第二章 7
「しっかり掴まってるんですのよ」
亜里亜は二人乗りのオフロードバイクを借り、荒れた岩肌を進む。
黄色い空。赤い岩肌。同じような起伏の乏しい風景が360度で広がっている。
さほど揺れはない、バイクのサスペンションが優秀なのもあるが、亜里亜の腕がいいのだろう。注意すれば舌を噛まずに会話できそうだ。
「ここも天塩創一の迷宮なの?」
「そうですわ、火鼠闇嶄の迷宮。火星のオリンポス山ですわ」
落ち着いて話せる場所を、とのリクエストで亜里亜が連れてきたのがここだった。
オリンポス山とは火星で最大の火山であり、その高さはなんと標高27000メートル。裾野の外周は550キロメートルもある。火星では地球のようなプレート移動が起こらないため、ホットスポット上で数え切れぬほどの噴火が続き、堆積物が積み重なったためにこれだけの巨大さになったのではないかと言われている。
本来の火星と違うのは、大気が一気圧、重力が1Gに設定されていること。
「ただの岩肌だけど、これがどうして迷宮なの」
「これはDot to dotの迷宮ですわ」
Dot to dot それはいわゆる「点つなぎ」のことだろう。白い紙の上に数字の配された点だけが散らばっており、順番通りに点を繋ぐと図形が出てくる、というものだ。
「例えばここですわ」
亜里亜が止まると、地面にマンホールほどの大きさのプレートが置いてあり、そこに「1」と書かれている。亜里亜がバイクの前輪を乗せると、緑の光条が伸びる。
「プレートを踏むと光線が伸びるのですわ。この光線を辿っていくと、「豆腐」「寄生虫」「無血開城」という3つの言葉が浮かび上がりますの」
「ええと……それってスリーヒントクイズ?」
「そうですわ。この3つのヒントから連想する人物は西郷隆盛。彼が亡くなった時、彼の同士たちが夜空の赤い星を見て、西郷さんが亡くなったことを悟ったという伝説があるのです。そのため火星のことを西郷星とも言うのですわ」
そこらへんはおそらくイカロが検索で見出した情報だと思うが、亜里亜はすらすらと解説する。
「西郷隆盛という4文字をINSコードに変換すると0x403E 0x363F 0x4E34 0x4039となりますわ。これがパスワードなのですわ」
手の混んだ仕掛けの割にやることが点つなぎとスリーヒントクイズとは、なんだか遊び心のある迷宮だ。
しかし実際は簡単ではなかったらしい。私の目の前で緑の光が消える。点灯していた時間は3分ほどか。
「プレートからの光が消えると、次のプレートも消えるのですわ。光が消えるまでに次のプレートに辿り着かねばならず、そこには落差200メートル以上の崖、突き出した岩。数十メートルもの大岩の上にも配置されていたのですわ。そして一文字の面積は平均して3万平方キロ。事実上、このコースを走破できるのはバイクだけだったのですわ」
暗に私の腕があってこそ、と言わんとしていることは分かったが、別にそのことに異論はない。亜里亜の腕が確かなことは承知している。
しかしその3ヒントクイズ、おそらく辿らねばならない点の数は百を超えるはず、数十時間もミスせずに走り続けねばならないわけだ。ついでに言うならばこのバイク、燃料タンクが増設されている。
「それで、クリアしたあともこの迷宮は残ってたのね」
「そうですわ。一度クリアした迷宮には基本的に何の意味もありませんけど、ここは走り回るのに良い環境でしたから、ときどき潜っていますの」
私たちは亜里亜が逗留している高級ホテルの一室にいる。ダイダロスを持ち込み、こうして二人で拡張世界に潜っているわけだ。ちなみに今は現実世界の音も聞こえるように設定している。妙な音がしたらすぐさまログアウトできるようにとの用心だ。
「話したいことって何なの」
「……あなた、本当にイカロさまとのパートナーを続ける気ですの」
やはりその話か。私はあまり感情を出さずに応じる。
「今のところ、辞めるとも続けるとも決めてない、かな」
「あなたの目的はお母様の治療でしょう? もう目的は果たされたはずですわ」
「イカロを放っておけないってのもあるし、5200億の仮想通貨ってのもそれなりに魅力的だし」
私は亜里亜の胴にしがみついていた手を放し、後部シートに手をついてぽんと飛び降りる。亜里亜は少しドリフトして止まった。
「それに私がやめたら、あなたが走破者を続けることになるでしょ」
「私のことですの?」
「分かってるでしょ、イカロがあなたとのパートナーを解消した理由、あなたに拡張世界に潜ってほしくないからよ」
「……」
亜里亜のRVW-s、拡張世界の中だけ歳を取るという症状。それはすなわち、自覚している精神年齢と、肉体年齢の強烈なギャップによるものだ。
しかしそれは永続的なものなのだろうか。精神は肉体の影響を受ける、亜里亜が拡張世界に潜らず、小学生として学校に通う、食べて寝て健やかに過ごす、そういう通常の生活を送れば、やがて精神年齢が後退して症状が収まるのではないか、そういう気もする。
「……私に起こっていることは病気ではありませんわ。足が長くなければこうしてバイクにも乗れませんし、体重移動もろくにできない。必要に合わせて肉体が変化していった結果ですわ」
「でも、治せるものなら治したほうがいいんじゃないの」
「そうは思いませんわ」
亜里亜はエンジンをふかし、速度を上げると、ブレーキとともに前輪を大きく持ち上げる。そして後輪だけでバイクを立ち上げて、後輪と前輪がほぼ一直線になるまで角度を上げる。カタカナのトのような体勢で急制動を行い、そして前輪を少し前に戻した角度で静止する。絶妙なアクセルワークとバランス感覚、そして思い切り前輪を持ち上げる度胸があっての技だ。
「勘違いしないでくださる? 私は拡張世界に幽閉されたことはともかく、身につけた技術は財産だと思っていますの」
「……そう?」
「私にとっては拡張世界で過ごした年月こそが一夜の幻。私はやはりまだ子供であり、目もくらむような若さがある。そう考えれば素敵なことではなくて? 幽閉されて幸福だったとまでは言いませんけど、身につけたことまで否定したくはありませんの」
どしん、と前輪が落ちる、静止していた時間は五秒ほど、凄まじい技術なことは分かる。
「私は念書を書いて利根家の後継者争いから離脱した後、オンライン上の草レースに出てましたの。そこでイカロさまに声をかけていただいたのですわ」
この火鼠闇嶄の迷宮への挑戦者を探していたのだろう。亜里亜の現実世界での姿を知って、さぞ驚いたに違いない。
「私にとってはこの迷宮はとても感銘を受けるものでしたの。火星のオリンポス山をバイクで走る。たとえ人類が火星に到達しても無理でしょう、火星では大気組成が違いますものね」
この迷宮が1気圧、1Gに設定されているのは、つまりエンジン駆動の乗り物で走破することを前提としているからだろう。しかし亜里亜はこの迷宮に、拡張世界の可能性を見たのだという。
「ずっと拡張世界で操縦技術を学びましたけど、それは他のことを学ばせないための教育でしたわ。ですが私の技術が誰かの役に立てる。誰も見たことのない迷宮に挑める。それは私にとって喜びでしたわ。天塩創一の遺産などに興味はありませんけど、私にとってはイカロさまとの出会い、そして迷宮との出会いは運命。この迷宮に挑み続けることが、私のこれまでの人生すべてを肯定することだと、本当の意味で正直に生きることだと、そう考えたいのですわ」
「……」
正直に生きる。
その言葉が、不思議な響きを持って私に届く。
すべては運命で定められている。
与えられる試練が運命ならば、人は誠実にそれに取り組むべきなのか。
もし欠けているものがあるならそれも運命。それを一心に求め続けることが、すなわち正直に生きるということなのか。それが人生を肯定するための道なのか。
「まだ止めようとなさる?」
「いいえ、もういいわ」
私は火星の丘を眺めて呟く。どこまでも広がる岩肌。アリゾナ州とほぼ同じ面積を持ち、宇宙からもはっきりと山体を見ることができる怪物は、人間の行いなど気にもとめずに超然と佇んでいる。
「亜里亜、あなたって私よりずっとレディーなのね」
「え、そ、そうですの? いえまあ、身だしなみにも気をつけていますけど」
ここもまた、天塩創一により与えられた迷宮、挑むべき試練なのか。
この挑戦の果てに何があるのか。何を私たちに問いかけようというのか。
この迷宮との出会いが偶然でないのなら、私ももうしばらく付き合ってみるべきだろう。
そして、私の中にある、心の真実にも向き合うべきなのだろう。それを求めることも、肯定するべき私の運命なのだから。
※
「イカロ」
舞台は学内のカフェに戻り、私は改めてイカロの名を呼ぶ。
「はい、何でしょう」
「あなたは私の本当の目的について、母の治療だと思っていたみたいだけど、実はそうじゃないの」
「? そうなのですか?」
「そうよ、それはとても困難な茨の道、道はわずかにも見えなくて、私自身、それを求めることを考えないようにしていた。そのぐらい手の届かない目標。でも欲しい、欲しくてたまらない、そういうものがあるの」
「わかりました、何でも仰ってください。ダイダロスの演算力に、できないことはないのですから」
「イカロ、私ね……」
――お前なら必ず取れる。
――絶対だとも、この俺と母さんの子なんだから。
それは、口に出せば絵空事となり、淡雪のように溶けて消えそうな願い。
私はそれをはっきりと言葉にすることは生まれて初めてだった。誰かに伝えることも、強く意識することも。
本当に、そこまで欲しかったのだと、私はそのとき、自分自身ですら初めて知ったのだ。
「――金メダルが、欲しいの」
Tips 特異症例RVW-s
リップ・ヴァン・ウィンクル・シンドローム。
拡張世界においては設定によっては現実よりも時間の流れを早めることができる。この状態で長時間経過すると、脳を含めて肉体が加速された時間に順応し、拡張世界での成長速度に影響を与えると言われている。
全世界でも報告された症例はほとんどなく、都市伝説とも言われる超希少疾患である。
病名はオランダの民話と、それを元にした短編小説に由来する。




