第三章 8
それは接近してみると分かるが、文字の部分が抜かれている板だった。
一辺は280メートルの巨大な板。材質は金属のように硬く、支えもないのに浮いている、ゲームのために重力を無視して設定されているのだろう。
文字の部分が夕映えを透かして赤く、大変に風流なものと見えなくもないが、私は気分がざわついてそれどころではなかった。穴になっているGOALの文字から上に出る。そしてローターマシンのベルトを解いて飛び降りた。
そこはやはり無味乾燥な空間。
テニスウェア姿のアポロがいて、その手に黒い板を持っている、おそらく迷宮のゴールを示すプレート、演算力を手にいれるためのパスワードが記されているのだろう。
「アポロ……!」
「待った」
アポロは私を手で制し、黒のプレートを掲げる。
「まず一つ教えておこう。天塩創一の迷宮にはこのようなルールがある、ゴール地点のプレートに誰かが触れると、他のプレイヤーを強制的に呼び寄せることができる、このようにな」
アポロが指を鳴らす。私の体にぴり、と電気の走るような感覚、何かしらの干渉を受けた気がする。しかし私はそもそもゴール地点にいたためか影響がない。
だが、私の周囲にふわりと現れる影が一つ。それは迷彩服を着込んだ大柄の男だ。
「彼は……」
「適当に倒して鋼鉄球の中に閉じ込めておいた、まったく想像力の乏しい連中だ。出せる武器が貧弱なのは仕方ないとしても、創意工夫のカケラもない」
「う、ぐっ……」
男たちが身を起こす、鋼鉄球に閉じ込められていたというが、どんな体勢だったのか、骨を軋ませるような億劫な動きだ。
「て、てめえ……」
その手にAK-47が出現する。
だがアポロの方が早い。男の体を撃ち抜く影。
「がっ!?」
男は数メートル後方に吹き飛ばされる。
通常、ヘビー級ボクサーのパンチでも人間を飛ばすことなど不可能。つまり、それ以上の衝撃を与えたということだ。
「現実世界の連中は電極パッドで気絶してるからな、お前は語り手としてログアウトさせるわけにもいかない、面倒だよまったく」
それは縦に二連並んだグレネードランチャーのような武器。あれは確か、フランス警察が暴徒鎮圧用に使ったと言われるスーパーシュート。ゴムボールを打ち出す武器だ。しかしその威力は大リーガーのジャストミートを越える。顔に食らえば眼球は破裂し、内臓に食らえば臓器が裂けかねない、立派な非殺傷武器だ。
食らった男はログアウトは免れたようだが、過呼吸に陥ったのか、身動きできずにもがいている。
「あ、ぐ……」
「……」
そう、これだ。
この拡張世界では殺されるとログアウトとなる。
では、この迷宮での競い合いに意味はあるのだろうか?
どんな兵器でも出せるなら、もっと効率的にすべての走破者を殺してから悠々とゴールすればいい。それとも中世の騎士のように甲冑で身を守って走れと言うのか?
何かを見落としている、この拡張世界で、私たちは……。
「さて、あんな愚鈍な連中はともかく、君にはもう察しがついてるだろう」
アポロが言い、はっと意識が引き戻される。
「……何の話かしら」
「天塩創一の迷宮に魔法はないが、ゴールプレートを手にした者だけは例外だ。二つの魔法が使える。いま話したように他の走破者を呼び寄せること、そして、他の走破者から演算力を奪うこと」
スーパーシュートを肩に担いで、そのように言う。
「奪う……やはりそうなのね、この迷宮の本質は、演算力の奪い合い」
「そう、最終的には一人の走破者がすべての演算力を手に入れる、その人物はこの世に不可能なことなど何一つ無くなる」
「芸がないのね、ランプの魔神でもそのぐらいできそう」
私の皮肉を今度は薄く笑って受け流す。プレートを手にしている余裕だろう。
「奪える演算力は、「奪われる側が所持してる半分」と、「奪われる側が迷宮で使用した分」のうち最も高い数値が適用される。だから多少は暴れまわってもらったんだよ。ここのような生存の迷宮はうってつけだろう。君たちは面白いように演算力を垂れ流してくれた」
「……」
私たちは亜里亜のパリ砲で演算力を全て注ぎ込んだ。ではほとんど全てを奪われると見ていいだろう。
少しは残るかも知れないが、もはや意味はない。演算力という魔力が一定量に満たない者は、現実世界での攻撃から身を守れない。
そう、だからこのタイミングが理想的だったのだ。私とミノタウロス社が所持してる演算力がアポロに遠く及ばず、さらに演算力を浪費するような迷宮が出現している時が。
「……」
「火遊びは終わり、子供は魔法の杖など望まず、机にかじりついて勉強するべきだな」
『ミズナさん……』
イカロの声が震えている。私よりも彼の方が苦悩は大きそうだ。
いったいイカロは何を求めていたのか、私はまだ聞いてない。演算力で何がしたかったのか、何を求めていたのか。天塩創一と彼との関係とは……。
「ミズナさま、ゴールに関するルールには一つだけ例外があります」
……?
空中から声が聞こえた。これはダイダロスからの通信とも違う。指向性スピーカーのようなもので私の耳にだけ声を届けているのだ。男のような、女のような中性的な声だ。
「プレイヤーがゴールプレートの魔法を行使し、他の走破者から演算力を奪うのには多少の時間を要します。そして全てが終わるまで走破者は迷宮にログインしていなくてはなりません。あなたはアポロにわずかに遅れてゴールした。この場合、アポロにとって最も困るのは力ずくでログアウトさせられることなのです。しかもすぐに奪いにかかればいいのに、自己顕示欲の強い彼はわざわざ説明に時間を要している」
その言葉を信じる信じないは二の次だった。
私は地を蹴って走る。体勢を低くして蜥蜴のように。
「――む」
アポロの反応も早い。スーパーシュートを構えて二連射、当たれば骨も砕けるゴム球の気配を察して回避する。
「迷宮の怖い怪物から逃げおおせて終わり、そのような結末は英雄譚とは呼べませんね。さあ戦いましょう。今なら小細工は効かない。アポロはまだプレートのパスワードを入力していない。さしたる量でないとはいえそれも演算力という名の宝石、自爆してプレートまで破壊する戦術は取れないはず」
声は吟うように響く。
自爆、その言葉が意識される。そんな戦術があるのか、例えば爆薬を出現させて私もろとも吹き飛ばす? それをやってアポロはログアウトしない方法があるのか。
私の視界。高度千メートルの夕映えの世界に。その赤い空に。
何かが。
「くそっ!」
アポロがスーパーシュートを振り上げ、懐に潜り込もうとする私に打ち付ける。だがプレートを持っているせいか、ワンハンドレシーブのキレが悪い、私は側面に回り込みつつ雷速のロー。アポロの足に突き刺さるが、馬鹿げた筋量のために芯までは届かない。
そこからは接近戦。アポロはスーパーシュートを捨てて拳を握る。瞬時に足から腰、腰から肩、手首へと回転を加えた驚愕の右ストレート。回り込むように動く私の肩をかすめて痺れを走らせる。
なんという鋭さ。テニスだけではないと予想してたが、ここまでの打撃を持つとは。
私は打撃によろめくかに見せて後方に置いた足に体重を乗せ、腹筋で体を起こしつつしなりを効かせた回し蹴り、アポロの耳に刺さる角度だったが頭を下げて回避される。
私は止まらずに地面を蹴って後ろに半歩ぶん下がり、アポロが追いすがろうとする瞬間に左胴への蹴り、アポロは膝を上げてガードし、ガードした足を腿の筋肉で振り上げて爪先が私の額をかすめる。防御が攻撃に変わる動き、そしてアポロが体を回し、分厚い背筋で私の打撃を制しつつ、その向こうから鋭い肘打ちが。
私の目がその動きを捉える。当たれば人体に穴が空くほどの肘。その届く範囲を見極め、背骨を意識して上体を反らす。スウェーバックで身を引く私の眼球の寸前まで肘が届き、私は目を見開いたままそれを捉え、相手の肩甲骨まで左手を跳ね上げ、右手でテニスウェアを握り、大鎌を振るうように足を狩って、アポロの青銅像のように重い体をぶん回す。
「ぐはっ!」
柔道で言うなら支え釣込足。大の男でも昏倒するほどの勢いがついている。まともに正面から倒れたアポロは、しかし全身のバネを使って転がりつつ起きる。あの投げを受けて瞬時に立つとは。
私が駆け寄ろうとした刹那。ぶおんと宙を斬る影。私は直前で踏みとどまって影をやり過ごす。
それは鉄の棒。
銃器は、あるいは刀のようなものは出している余裕がないのか、最もシンプルな鈍器で来たか。しかしそれはそれで理にかなっている。アポロの力で鉄棒を打ち付ければ、全豪オープンのハードコートですら砕かれるだろう。
アポロは踏み込みながら棒を振るう。確実に身を引いているのに風圧が体に届き、意に反して背筋に震えが走る。
やはり破局の一撃、並の剣術家よりも厄介だ。
どうする、こちらもイカロに武器を……。
「そこまでで結構です、あとは私が」
声はすぐ近くから聞こえた。
「誰だ!」
今度は周囲にも響く声だった。それはアポロも予想していなかったのか、驚きの混ざった様子で言う。
そして私は見た。空の一点。空間が丸く切り取られるように見えて、そこから人が降りてくる。球体の乗り物に乗っていたのか。しかし、まったく姿が見えなかったが。
その人物は膝上25センチはあるミニのパンツスーツ。濃いグレーのスーツであり、白磁人形のような白い肌が夕映えを受けて赤く火照るかに見える。腰には刀を差している。
だが特徴的なのはスーツや刀ではない。その人物は全身に包帯を巻いており、あろうことかそれは血糊でべったりと濡れていた。乾いて褐色になった血と、今まさに流れ続けるような鮮紅色の血がどちらも存在し、足元にはぽたぽたと血の飛沫が残っている。
そしてもう一人。
また別の場所から降りてくる影がある。それは長々と地に伸びる黒のロングドレス。ローブをかぶり、細緻なレースに覆われた長身の女性。その肌は青に近いほど病的に白く、細面は美しいながらも、薄く空いた目は幽鬼のような空恐ろしさがある。白雪姫の魔女のようなという形容が浮かぶが、それとも少し違う、憂いを秘めた儚げな瞳が見えた。
「……あ、あなたたち、まさか」
そうだ、この感覚。
今まで迷宮をクリアしたときに感じていた、何かが消えるような感覚。
あれは、これではないのか。この透明な乗り物が消えるときに、私の目がわずかにその気配を捉えたのでは。
「隠形蟻」
ローブの女性がそう呟く。名乗ったようには聞こえなかったが、今の事象を説明したのだろうか。
『ノー・クラート……』
それはイカロの声だ。思わず漏れたかのような呟きが、ダイダロスを通じて届く。
知っている……? 彼女を?
だがそちらにばかり注目してはいられなかった。アポロが憤怒を込めて叫ぶ。
「プルートゥ! なぜお前が!」
「貴方には美学がない」
それはスーツと日本刀の人物に向けた言葉。いつの間にか私を通り越してアポロに近づいている。
「……!」
私は驚いて身を引く。接近が見えなかった。ごく自然に歩いているのに、まるで歩行が省略されたかのように一瞬で間合いを詰めている。
「ミノタウロス社に襲撃を受け、それを撃退したのは貴方。だから彼らの演算力を奪うことは当然の権利。しかし一般人を人質に取り、北不知ミズナを巻き込んだことは認められない。貴方はミノタウロス社だけでは物足りなかった、彼らの当て馬を欲した。端的に言うなら貴方は」
「尊き迷宮で、遊んだ」
おん。
空を切る音。
刀の切っ先が地面に触れている。アポロの構えた鉄棒も、その筋肉に覆われた体も、全てを空気のように斬る大上段からの一撃。いつ構えていつ降り下ろしたのかも見えぬ早業。私の目に全てがスローに見えて、その腕が、鉄の棒が、頭から股までが見事に両断されるのが見えて。
「――が」
だが瞬間。その切断面にぎしりと音が鳴って骨が伸びて連結、肉が泡のように吹き出して埋まり、テープを巻くように皮が貼られるかに見える。
「……!」
これは、まるで、死の寸前で踏みとどまるかのような。
プルートゥと呼ばれた人物は私を見て、その返り血なのか、それとも自らの出血なのか分からない血まみれの顔で言う。
「覚えていて下さいミズナ様、これが最後のチュートリアル。最後に覚えるべきは迷宮における死の概念。迷宮の走破者たちはアリアドネの糸玉がある限り死ぬことはない。糸玉とはすなわち演算力。演算力を無限に駆使すれば魂すら補填できる。演算力とはこの世の根源、新たなる世界を創るための神の泥、演算力とはすなわち」
「……」
「生と死にすら、変換できるのだと……」
Tips 非殺傷武器
非致死性兵器とも。暴動鎮圧や犯人逮捕などの際、相手を殺傷せずに制圧する必要性から生まれた武器。スタンガン、催涙スプレー、ゴム弾頭の銃などが該当する。
原理原則として、相手を行動不能にするほどの打撃力をもつ以上、絶対に殺傷しないことは困難である。近年、アメリカなどでは非致死性から、低致死性兵器などと呼称が移りつつある。




