外伝 第四章 2
それはまさに宇宙のダイナミズム。
時速数百キロで公転軌道を描きつつ、数秒に1回という速度で自転する都市。それがどのような世界か、中にいる私ですら想像が追いつかない。重力の向きは変わり続け、遠心力が私の臓腑までも振り回し、あらゆるものが床を離れて飛び回る。
潮汐力に砕かれる衛星のごとく、建材も鉄筋もちぎれて九龍城から振り落とされる。そして細胞が増殖するように再生する。つまり飛来する弾丸はほぼ無限。事実、この最も外縁を巡る九龍城が地面をかすめるとき、機銃掃射のように大地に礫片が降り注ぐ。
私はその中を走る。上下左右の混乱。自転と公転のベクトルの相殺、あるいは相乗。
およそ思考で追いつける世界ではない。霊感じみた先読みで壁に向かって飛び、住居のベランダから次の棟へ。上空に巨大な滝が見えて。一瞬後には雲の峰に変わる。
「この九つの九龍城、名前が必要ですね。惑星の名前を当てはめますか」
ケイローン様に連絡を取ることも考えたが、やめておく。私は一度は捨てられた身だ。ケイローン様の信頼を取り戻さなければサポートを受ける資格はない。
ベランダの一つで、鉄柵にしがみついて空を見る。遠心力が私の体を突き抜けていく。大地が見えて、空が見えて、そして他の八つの九龍城が見える。確かに公転軌道が少しずつ小さい。
「この最も外側の城は、つまり冥王星。どんどんと内側に向かい、最後の一つが水星」
そこで待ち構えるであろう迷宮の番人。龍であり英雄であり、皇帝のようにふるまうもの。太陽にも等しき存在と言うわけだ。
見える。海王星。この冥王星の回転とは逆方向に回っている。つまり最接近する瞬間。その相対速度は大幅に打ち消される。
チャンスを待つ余裕はない。カウントできるものでもない。私はその瞬間を見極め、鉄柵によじ登る。回転に乗って下から突き上げられるようなベクトルを得る。
翔ぶ。
海王星の一室に飛び込むと同時に全身を丸める。体があらるゆるものに当たる、すぐさま慣性力が全身に作用し、さらに公転軌道の違いから左に張り飛ばされるようなGがかかる。私は転がりながら身を起こし、飛来物を察知して刀で受ける。鉄枠を持つ鏡が刀の峰で砕かれる。
「……ほんの少しですが公転速度が弱まっている。なるべく速く次の惑星に行かなければ、この環境に長くいることは許されない……」
轟音。
音というにも生ぬるい、破滅的な予感のような音が部屋を突き抜ける。
隣のビルが、2階部分から折れている。
重力と遠心力の暴威の前にはビルすらも耐えられないのか。数千本の鉄筋を引きちぎり、人間の頭ほどのコンクリート片を雨のように降らせながら、ビルが一棟こちらに倒れかかろうとしている。
「……振り切ってますね」
奥へ逃げるか、だが倒れかかられたこのビルも崩壊するだろう。
重力が横倒しになる。私はベランダを飛び出してビルの側面を走る。奇妙な浮遊感を得た隣のビルが崩壊しながらかぶさってくる。私は速度を上げんとするが、頭上に影が。
「お姉ちゃん!」
その体がかっさらわれる。左右から体をつかんで前側に加速する。ビルの直撃を逃れたあたりで進行方向が「下」になろうとして、私たちは適当な一室に踏み込む。
「や、やばすぎ、今のまじでやばかった」
それは双子だ。白のレオタードに身を包み、細い手足が赤らんでいる。
私たちは静止することができない。目まぐるしく重力の方向が変わるこの九龍城で、壁から天井へ、また別の壁へと回転するように移動する。
「あなた方、よく追いつきましたね」
「僕たちはプロだから……でもお姉ちゃんこそよくここまで来たね。この城って乗り込むだけでオリンピック級の技がいるよ」
私は双子の方は見ない。この迷宮でむやみに首を動かすと、コリオリ刺激により強烈な酩酊感に襲われるだろう。少なくとももっと中心に近い城に行くまでは、己の身体感覚すら味方ではない。
「お二人とも、九龍城の地図は頭に入っていますね。次の城、私は惑星の名前を当てはめましたが、次の天王星と接しているのは南西の角の部分です。そこまで一気に行きます」
私はベランダを飛び出し、壁を足場として走り出す。
「うわわ、ちょっと無茶だよ」
「外を通るのヤバいって!」
この九龍城は公転すると同時に自転している。振り落とされないためには地上部分の路地を通るべきだろう。しかしそれは無数の飛来物と重力の混乱。なりより時間がかかるという最大の敵がある。多少危険でも側面を一気に行くべきだ。
足元が傾く。慣性が私たちを押さえつける。全身が石の大地に吸い付く感覚。グリップを利かせて一気に走る。加速と跳躍。6棟ほど行ったあたりで重力が上向く。貯水タンクの基礎部分にしがみつき、体が放り出されるのを防ぎ、飛来するコンクリート片を目でとらえて回避する。
双子もついてきている。さすがというべきか。私たちは南西の角へ。
ごう、と九龍城が行き過ぎる。そのすれ違う一瞬。内側の軌道を通る城のベランダがくっきりと見える。時間が止まったように感じる0.4秒の邂逅。互いに回転しており、すれ違う瞬間に相対速度が相殺されているのだ。これなら飛び移れるか。
「……お姉ちゃん。あれはトラップだよ」
「うん、絶対に乗っちゃダメ」
双子は違う見解を示したようだ。私は屋上の鉄柵に腕を絡ませながら言う。
「どうしたのですか」
「海王星と天王星のすき間は1メートルぐらい。でも天王星と土星の隙間は40メートル以上ある」
「それに回転の関係があんまり良くない。天王星から土星に渡るのは不可能だよ」
観察する。天王星の回転運動を目で追い、それが90度ねじれた土星の軌道と直角に交わる瞬間をイメージする。
なるほど、確かにどちらも軌道に対して順回転している。そして公転軌道はほぼ直角に交わる。これではすれ違う瞬間に移動できない。天王星に渡ること自体が罠なのか。
「つまり……この海王星から、天王星を飛ばして土星へ行くルートが正解」
「それしかないけど、でも……」
九龍城の大きさは126m×213m。惑星を一つ飛ばすということは、少なくとも九龍城の一辺を渡るような跳躍が必要になる。短い方の辺を渡るとしても120メートル以上のダイビング。そして実際にはそれより遥かに長い距離を翔ぶ。
見えている。公転軌道にはゴルフのスイングのように振り上がる瞬間があり、回転する城の端に乗れば自転の勢いを得て巨大な跳躍ができる。
「かなりの難易度ですが、お二人には可能なのですか?」
「できない」
「……そうなのですか?」
「まだ肉体が育ってないんだよ。手足の長さが足りない」
双子は意を同じくしたように頷く。
「土星に到達した時、最初に大きく跳んで安全圏まで行く必要があるんだけど、そこで確実に落ちちゃう」
「あと3年……いや、あと2年あれば届いた」
「でもダメなんだ。今の僕たちだと届かない」
「……炸薬で撃ち出すアンカーフックを使うという手もありますが」
「お姉ちゃん出せる? 僕たちは専門外だよ」
「出せませんね」
ではどうする。双子が到達できない跳躍をどうやって実現するのか。
その答えは、すでに見えている。
「では跳んでください」
「えっ」
「あなたたちの跳躍を見て学びます。私はあなた方より少しだけ手足が長いですから」
「……プルートゥのお姉ちゃん。何があったの?」
「別に何も」
私はさっぱりとした顔をしていると思う。双子も私の変化は察しているものの、そこに凄絶さとか鬼気迫る感じだとか、とにかく常ならぬ気配を見出せないので戸惑っているようだ。思い詰めていたような私はどこへ行ったのか、と。
私は胸に手を当てて言う。
「私は迷宮の中で求めているものを手に入れた。そして不要なものを捨てました。だからもう迷うことはない。失うことを恐れることもない。今の私は走破者として限りなく理想に近い位置にいます」
「な、なんか変わりすぎてない?」
「それに身のこなしが……前とまったく」
「さあ、協力してくれますね? それともあなた方がクリアできる道を探しますか?」
「僕たちにも、クリアできるルートはあるかも知れないけど」
双子は視線を交わしてから言う。
「僕たちがクリアするべきじゃないと思う。僕たちにとって迷宮は手段であって、目的じゃないから。名誉で戦うべきじゃないの」
「お姉ちゃんがクリアするなら手伝うよ」
私はまだ二人のことを知らない。おそらくどれほど付き合いを深めても知ることはないだろう。双子は私たちのような迷宮の住人とは違う。ダイダロスのもたらす演算力の世界とは異なる場所にいる住人だと感じる。
「ありがとうございます」
「ポルックス、僕が飛ぶからお姉ちゃんをサポートしてあげて」
「わかった。次の接近で行こう」
カストルが窓に近づき、ぽん、と自らの体を放り投げるように翔ぶ。横倒しになった世界の中でビルの側面を駆け、そして両足で踏み切って真上に翔ぶ。
その瞬間。惑星の自転がもたらす強烈な上向きの力。カストルの体が遥か上空まで届く。一つ内側の惑星、天王星と接触する。
そして見た。天井から突き出すアンテナに横向きにつかまり、城の上昇に伴って体を振り上げる。手を離す瞬間にその五体は重力の鎖を蹴散らし、暴風の中で奇妙な浮遊感を見せる。
さらに上昇距離を伸ばし、迫りくるのは一つ内側の土星。見えているのはビルの側面。そこに天井に張り付くような塩梅で着地。四肢のバネを使って隣のビルへと翔ぶ。神のサイコロの表面で戯れる眺めか。超構造体の表面を滑るように移動し、隣のビルのベランダへ。
手を伸ばす。だが届かない。
カストルの体を重力の精霊が捉える。回転しながら虚空へと落下していく。その姿は暴風の中で白い点となり、眼下にあった滝へと落ちていった。
「なるほど……天井のあの地点に上昇のベクトルを得て着地し、一気に跳んで隣のビルに飛び込む」
「お姉ちゃん、僕が腰を持ち上げて補佐する。とにかく全力で跳んで」
これは前代未聞どころではない。未来においても誰一人挑むことはないと断言できる超難度。
天体は回転する。三半規管が重力を感知する。横倒しに見える景色の中でビルの側面を走る。背後からポルックスが追いすがる。
惑星の自転。中央の力が先端へ。時計で言うなら7時から8時に到る地点。巨大な質量が地の底からせり上がってくる感覚。
ポルックスが腰を持つ。少年らしからぬ力がかかると同時に、かがめた両足の力を解放。
自転のベクトルを受けて翔ぶ。眼前には天王星。目の前に迫るアンテナを持ち、掴むと同時に全身がその運動エネルギーを察知する。
私は笑っていたかもしれない。
この信じがたい世界に。迷宮という宝物庫の輝きに。
Tips コリオリ刺激
乗り物や回転する物体の上で人体が受ける見かけ上の力、内耳の前庭系に作用する力のこと。
乗り物酔いとは視覚刺激による身体感覚と、実際に肉体が受ける加速度、負荷、コリオリ刺激などが異なるための脳の混乱であると説明される。
フィギュアスケーターなどは一点を凝視するなどして酔いを軽減すると言われるが、技術よりも場数を踏むことでの肉体の慣れが重要とも言われる。




