第三章 9
「生と死……」
私がそう呟くとき、アポロが大きく後ろに飛ぶ。両断されかけた体がくっつき、継ぎ目に肉が盛り上がって再生しながら、口の端に犬歯を見せて怒りの形相に。
「さすがはアポロ、並の走破者なら身体感覚を取り戻すのに数分を要するのですが」
「くそ――なぜ貴様たちが」
「私どもだけではありませんよ」
かつ、という音がする。
それは聞き覚えがある。スパイクの金具が硬いものに触れる音だ。私は振り向いて――。
「な……」
そして硬直する。
そこにいたのは、牛だ。
いや――正確には牛の頭部だけ、それがスーツ姿の人物の首から上についている。
それは仮面なのか、あるいは本当にそのような異形なのか、うぶ毛のような茶の体毛が茂る肌。荒い息を漏らす黒い鼻、濡れたような漆黒の角は反り返って天を示す。仕立ての良いフォーマルな装いに牛の頭、そのギャップに常識が揺さぶられる。
――こいつは。
私には分かる。こいつのスーツの内側、とてつもない筋肉の塊。それはボディビルダーのような膨れ上がった筋肉? レスラーのように分厚い鎧の筋肉? アスリートのように絞り込まれた筋肉?
どれとも違う、こいつは、人間の常識を遥かに超えるほどの……。
プルートゥが口を開く。
「ミノタウロス社を葬っていただいたことは感謝していたのですよ。少々、現実世界での振る舞いが不埒極まるものでしたからね。彼も憤りがあったことでしょう。何しろキャラが……被っていましたから」
プルートゥは苦笑を漏らしたようだが、私はその牛頭人身の怪物から目が離せない。金縛りにかかったと言ってもいい。ポケットに手を突っ込んだ無造作な立ち姿が、まるで前足で地面をかく闘牛の雄牛に見える。そして怪物はゆっくりと腰を落とし、アポロがわずかにうめく声が聞こえ――。
疾走る。
影すらも残さぬ踏み込み。その瞬発力は弾丸のごとく。
アポロは回避しようとしただろうか、あるいは武器で迎撃、あるいは防御。
そしてそれは一瞬で終わる。激しい衝撃音に牛鬼の残像を目で追えば。
「――が」
アポロの胸部を怪物の角が貫いている。噴水のように背中から噴き出す鮮血。
見えなかった、この私が。あれはまるでF1マシンに思えるほどの――。
「なぜ――なぜだ、僕たち走破者に法など意味を持たないはず。あるがままに生きること――それ、だけが走破者の矜持。お前がなぜ介入する。倒される、べき悪。悪徳と退廃の化身である、はずの――お前が」
「理由など」
その牛が、泥を吐くような濁った声で言う。
「無い」
角を突き刺したままアポロの体を持ち上げる。俊敏さが求められるテニスプレイヤーとはいえ、80キロはあるアポロを軽々と、首の力だけで上げるのか。獲物の内臓をかき回し、この夕映えの世界で血と畏れを大地に振り撒くのか。
「あっ……が、うぐああああああっ!」
アポロが牛鬼の背中をかきむしり、脚が空を切って暴れる。確実に心臓を貫かれているのにまだ暴れている。あれでまだ死に抗えるのか。
しかしそれは無限ではないようだ。アポロの手足から力が失われつつある。
ついに諦めたのか、いちど固く奥歯を噛み締め、憤怒のような憎悪のような、くろぐろとした感情を目の端に残して消える。おそらくは大量の演算力を死と再生に注ぎ込み、ごっそりとそれを失うであろうことに歯噛みしながら。
そしてアポロの姿が消え、ただ流した血だけがミノタウロスの全身を濡らし、スーツを赤黒く染めていく。
プルートゥがほうと息を吐き、上気した顔で声を放つ。
「かのパブロ・ピカソは後半生にミノタウロスをよく画題としました。牛頭人身の怪物、それは人間の悪徳の象徴であり、暴虐と淫蕩、破壊と混沌を表す。しかしそれは旧態依然とした秩序を破る純粋なエネルギーでもあります。端的に言ってしまえば、彼はただ単に暴れて喰らいたいだけ。それ以外で行動を解釈するなど無意味なのかもしれませんね」
その言葉はプルートゥ自身の興奮の発露だったのかもしれない、あまり意味がないようにも思えた。プルートゥは私のほうを振り向く、ぴしゃりと血の飛沫が地面に飛んだ。
「お怪我はありませんか、ミズナ様」
「そのミズナ様っての何なの……あなたのこと知らないんだけど」
言いつつ、私はプルートゥとノー・クラートという人物を交互に警戒する。
そのノー・クラートのほうは背後を見ていた。まだ倒れたままもがく傭兵がいる。ノーはそちらに手を伸ばす。
「軍隊蟻」
その影が伸びる。この夕映えの世界では全員の影が長いが、それが二股に枝分かれして男の方に伸びていく。
「ひ――」
向かってくる男は何かを察したのか、逃げようともがくかに見えたが、その体を黒い影が覆いつくすまで数秒。
何かしら叫びが聞こえたような気がする。しかし今もなお下方から地響きが聞こえている中で、それは私の耳には届かなかった。影はするりと縮んでノーの足元に戻る。傭兵の男の姿はすでになかった。
「何なの、あの女……」
「ノー・クラートは蟻使いです。繁栄と呼ばれる蟻を操ります。もっとも生物という意味ではありません。群体型ロボットですよ」
プルートゥはずっと朗らかに笑っている。喜の感情と受け取っていいのか。それとも表情を作っているのか。
「……さっき空中から現れたのも蟻なの? その……繁栄とかいう」
「はい、隠密効果を持つ蟻です。光学迷彩と言えば通りが良いでしょうか」
「そう、それで……」
私は牛を見る。いや、あの民間軍事企業はもはや瓦解するだろう。だから私も、彼をやはりその名で呼ばねばなるまい。
「ミノタウロス……」
「彼のことは私たちもよく存じません。我々は走破者であり、迷宮の秩序を守るためにときに団結いたしますが、根本は競い合う関係であり決して仲間ではないのです」
ミノタウロスはもはや興味を失ったかのように、踵を返すと同時に姿を消す。反対に近づいてくるのはノー・クラートだ。
しずしずと歩いて私のそばまで来て、じっと立ち尽くす。彼女はかなり背が高く、167ある私をわずかに見下ろすほどもある。
「……」
「な、なによ……?」
その口が、静かに動いて言葉を刻んだ。彼女は北欧系の顔立ちだが、日本語の唇の形だと分かる。ゆっくりと一音ずつ。
「……」
それはひどく小さな声だった。モニターしているイカロたちにも聞こえたかどうか。あるいは、私にだけ届くように言ったのか。
「……本気で言ってるの?」
「……」
ノーは小さくうなずく。
「……申し出は私たちを気遣ってのことと受け止めておくわ。でももう、そういう問題じゃないのよ。私とパートナーにはそれぞれ目的がある。今さら引けないわ」
「……」
ノーはまだ何かを言おうとしたが、諦めたのか、くるりと振り向くと同時に姿を消す。ログアウトしたのだろう。
「……。それで、私はアポロの残したパスワードを回収してもいいのかしら」
「はい、ですが、我々の演算力は奪えません」
「どうして? そういうルールがあるの?」
「我々はログインしてから五分以内にゲームを放棄しているからです。迷宮に1人しかいないときにゲームを放棄した場合、迷宮は別のものに差し替えられますが、まだ誰かがログインしている場合、放棄した者は観戦者として、演算力の移動と無縁になります」
「……私が最初に挑んだ迷宮、パートナーは数日かけて取り組んでたみたいだけど」
「それは攻略する意思があったからですね、ログアウトの際、迷宮は挑戦者に継続の意思があるかどうかを読み取ります。ご存知ありませんでしたか」
「いろいろ覚えている最中よ……」
どうも、天塩創一の迷宮はそれなりのコミュニティを形成しているらしい。走破者はけして少なくなく、マニュアルも共有されている。
では、なぜイカロがすべてを知らないのか?
イカロ自身にまだ言えないことがあるのは分かるが、迷宮についても彼は明らかに知識不足だ。もちろん天塩創一の息子とは言えイカロ自身は走破者ではないが……。
「ではごきげんよう、またお会いいたしましょう。ミズナ様」
そして全員がその場から消えて、後には夕日の色だけが残される。
私は何となくやりきれない気持ちで、落ちていた黒いプレートを拾った。
――走破者に喝采を
「素直に褒めてくれるのはあなただけよ、天塩創一さん……」
※
「んふふ、ねーミズナー、すっごいニュースがあるんだよー」
サチはにこやかに笑いながら話しかけてくる。私はなるべく表情少なめに答えた。
「アポロが生きてたんでしょ、テレビでやってたわよ」
「んふふふー。それもビッグニュースだぁけどぉー。もっともーっとすごいニュースあるんだよー」
くるくるとスカートを翻しながら回り、もったいぶった笑みを見せる。
「なによ、アポロにナンパでもされたの?」
「ひょわっ!? なんで分かったの!?」
「うそーマジでーすごーい」
「あー信じてないー! ホントなんだからー!!」
「じゃあ写真とかは?」
「うぎゅ、そ、それは、写真はやめてねって言われたのデス。あとなんか席を外して帰ってきたら、急に不機嫌になって帰れって言われて……。あ、ほらほら、こないだナイトプールから動画送ったやつ、あのときだよー」
「ふーんすごーいマジなんだー唐揚げ食べたいー」
「あーもー信じてないいいいいい!」
そんな会話を交わしてから15分後。
私は三ノ須の地下に来ていた。学園にいくつかあるイカロの隠し部屋。
そこにはソファと冷蔵庫とテレビという適当な印象の家具と、ダイダロスがある。
イカロはきびきびと手を動かし、演算力を駆使していた。
「ミズナさん、あのノーとかいう女に何と言われましたの」
今日は亜里亜も来ていた。彼女は三ノ須の初等部に編入したものの、あまり授業に出る気はないらしく、イカロの部屋を訪ねていることが多い。それに少し気疲れしたのか、イカロの出席率が上がっているのは皮肉なことだ。
「500億ドル出すから手を引けって」
「もう、そんな冗談ではぐらかされないですわよ。そのうち聞き出して見せますわ」
亜里亜も冗談だと思ったのか。ではあの発言はやはり冗談なのか。
それとも私たちがまだ、常識という名の鎖に囚われているのか。
「おおよその方針が決まりました」
ダイダロスにはSNSの画面が表示されている。私でも知っている短文型ブログ、画像投稿に特化したもの、短い動画が盛んに投稿されるもの、専門的な職業が集まるSNSも。
「架空市民を使います」
「架空市民?」
「はい、SNS上に存在する実在しない人物のアカウントです。これを操って世論を操作します」
「広告とかで見かける怪しいアカウントね……そんなのでIOCを動かせるの?」
「検討しましたが、数年以内に可能と出ました。早ければ次のオリンピックに間に合う可能性もあります」
画面上では数十の窓が目まぐるしく開いている。
いや、その窓自体がモザイク画のように複数のアカウントを内包している。さらに画面の奥に表示しきれないほどのウインドウが開かれ、無数の言葉と動画が打ち込まれていく。あらゆる言語で。
「ゲノム編集施術者の認知を一般化させ、スポーツや公的競技における排除を不当なものという意見を醸成させます。さらにアカウントそのものの信頼度を高めるために時流に乗った話題を展開し、学術系アカウントのフォローも行います」
その無数のウインドウから一つがクローズアップされる。
「こちらのアカウントは大学教授らとの相互フォローできています。最新の医学論文に対する意見交換で盛り上がっていますね」
「それもダイダロスが?」
「そうです、他の医学系教授の意見にアレンジを加えてつぶやいています。この人物はどこかの医大教授と目されていますが、どこの誰かは誰も知りません、路傍の賢者というものです」
誰も知らない路傍の人……もともと実在してないのだから当たり前だが、そのアカウントのフォロワーはすでに数千件に達している。
更に架空のアカウント同士で意見交換を行い、傍観者であった他のアカウントも話に加わる。
私たちがアポロと、ミノタウロス社から奪えた演算力はサーバーマシン8万台相当。もはや何ができて何ができないのか、想像することも困難だ。
私はふと、このSNS全てが架空のことではないかという観念に囚われる。
電子の世界で行われる議論は、やがて現実に影響を与えるだろうか、ではその架空市民は立派に市民としての役割を果たしているのか。では架空と実在の境目はどこにあるのか。
そして私たちは、世界を変えつつあるのか。
もはや私一人の問題ではない、ことは全世界を巻き込むほどの干渉。演算力という魔法を握る走破者に、そこまでやる権利があるのか。
(……走り出してしまった)
もう止まりはしない。私たちは迷宮に挑んだのだから。
最奥にて怪物に食われるか、財宝を手に入れるのか、そして帰還したならすぐ次の迷宮へ、それを死ぬまで繰り返す。
そしてイカロ。
あなたは、どんな迷宮に挑んでいるの?
私はせめてパートナーとして、この人生という大いなる迷宮に挑む同士として。
彼に最後まで、寄り添うべきだと思った。
Tips 架空市民
SNSにおいては実在を突き止められない、あるいは利用者の実態とかけ離れたアカウントがしばしば発生する。
生まれる経緯はいくつかあり、誰かのアカウントが乗っ取られて利用されるケース。1人の人間が複数のアカウントを持つケースなどが広義の架空アカウントである。後者においては機械的に次々と新規アカウントを開設し、広告などに利用する業者も存在する。
また、脱税のために架空の社員を偽装して給料を支払ったように装う架空社員、医師が医療報酬の不正請求のためにでっちあげる架空患者なども広義の架空市民といえる。時にそれは行政システムに記録され、社会の歪みの一因ともなる。




