外伝 第四章 3
薨夜、宇宙の終わり。これは終焉へ至る迷宮であるという。
土星に降り立った私は宇宙のダイナミズムを覚える。大地に宿された圧倒的なベクトル。それぞれの九龍城は接近し干渉し、すれ違う風のうねりは恒星系の潮汐力を思わせる。
しかしこの土星には黄金のリングもなければ、200を超える衛星も、北極点の六角構造もない。あくまで私の主観の中で行われる旅だ。
「ここが第六惑星。だいぶ公転速度は弱まりましたが……」
まだ誰もいない。私はまた外壁部分を走る。
慣れれば要領は分かる。ビルの一つは四角柱の形状をしているのだ、惑星の自転に合わせてその外周を回ればいい。
だが違和感がある。
この惑星のビルは全体的にうごめいて見える。表面が焼きかけのホットケーキのように泡立っており、建材や窓ガラス、雨水管やその他の構造物がゆっくりと修復されているのだ。
「……?」
下降していく。土星は地平面に対して90度倒立した軌道で公転している。惑星は今、時計で言うなら4時から5時、そして6時付近でまた上向きのベクトルに切り替わって。
頭上に影が。
行動は思考より早かった。手近な窓を踏み割って飛び込み、ガラスの破片とともに落下。壁を蹴って三角の軌道で、空いていたドアを通ってさらに下方へ。
そして背後から機銃掃射じみた音。直径数センチから1メートルほどの岩石が、すべてを打ち砕いていく音だ。
「なるほど……それぞれの惑星は自転の中で砕けて瓦礫をばら撒いている。土星はそれを浴びる軌道を通るということですか」
もちろん九龍城内部も安全ではない。画鋲から750CCバイクまで、およそ飛ばないものはない。私はその立体的な飛来物をかいくぐって進む。
目指すは北東の角、次の木星と接する地点へ。
※
「くそったれ! あんなのどうしろってんだよ!」
迷宮のスタート地点。そこは海を見下ろす断崖絶壁の眺めとなっている。
そこにいるのは10人あまり。数多くの迷宮を走破してきた者たちであっても、起きていることの大半は理解不能だった。九龍城が水没し、大河を遡上していったかと思えば、九つの九龍城が太陽系儀のように回転を始めている。
それぞれの九龍城は底部に巨大な岩塊を抱えており、砲撃に対しては防御するように岩の面を向ける。そしてヘリなどで近づこうとした者は、詳細不明の攻撃によって撃ち落とされていた。
周囲に降り注いだのは標識のような看板のような意味不明の物体。迷宮そのものの名前が変わることも未知の経験である。
「おい、もうやめろ、演算力のムダだ」
「あ、ああ」
「キマイラ、あんたツバメ型の偵察ドローン出せただろ。使えないのか」
「何度もやってるよ。すぐに打ち落とされちまう。どんな攻撃を受けてるかも分かりゃしない!」
「おい……」
一人が声を発し、全員がその人物に気づく。現れるのは長身の白人男性。くたびれた印象を背負い、胡乱げな眼差しで世界を見ている人物。走破者たちは口の端に苦みを走らせ、やがて一人が口を開く。
「ゼウス……あんた何か知ってるか、この迷宮に起きてる変化について……」
「複数の九龍城はそれぞれ公転半径が違う」
それは果たして受け答えだったのか。方向性を伴わない声で言う。
「向こうに巨大な滝が出現している。その上は平地になっているが、最も公転半径の大きい九龍城が地面すれすれを通る。時速は500キロ近いが、移動方向に対して順回転しているので、地面の高さでの相対速度は350キロほどだ。その九龍城に乗り込み、次々と乗り継いで一番内側にある九龍城を目指す。おそらくはそこが迷宮のゴールだ。だがそこにも、桁違いの強さを持つ番人がいる。爆発物と体術の使い手だ」
ゼウスは全員を見渡すが、誰も反応を返せない。言葉が浸透するのに時間を要している。
「誰か、挑むかい?」
「む……無理だろ、あんなものの間を乗り継いで行くなんて」
「一番内側がゴールだってんなら、戦闘ヘリか何かで直接行くしか……」
ゼウスの顔には感情の起伏が薄かった。走破者たちの間を歩いて通り抜ける。
「ゼウス、あんたは挑まないのか」
「作戦を立てる」
「なあ、何とかしてくれ、このままじゃ全員が演算力をなくしちまう」
「ポセイドンに連絡取れねえか。あいつ、何日か前に挑んだきり見てねえんだ」
「ヘルメスを呼べないか。アフロディーテはまだ走破者やってるのか」
「……何とかするよ」
それは回答というより、逃げの言葉であることは明らかだった。そもそも、他の走破者たちもゼウスに頼ることに抵抗があったようだ。特に追いすがる者もなく、ゼウスはその場を通り過ぎる。
大河となった場所を左手に、スタート地点を後方に見て、歩くことしばし。
迷宮の世界は、外側に向かおうと思えば際限なく広がっている。やがて段差も川もなく、ただ平原が広がるだけの空間に出る。
「……走破者は近代兵器に頼るばかりで、自分の足で走破することを忘れてしまった」
独り言のようでもあり、誰かになりきっての言葉でもあるような響き。
「苦手な迷宮を先送りにし、無駄に徒党を組み、対人戦を忌む。そして恥ずべき初心者狩り……」
手をかざす。そこに金属製の柱が生まれる。特殊鋼材の金属板が組み合わされ、何か大きなものが組み立てられていく。
「走破者たちは不甲斐ない存在に堕ちてしまった。そう言いたいのかい、オイディプス……」
右手で金属塊を生みつつ、左手はキーボードを打鍵するような動き。演算力にアクセスしつつ、大きなものを組み上げようとする。
背後には太陽系儀の雄大な回転。矮小な存在を見下ろし、あざ笑うように回り続ける。
「そして嘆いているのか、ゲームマスター……」
※
私が至るのは第三惑星、地球。
母なる星であるから、というわけでもないが、この星の自転速度は驚くほどゆるやかだ。一回転に一分以上かかっている。物は飛来してこず、ビルは崩壊しない。
「第二と第一惑星も自転がゆるやかですね。もう迷宮のギミックで始末にかかる段階ではないのでしょうか」
と、そこで通話が入る。
ゼウスからだ。私は周囲を警戒しつつ応じる。
「ゼウス、どうかしましたか」
『プルートゥ、まだ迷宮にいるのかい』
「ええ、第四惑星の火星まで走破しました。今は地球にいます」
第五惑星、木星はガスの星。複数の有毒物質が充満していた。
第四惑星、火星は自転速度が他の惑星の3倍はあった。ひどい酩酊感を覚えつつも走破する。
いずれも簡単ではなかった。地上を離れてから2時間以上経過している。私が「蛟界懸天の迷宮」に入り、天后に挑んでいた時間を考えれば3時間以上だ。精神の高揚により疲れは遠くなっているが、肉体の摩耗はゼロにはならない、自分の肉体を客観的に管理せねばならない。
『惑星?』
「そう名付けました。中心にあるのが第一惑星である水星。そこに待つであろうオイディプスを太陽に見立ててます」
『わかった。こちらはその第一惑星に干渉する用意をしている。君が到達するまでには間に合うだろう』
「ゼウス、あなた無粋とか無神経とか言われませんか」
『これが僕のやり方なんだ』
通話が切れる。
言いたい事だけ言って切れてしまう。彼はどうも善とか悪とかの前に社交性が欠けている気がする。
何をするつもりか知らないが、私の邪魔になるほど間の抜けた人物でもないだろう。私はペースを変えずに走り続けるだけか。
「……」
刀を抜く。
物陰から飛び出すエメラルド色の鱗。枝葉の影から飛びかかるコウモリのごとく。私の刀がそれと交差する。
血しぶきが散る。骨も筋肉も斬らず、血管のみを狙う。私を襲った蛟は噴血とともに消える。
「やはり出ましたか、蛟たち」
しかし、第三惑星。兵力を固めているなら第一か第二惑星と思っていたが、ここで出してくるのか。
感覚を広げる。私の内臓にまで突き刺さる殺意。包囲するように迫る蛟はかなりの数。
私は右方を一瞥してそこに飛び込む。
レストランである。九龍城にしてはしっかりとした店。テーブルは分厚い天板と太めの脚で支えられている。
その机に飛び上がる影、高みから踊りかかってくるのは2体。鱗を備えた外套が風に広がる。だが遅い。私の突きが致命点をえぐる。
高速で入店してくる一体。私の直突きをかいくぐって懐へ。私は頭部を捉えて膝を顔面に。相手が自爆する前に延髄を貫く。
上で爆発音。蛟が上階の天井を爆破したのだ。飛来する無数の瓦礫。私は一瞬、天井を見てから視線を戻し、ずるりと落ちてくる一体を見る。低い姿勢で、テーブルの間をすり抜ける動き。
蛟が一気に伸び上がる。首を狙って食らいつく。刀を回転させ、顔面に刀の柄を叩き込む。一歩右へ。落下してくるブロックを回避。蛟の頭上から瓦礫が。背中をテーブルに当て、後方に倒しながらバク宙で飛び込む。天板が爆風を受けて1メートル近くも動いた。
パンツスーツに防弾繊維ぐらい入れているが、全身をフェンシングの剣で突かれるような痛みがある。爆発による飛散物のためだろう。急所さえ守れば大した問題ではない。
分かったことがある。蛟の持つリアクティブアーマーは本当にただの炸薬。対人殺傷力を高めるような鉄片が入っていない。
机の影から飛び出すと、新たに店の入り口から3体。まるでゾンビ映画だ。真横に跳んで別の部屋へ。
そこは厨房。金属製の什器とあらゆる厨房用の道具。傾きが不安定な世界で包丁類が斜め下に下がっている。
包丁に手を伸ばして背後に投擲。同時に調理台の陰に飛び込む。爆風が頭の上を抜ける。
入り口に向かってグロックを連射。だが腕をクロスさせて防がれる。なかなかの防弾性能。
山なりに投げるのは中華包丁。回転しながら蛟に向かう。蛟がそれを回避しようと見上げた瞬間。喉笛にグロックを撃ち込む。
ラスト。蛟はリアクティブスーツの前を合わせ、爆弾の塊となって突っ込んでくる。私はちょうど真横にあった大型冷蔵庫を見て、そのドアにグロックを撃ち込む。メタルジャケットの銃弾がドアに穴を開けた。蛟は自分が撃たれたかと思って足を止めたものの、反応装甲が爆発しないのを見てまた突っ込んでくる。
私は手近にあった配膳用のカートを滑らせる。蛟の膝にぶち当たって動きを止める。冷蔵庫のドアを思い切り開ければ、先ほど撃った弾の弾痕が残っていた。
私は弾痕に銃の先端を押し当て一撃。ドアの向こうで爆発が起きたが、このドアは90度以上は開かなかったようだ。
沈黙。
鼓膜にきいんと耳鳴りが残っている。だが街は静まったようだ。
私はレストランを出ようとして、閉まっていた入り口の扉へと歩み寄る前に、向こう側にいた蛟にグロックを5発ほど撃ち込んだ。
※
金星。太陽系第二惑星。
街は静かだ。この惑星に自転はなく、公転速度も大したことはない。高速道路を走るトラックの上ぐらいか。白兵戦に問題はない。
人影はない。ここには充満するガスも、火災の気配も、水責めや上空からの瓦礫の雨もないようだ。そして蛟たちもいない。
もう打ち止めなのだろうか。兵力を第三惑星に集中させていた?
それは興を削ぐ。オイディプスは迷宮の信奉者だ。何の障害もなく通過できるステージなどあるはずがない。
路地を歩く、やがてそれは見えてきた。
お堂である。九龍城の住人が祭りや宗教的儀式を行うための小さな寺院。
あたりは開けている。往時にはここで龍舞いでも行われたのだろうか。
蛟がいる。
やや小柄。爆薬をタイルのように張り付けたマント。他の個体より浅く着ており、体の前面が大きく開いている。黒のツナギのような服は防弾性能がありそうだ。その背後では数本の線香が白煙を立ち上らせている。
「あなた一人だけですか」
「そうよ」
人間の声で答えたことに少なからず驚く。他の蛟がどうだったのかは知らないが、少なくともこの個体は明確な意思を持っている。
口元には緑の布。くぐもった声だ。だが感情の色を感じる。敵意という色を。
私は刀を逆手に持ち、無造作に近づく。相手もそうするようだ。大股で歩いてくる。
既視感、が。
蛟が動く。両腕を腰だめに構えると二丁のアサルトライフルが顕現。一呼吸も置かずに乱射してくる。堂の柱を盾にして防ぐ。
「演算力で銃器を……他の蛟はやりませんでしたね」
刀でやりあってもいいが、少し相手の性能を調べるべきだろう。私は指を鳴らす。出現するのは大型のロケット花火。後方から火を噴いて跳ぶ。
狙いなどない。炸薬を詰めて障害物を破壊するための簡易的な兵器だ。
蛟は腕を突き出す。現れるのは鋼鉄の門。古城を千年も守ってきたような巨大なものが一瞬で。
「……ほう」
柱の陰から腕を突き出す。出現するのはグレネードランチャー。ある走破者から設計図だけ受け継いでいたもの。射出されるグレネードは地面にバウンドし、回転しながら緑の煙を噴き出す。高濃度の塩素ガスをどう防ぐ。
蛟が指を鳴らす。すると何もない虚空から霧が噴き出してくる。ただの霧ではない、薬品の匂いがする。
蛟は立ち尽くしている。まさか今の一瞬で中和したと言うのか。
「塩素スクラバー、NaOH溶液を霧状にして噴霧すれば塩素ガスは中和できる。学生レベルの化学」
その顔には緑の布ではなく、防護マスクとゴーグルが出現している。一瞬でガスの種類を見抜いて対策するとは。
そして私は、また笑っていただろうか。
私の前に立ちはだかった人物。おそらくは蛟のリーダー格であろう人物との、奇妙で愉快な邂逅に。
「晰星、ですか」
Tips 恒星系と高傾斜軌道
通常、惑星系は主星である恒星の自転に対して同一平面上に形成される。このため公転軌道が他の惑星に対して90度直角になるような惑星は形成されにくい。
このような惑星が存在する可能性として、星系の外部から飛来した小天体が重力に捕獲された場合。星系が他の天体のそばを通過するとき重力の影響を受けた場合。二重星系または多重星系において、伴星の重力影響により惑星が複雑な重力的影響を受けた場合などがある。
実際にホットジュピターを持つ星系において、伴星の公転軌道が主星の自転平面と大きく異なる天体が発見されている。




