。


「そこは、佐賀県の祐徳稲荷神社です」


能勢さんは、いや、夫婦の話だから公子さんと呼ぶべきか、ともかく彼女は拳を震わせ、激情を押さえつつ語る。


「私たちはあまり旅行をしませんでしたが、亭主は見識を深めるため、地方の茶の生産地を巡ることがありました。京都の宇治、三重県の伊勢、その旅行では福岡の八女(やめ)茶や、佐賀の嬉野(うれしの)茶について学んできておりました」


公子さんは数枚の写真を広げる。吉野ヶ里公園、御船山楽園、大興善寺、ご主人はまだ30代前半の頃と考えると渋いチョイスだが、茶園の社員として見聞を広める旅ならこういうルートにもなるか。

そして、その横にはいつも同じ女性がいる。一見すると公子さんだが、何枚も見れば分かってきた、これは……。


「公子さんじゃないですね……誰か、違う女性」

「そうです」


少し身をすくませる、公子さんの声は氷のように冷たい。


「私とて男のそうした習性……やるせない(さが)をまったく理解しないとは言わない。旅先で浮わついた気持ちになり、行きずりの女性と行動を共にする、そこまでなら寛恕(かんじょ)しなくもない」


……しかし、この女性は公子さんに似ている(・・・・)

それが女性としてどれほどの侮辱か、まだ私には計り知れないが、計り知れないほど巨大だと言うことは分かる。


「しかも、この女性は昨日今日出会ったという雰囲気ではありません。亭主はきっと何度も逢瀬を重ねていた。宇治で、三重で、加賀で、狭山で、私をずっと裏切り続けていたのです」


確かに。

親しげに腕を絡める様子、にこやかに笑みを向け合う様子、初対面という様子ではない。何もかも分かり合い、心を一つとする睦まじい間柄、そのように見えてしまう。


「私とて死人を恨むほど暇ではありません。浮気相手を今さら探す気もない、そもそも生きているのかどうか、ですが……」


ローテーブルの上で握られた公子さんの拳。

亜里亜が体を伸ばして、それを両手で包み込む。


そして公子さんは、己とご主人の人生、足せば150年を越えようかという長い長い旅路を苦々しく振り返り、ただ一言、血を吐くように言った。


「ただ、辛い」





「いやあ……なんというか、凄い話だったわね」


私たちはすっかり日の落ちつつある夜道を歩く、イカロの待っている場所に着くのは8時半ぐらいだろうか。夜は10時には寝たいし、今日はほとんど迷宮に潜れないだろうなと考える。


「……ミズナさん、あの話どう思いまして?」

「うーん、男って馬鹿だなあと。写真なんか死ぬ前に処分しておけばいいのに。というか浮気相手との記念写真なんか撮ってんじゃないわよ、って感じ」

「……私は、あの写真の中の二人が愛し合ってるように見えましたわ」

「仲良さそうだったわね、腕とか組んじゃって、まあ憎たらしいったら」

「おかしくありませんこと? 浮気相手とそんな親しげに過ごしていながら、あの公子さんと50年以上連れ添うなんて。あの理知的な公子さんが、浮気にまったく気づかなかったなんて」

「それは、でも……。仕事一筋の人だったみたいだし、浮気なんてカケラも考えなかったんじゃない?」

「これは、調べてみる必要がありますわね」

「え?」


亜里亜は飛ぶように数歩ぴょんぴょんと跳ね、ゴスロリの裾をひるがえして振り向く。夜闇の中ではそのような動作はどこか儀式めくような、あるいは小悪魔が羽根を広げるような怪しさを宿す。

振り向く一瞬、大人の姿になった亜里亜が幻視される。その唇は赤らみ、紫のリボンは葬送のごとき装いの中での戯れを表す。死と退廃の中で安らぐような、月を背景に踊り出すようなルナティックな気配。


「この強固なる難問。挑んでみる価値はありますわ。果たして能勢氏は不貞を働いたのか、あの写真は何を語るのか、ダイダロスならば解き明かせるかも知れませんわ。さあミズナさん、これもまた人生という大いなる迷宮、走破者として逃れることは許されませんことよ」


亜里亜は舞踏会のようにうやうやしく手を差し出し、私は夜風に吹かれつつ、こう答えた。





「めんどいんだけど」

「そこは嘘でも乗ってくださる?」














Tips 写真の寿命

一般的なプリント仕上げの写真は銀塩写真と言われ、ハロゲン化銀を用いた印画紙を発色させる方式である。

その寿命は丁寧に保存すれば100年とも言われるが、現実的には空気や紫外線による劣化を防ぐことは難しく、早ければ50年ほどで褪色(たいしょく)が目立ってくる。

家庭用プリンターで紙に印刷した場合は10年程度、早ければ数ヵ月で褪色が始まることもある。


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