外伝 第三章 6
水の振動を足元に感じる。私は鉄製の手すりに乗り上がり、壁面を蹴って屋上へ。連続性のある踏み足が重力を軽減する。
九龍城は大河に浮かんでいる。
迷宮では方位の概念が曖昧になるが、ともかく水は一方から来て、反対側で大きく広がって海のような眺めとなる。
そして、九龍城は上流へ向かって移動している。
私は大河の上流を見つめつつ、数センチまで接近していた蛟の拳を回避。その喉笛に刀を突き立てる。真上に振り上げると同時に姿がかき消える。
足元には血溜まりが出来ている。かなり失血しているが問題はない、私は自分の血液を意識する。
赤血球と血小板、微量の成分と酸素。教科書通りに生み出す。中国拳法で言うなら気を巡らせる感覚だろうか。演算力による増血、初めてだが特に問題は無さそうだ。
だが血が足元に流れてくるのは避けたい。私は全身の傷に包帯を出現させ、傷口を圧迫止血する。
「この迷宮の目的は何だ」
背後に来ていたゼウスが言う。
「この事象はどこで終わる。どこに至ろうとしている」
揺れは勢いを増している。荒波にもまれる船のごとく、大きく傾く数秒であらゆるものが窓を突き破って落ちていく。
下方をのぞき込めば黒の濁流。巻き込まれれば5秒と持たないだろう。
「この迷宮、どこか無目的に思える。ただ九龍城があって、それが水に襲われる。この事象は何なんだ? なぜ水でなければいけない?」
「確かにそうですね。九龍城も当時のままを再現しているようですが、さほど複雑でもないし、外壁を伝って上り下りできれば移動もたやすいようです」
「おそらくギミックはまだ始まってもいない。蛟がいなければ走破者を排除できるほどの迷宮じゃないし、上に行けば難を逃れられるというのは単純すぎる。赤文字の難易度とは思えない」
つまり、今のこの揺れすらも大序曲のようなもの。
爆発音。
彼方を見る。かなり離れた場所で、ビルの一つが爆煙に包まれている。九龍城が移動しているため、それはすぐに吹き散らされる。
「ロケットランチャー? 走破者が蛟を攻撃したのですか?」
そして見た。ビルの屋上。
エメラルド色の鱗をまとった蛟たち、それに囲まれているのは長裾の礼服。赤を基調として絢爛豪華な綾糸で織られた服。顔には京劇のような、白地に金と紅色が走る華美な面。
「あれは龍袍じゃないのか。皇帝の着る服だぞ」
その人物が指を指す。すると三体の蛟が跳躍し、ビルの一つに入ったと思った瞬間、無数の爆発が折り重なって発生。周囲の数棟を巻き込んで吹き飛ばす。
私のいる場所まで届く爆圧。そして破壊と再生がほとんどタイムラグなしに起きている。根こそぎ吹き飛んだはずのビルが一瞬で再生していく。
「なるほど、中華の皇帝は龍と同一視される。あれが真なる迷宮の番人か」
あれは迷宮のNPCか、それともオイディプスが用意した敵性走破者とでも言うべきものか。どちらであっても私たちは戦うだけだ。
龍袍を着た貴人はノミのように跳び、ビルの一つに突っ込む。同時に激しい銃撃音と爆発の重奏。
「あそこへ行きます」
九龍城の揺れを足の裏で感得する。揺れのベクトルを体内に吸収するイメージで跳ぶ。複数のビルを渡り、突き出した看板を蹴り、雨どいを片手で掴んでビルの角を曲がる。目的の建物に飛びつく瞬間、雨戸に斬撃を加えて飛び込む。気配だけで感じるが、ゼウスもついてきているようだ。
飛び込んだ場所。そこはレストランのようだった。比較的天井が高い。数人の走破者がいて、龍袍を着た貴人を囲んでいる。
一人きわめて大きなシルエットの人物がいる。その人物が着込んでいるのはフレームだけのロボットのようなもの。工業用のパワーローダーだ。大昔の映画では宇宙人ともやり合っていたが、果たしてどのぐらい戦えるのか。
「ゼウスか、手を出すなよ」
囲んでいる中の一人が言う。ゼウスが軽く両手を挙げた気配があった。背中に目がついてるかのように、彼の細かい動きまで見える。
「好きにしてくれ。僕は赤文字が消えてくれれば何でもいいんだ」
パワーローダーが殴りかかる。多関節による滑らかな動き、数トンの重量を乗せる一撃を貴人の手が受け止める。足元のコンクリートに亀裂が走る。
ギッ。
断末魔を聞くような感覚。金属が凄まじい音を立ててパワーローダーの腕がねじ切られる。ボルトと金属板が周囲に散る。
操縦者の眼前に貴人が飛び上がり、両足を折りたたんだ姿勢からの前蹴り。スチールの枠で覆われた操縦席がくの字に曲がり、内部の生物がトマトのようにつぶれた直後、二段蹴りで吹き飛ばされる。パワーローダーは倒れると同時に消滅した。
「蹴りで……」
私は床を見る。貴人のいた場所が吹き飛んでクレーターになっている。まず弾丸のような速度で地面を蹴り、その重量をすべて蹴り足に乗せたのか。
およそ人間業ではないが、人間業だ。
別の走破者が襲いかかる。なんと二丁拳銃。銃身に刃物のついた近接武器を兼ねる銃。直線的な軌道と至近距離から放たれるマズルフラッシュ。まさかガン・カタの使い手か。
貴人はそれを回避する。見た目には非常にゆっくりとした動き。攻撃する側がわざと当てていないのではないかと思えるほど遅い。そして攻撃を見極めたかに思えた瞬間。走破者の武器が吹き飛び、両腕がストローの袋のように曲がり、胴部が消滅してログアウトする。
「あなたは……」
分かる。
こいつの強さにはトリックがない。
身体能力は人間を大きく超えない。龍袍は分厚く重く、防具と同時にグリップを効かせるためのウェイトの意味を持つが、メカニカルな仕掛けはない。
こいつはまさに武の頂点。肉体は芸術品のように練り込まれている。
なるほど、迷宮の番人。
人間としての純粋さにこだわっていたオイディプスの刺客か。実にジュブナイルだ。
私は踏み込む。先手こそ先に囲んでいた走破者たちに譲ったが、引くつもりはない。
袈裟懸け、一瞬で空気を切り裂くほどに加速する刀。
貴人は足さばきでかわす。途中のコマが飛んだような感覚。二撃、三撃、貴人は全身を同時に加速させるように動く。動作の連続性が目で追えない。足の踏み変えはおそろしく的確。私はテーブルを蹴り飛ばしながら追いすがる。
貴人の反撃。ツバメのような速度で繰り出される右回し蹴り。受ければ刀が折れる確信。身をかがめる瞬間に顔面を狙う拳。無理やり重心を右後方に引っこ抜くような回避、頬を熱がかすめる。いくつかの椅子が倒される。
分かる、こいつの打撃をマトモに受ければ人体などひとたまりもない。そして刀に加速を乗せる余裕はない。すべてをコンパクトに、密度を高めろ、予備動作などあると思うな、目で見えるものよりも肌に感じるものを優先させろ。すべてのテーブルと椅子の座標を把握しろ。
「プルートゥ、足場に気をつけろ!」
そして背中に感じる。音の山脈。
見ずとも分かる。とてつもない規模の大瀑布。かのナイアガラの滝が落差約56メートル、幅約675メートルであるなら、これはその数十倍。実在すれば地球すら動かしかねない巨大な滝。もし一瞬でも滝を見たなら私の頭は吹き飛ばされる。貴人の拳に刀の柄を当てて軌道をそらす。
「なるほど、蛟とはやがて龍になる存在。龍になるといえば、登竜門ですね」
九龍城の先端が、滝に乗り上げる。
九龍城は立体物と捉えられる。ある程度の厚みの岩塊を基盤として、集積回路のようにビルが密集した3次元物体。それが滝を登り始めている。何もかもが前方に落下していく。足元の角度は70度を超え、私は貴人に向かってゆらりと落ちていき、その肩に袈裟懸けを。
ぎいん、と火花が散る。私の刀が届いたが、貴人の服には金属線が織り込まれているようだ。金属を斬るイメージで斬りつけなければ。
「次は斬りますよ、龍もどき」
横倒しになった世界は回転しつつある。私は天井を蹴って壁に着地、滞空時間の間に重力の方向が変わる。
まさに神の怒りのごとく。巨大な滝に揉まれる中で九龍城全体が回転し、桁違いの水で洗われる。テーブルと椅子が、ジュークボックスが窓を割って落下していく。そして全体としては上昇しているのだ。視界の端で、ゼウスが鉄柵にしがみついているのが見えた。
「すさまじい……この環境に初見で対応するとは。プルートゥ、君はどれほどの集中を」
私が張り巡らすのは感覚の網。地形に沿って広がり、あらゆるものの運動量をとらえる網。球状の制空圏をイメージし、それに触れた置き時計を両断する。
貴人が来る。
回転する世界での攻防。回転速度はおそらく1秒に0.7回。調度と石片が泥に混ざって降り注ぐ。身体に影響がないものを回避対象から除外する。
拳を受ける。刀の表面をボーリングの玉が滑る感覚。わずかでも角度を誤れば刀が破壊される。回転する視座の中で足場を見つける。構えを変える。貴人の動く先を予測する。水のダイナミズムを感じ取る。
移動する。住居から肉屋の厨房、路地へ、広場へ、足元にあった肉入り包丁を脚で跳ね上げ、手に触れると同時にアンダースローで投げる。貴人はその柄を横から掴み、コンクリートの壁に突き立てる。
貴人の攻撃をしのぐには移動し続けること。九龍城の回転を利用して体にベクトルを蓄えろ、それを刀に流し込み、あるいは次の跳躍のための力に変えろ。
だが肉体的限界までは無視できない。こんな攻防を何分もやれるわけがない。貴人に無理やりにでも隙を作らなければ。
「導体から離れて!」
ゼウスの声。そして今いた部屋に水が流れ込む。
私は建物の回転を読んで木製の梁に乗り上げる。周囲に凄まじい閃光。数十万ボルトの電圧が水を介してスパークしたのか。
貴人もさすがに動きを鈍らせる。私は横向きになった地面で壁を蹴る。刀が加速する。刀が私の意図よりも速い感覚。殺意が意識の先にある。
それが貴人に届く。金属線の織り込まれた服を斬り裂き、臓腑に届く一撃が。
血が、水が空間に静止する感覚。超集中の世界で時間が止まる。
気づけば、九龍城の回転は止まっている。
すべてのものが平行になり、落ちていたものが逆再生のように戻り、砕けたものはパズルのように組み上がっていく。滝の音が足元のさらに下に感じる。九龍城が滝の上を浮遊しているらしい。
私は貴人に刀を向ける。貴人はぼたぼたと流血しながら、それでも立ったまま私を見る。京劇のような面をつけているが、美しく、非現実的な黄金の瞳だと分かる。
「あなた、オイディプスですね」
おおよそ分かっていた。私は今現在見えてるものだけでなく、過去に見てきたすべてを新しく経験している。この貴人の体重移動、初動を繰り出す時の沈み込み、視線の動き、あのネオン街の迷宮で見たオイディプスと一致する。
「違うな」
皮肉げに笑うような、若く力強い声。龍袍の貴人は指を突き上げる。
「我は迷宮の支配者である」
「我は迷宮の理の守護者である」
「我は迷宮に挑むものを屠る怪物である」
「我は人の変容する階梯、我は変化し超越し、人の及ばぬ領域へ向かう者である」
「我こそは迷宮である。迷宮世界の創造者である!」
その時、周囲に浮かぶ緑の板。
私は後方に跳ぶ、目の前にサーフボード大の鉄板を具現化。爆圧を両足で受け止めて後方へ。背中でガラス窓をぶち破って、別の建物の屋上へ。
「爆薬……体術と爆薬がオイディプスの権能ですか。だが、もはや私の敵では」
上空に影がある。
見上げれば九龍城の平たいビル群。
だが、ひとつではない。
九つのビル群が、一種の多細胞生物のように寄り集まっていた九龍の街が、九個、確かに浮いている。惑星の運動のように、素粒子の模式図のように空間の一点を中心として回転している。一つの速度はおそらく時速500キロ近い。
「まさか」
ゼウスが言う。
「どうしたのですか」
「オイディプスは迷宮に干渉した。己の創造した迷宮をダイダロスのシステムに組み込み、自らも迷宮の番人となった」
「ええ……それは」
周囲に降り注ぐものがある。
身構えたが、われわれを狙っていない。アトランダムに周囲に突き刺さるそれは木製の標識だ。数万本、冗談のような数で平原に降り注ぎ、崖の下に見える川にも滝壺にも落ちている。
名称が刻まれている。何かの宣言なのか、それともダイダロスのシステムに干渉するために必要な行為なのか、オイディプスはあの九龍城群に新たな名前を与えるようだ。
「オイディプスは迷宮そのものを進化させている」
「迷宮を?」
「違う言い方をするなら、演算力で迷宮そのものを生み出している。それをこの迷宮に割り込ませているんだ」
それは、確かに可能かもしれない。
だが、それを実現するのにどれほどの演算力を必要とするのか。想像もつかないほど遠大な計画と、煮えたぎるような執念。その帰結があの迷宮か。
走破者たちは、大なり小なり人間性を失っていく。
オイディプスの到達した高み。そこへ行くために、どれほどのものを失ったのか。
その迷宮の、名は。
ーーー黄龍薨夜天禁宮ーーー
Tips 滝の速度
水の固まりを自由落下させると、すぐに細かい水滴に分解される。一滴の水は空気抵抗を強く受けるため、終末速度はさほど速くならない。
十分な高さと流量がある滝の場合、先に落ちた水滴がスリップストリーム効果を生むことで落下速度がわずかに速くなることがある。また滝の流れは乱流を生み、それがさらに空気抵抗を減らす。
更新が遅れて申し訳ありません
次が最終章なので頑張って書きます




