第四章 1
ただ一つの目標を抱いて生きている。
あの夜に見上げた月のように、あの夏の日に見た向日葵のように、心に残る鮮烈な記憶。
それはまばゆき価値、得がたき財宝、目もくらむような栄誉。
それこそが人生のゴール。
ゴールを切る他には何もいらない。財産、家族、長命、あるいは歴史に残る偉大な仕事。そんなものすら霞む一瞬の栄光。永遠に続くような一秒。
どれだけ遠く険しくとも、求め続けるのか。
他のすべてを犠牲にするとしても、求めずにはいられないのか。
そのゴールが誰かから受け継いだものだとしても、魂に刻まれた呪いだったとしても、醜くしがみつくのか。
では、ゴールに至った先に何があるのか。
あるいはゴールテープの先に幸福などなく、人生の肯定にも至らないとしたら。
まだまだトラックは続き、さらなる遠方に第二、第三のゴールが見えるだけだとしたら。
どうでもいい。
ゴールテープを切れば、きっと世界はそこで終わる。何もかも真っ暗になって、永遠にそのまま不変なのだろう。
私は、炎に飛び込む虫でありたい。
※
トラックを駆ける。
60メートルを過ぎて腹筋でフォームを起こし、勢いのままに駆け抜ける。ビームユニットの赤外線を一瞬だけ遮ってゴール。タータンの上でスパイクを踏み鳴らしつつゆっくりと止まる。
「うわ、ミズナまた記録伸びてるよ、11秒71」
陸上部の子がストップウォッチを掲げつつ言う。
「そう、ありがとう」
心が痛む。意図的に力を抑えて走っているからだ。
季節は七月。夏の日差しがこの巨大校をまんべんなく包み、ほどよく蒸し焼きにしようとたくらむ日々。
私は陸上部への参加率を増やしていた。
生徒数40870人、この三ノ須学園のような巨大校においては、昔のような体育会系らしい練習風景というのは見られなくなった。年に何度かある学内競技会で結果を残せば、それは公式記録として日本陸連にも記録される。それ以外では特に課せられた練習メニューというものはなく、豊富な設備を利用して自主トレをしたり、個人でマネージャーを雇って練習を管理している選手もいる。要するに本格的にやっている選手以外は運動部など入らないのだ。
こうして部活に出ているのは、記録会への参加資格を得るためだった。
大雑把に言って女子100メートルの場合、13秒台で走れれば高校クラスではかなり早いと言える。
11秒台が出れば日本でも有数の選手。日本人で10秒台を出した選手はまだ誰もいない。
そして誰にも知られぬよう続けている個人トレーニングにおいては、私の記録は10秒7を切りつつある。
「すごいじゃん、これなら合宿明けの競技会でトップ取れるかも」
「ありがとう」
両親がゲノム編集を受けている私が走ること、そこに何らの罪悪感を抱かないわけではない。己の存在自体が何か卑怯なことなのではないか、私に負けてしまった子たちが心安らかでいられるか、そういうことを考えると心にもやもやとした闇が降りる。
一つだけ救いと言えることは、三ノ須においては女子スプリント競技の人口が極端に少なかったことだ。スポーツ特待のスプリントで入学したのは私だけ。他に12秒台に到れる選手もいなかった。
「でも短距離だけなの? 跳躍とかも勧められてたじゃん」
「それもやるよ。でも100メートルのほうにウェイトを置きたいの」
私はすぐさま日陰に入り、足を伸ばして完全な休息状態になる。
陸上において絶対則というものがある。短距離選手は基本的に体力がない。
短距離選手の体は筋肉の塊であり、瞬発力を生み出す速筋で出来ている。有酸素運動を行うとこれが遅筋に変わり、また育てた筋肉をエネルギー源として消費してしまうため、筋量が減ってしまう。
100メートル走と400メートル走ですらふさわしい筋肉の構成は全く異なる。私のような100メートル専門なら尚更だ。
そんなわけで、スプリンターはジャンパーを兼ねることも多いが、私は練習のほとんどを100メートル走に振り分けていた。ちなみに走り幅跳びの自己ベストは6メートル74だ。部活で見せたことはない。
練習は終わる、まだ日の長い夏場においては青い空が保たれていた。
私は着替えてから廊下に出て、何気なく存在しているドアに手をかけ、ドアノブに仕込まれた静脈認証をパスする。開けた先には地下への階段、30段ほど降りていけばそこはトンネルのような通路だった。電気で走行する自動運転車が待機している。
乗り込んで10分ほど、唐突に出現するのは開けた地下の空間と、黒塗りの大扉である。そこにも指紋と虹彩での生体認証があり、通り抜ければコンクリートが打ちっぱなしになってる簡素なロビー。
そこから奥に行けば広間があり、ホワイトボード型端末のダイダロスが置かれている。暖かな絨毯の上には大きめのビーズクッション。ダイダロスは二台が平行に、その間に少年の細い足が見えた。
「あ、ミズナさん、お疲れさまです」
ひょいと顔を見せ、仕事場のような挨拶をするのは初等部の天塩五神楼。このホワイトボード型端末は高性能コンピュータでもあり、イカロの細腕がその表面を走ると、様々なアプリが走って世界に電子の腕を伸ばす。
「また来ましたの! 今日はイカロさまと水入らずでしたのに!」
部屋の右奥にはティーセットの乗ったテーブルがあり、大きく床に広がった漆黒のドレスと、胸元を飾る紫のリボン、ゴスロリ姿の利根亜里亜がケーキとお茶をたしなんでいた。
「スプリントの練習ってそんなに長時間やらないからね……寮でマシントレーニングと柔軟はやるけど」
私は制服姿だった。自分でも思うがあまりセーラー服は似合わない。手近なビーズクッションに腰掛けて体を休める。
「それで、ここが新しい住居ってことでいいのね?」
「はい、ここが最もセキュリティに優れています。十分な演算力を警戒に回していますので、この三ノ須の半径20キロ以内に入った人間はすべて捕捉できています」
かつて天塩創一という天才がいた。
今は鬼籍に入ったらしいが、彼が残した遺産こそがホワイトボード型端末「ダイダロス」によってアクセスできる演算力である。
仮想通貨のマイニングのために存在する世界中のサーバーマシン群、それに仕掛けられたトロイの木馬により演算力の一部を利用できる。そうして集まったのはサーバーマシン400万台分にも及ぶ演算力である。単純なFLOPSで表現できる能力ではないらしいが、それはまさに現代における魔法だった。あらゆる電脳領域にアクセスし、あらゆるパスワードやセキュリティは意味を持たず、どのような情報をも瞬時に見つけ出す。
私とイカロ、そして亜里亜は天塩創一の遺した「迷宮」に挑み、その報酬である演算力を求める「走破者」である。
私たちは演算力と同時に巨額の資金をも手にしている。この三ノ須学園は、事実上イカロが所有しているのだという。
もっとも経営のトップですらそのことは知らず、こうして学園内のあちこちに作られている隠し通路や隠し部屋も、放水路だとか非常用シェルターとして記録されている。
「それで、調子はどう?」
「はい、おおよそのストーリーテリングは終了しました」
イカロが言い、ダイダロスの一台を私の方へ向ける。
「三ノ須学園で8月頭に開かれる競技会は、日本陸連の公式記録として残るものです。ミズナさんにはこれに参加していただき、10秒台のタイムを出していただきます」
10秒台、出せれば日本代表は間違いないと言えるタイムだ。
だが問題はJOC、日本オリンピック委員会が私の代表入りを認めるかどうか。
私の目標であるオリンピックでの金メダル獲得、そのために立ちはだかるのは両親がゲノム編集を受けた存在だということ。私自身は遺伝子処理を受けていないが、私の遺伝子配列には自然界ではありえないパターンが見られる。それはWADA、世界アンチ・ドーピング機構の指針に反するのだが……。
「大丈夫です。すでに世論はかなり醸成されており、今もっともホットな話題となっています。イギリスとフランス、ガーナ、パラグアイなどでは公的にゲノム編集者の代表入りを宣言しました」
いくつかの新聞記事が出現する。やり投げ、マラソン、柔道、ボクシングなどにおいて、ゲノム編集を受けた選手の出場を報じる記事だ。
「WADAも態度を保留していますが、三年後のオリンピックまでには間に合う可能性が高いでしょう」
そう、オリンピックは三年後、私が20歳の時に開かれる。
WADAとIOCが三年で指針を変えるとすればかなり劇的な変化だ。ダイダロスの力もさることながら、すでに世の中にゲノム編集が広まっており、選手たちが世に出てくる時期だった、そういうことかも知れない。
スプリント競技におけるピークは20代前半、しかし次の次の五輪、24歳になるまで待っていては世の中がどう変化するか分からない。それに私だって自分が無敵だなどとうぬぼれてはいない。七年も経てば私より速い選手だって生まれかねないだろう。三年後というのは絶妙なラインだ。
「この時流の変化に乗り、ゲノム編集を受けたアスリートを国が推し出すことになれば、ゲノム編集者の人権やアイデンティティを保護する先進的な国家だとアピールすることに繋がります。その流れで行こうと思います」
「そう上手く行くかしら」
それはするりと滑り出てきた言葉だった。
かつて幾度となく起きた議論。義足の選手はスプリント競技において有利ではないのか。男性として生まれた性同一性障害の選手が、女子競技に出ることに不公平さはないのか。
そのような議論がまた巻き起こることは目に見えている。何よりも恐れるのは現役で世界のトップに居る選手たちだ。彼らは国民的な人気を持ち、世論を大きく動かす。彼らを打ち負かすようなニューカマーを、世界は受け入れるだろうか。
孤独はどこまでも追ってくる。
世界に自分一人しかいないかのような冷たい風、それが体を吹き抜ける。
世界は私を受け入れるのか。私自身に、世界に飛び込んでいく度胸があるのか……。
「――大丈夫です」
イカロは言う。あどけなさの残る顔立ち、どこか怯えるように小さくなる瞬間があるが、ダイダロスに触れているときの彼は不思議な自信に満ち溢れている。
「なぜ大丈夫なの?」
「ダイダロスがそのように回答したからです」
「……」
「それよりミズナさん、三ノ須の競技会には陸上部での活動実績が必要と聞いています。ミズナさんは部活への参加日数があまりないので、夏合宿に参加する必要があるはずですが……」
私はうなずく。イカロは私との会話とは別に何かの演算を続けており、それを何となく眉根を寄せて見つめる。
イカロはダイダロスを信じ切っている。その演算装置は彼の一部であり、ダイダロスの答えたことが彼の答え、そこに危うさを感じる瞬間もある。
イカロがなぜ迷宮に挑むのか、過去に何があったのか、それをまだ聞けていない。
イカロの小柄な体は繊細なガラス細工のようにも思える。何となく目が離せない、それも彼と一緒にいる理由であると、それは言い訳だろうか。私と彼は互いに利用し合うだけの存在、それもまた一面の真実だ。
「夏合宿は隣の県、山奥にある合宿場なんだけど……」
「はい、すでに調査済みです。周辺に監視設備を配置しています。カメラや対人センサーなど、セキュリティのために」
「まったく仕方ないですわね。イカロ様とアバンチュールなデートを重ねたかったですわ、山なんてオシャレじゃありませんことよ」
二人のそのような物言いに、私は「え」という顔になる。
「えっと……あなたたち、もしかして」
「はい」
イカロは、何事でもないように言った。
「僕たちも、お供させていただきます」
Tips 遅筋と速筋
人間の筋肉は大きく分けて持久力に強い遅筋、瞬発力に優れる速筋である。遅筋は鍛えてもほとんど太くならず、有酸素運動の際に使われる。速筋は鍛えると太く大きくなり、無酸素運動に使われる。
陸上選手で見た場合、長距離走選手は細身に見え、スプリンターは筋骨隆々な印象がある。
筋肉量は20代をピークとして30代からは徐々に失われていく。このときに失われるのはおもに速筋である。
章タイトルの読みは「やゆうむぎんのくに」です
夜遊とは夜の宴、垠とは地の果て、無垠とはどこまでも果てしなく、のような意味です。




