外伝 第三章 5
「クリア……ですね」
筐体に変化が起きる。全体がじわりと発光し、九龍城のほこりっぽい空気の中に何かが投射される。
それは皇帝のような極彩色。中華風の正装をまとった女性。道教の女神である天后か。
女神はアルカイックな笑みを浮かべ、天井の一角から伸びてくるものがある。それはコードであり、先端にはガーゼに包まれた電極が。
「Tジャック……迷宮の中に」
ダイダロスの迷宮はチューリング完全の世界であるという。あらゆる物理法則が再現され、電子機器も含めてどのような機械も顕現させられる。
ならばTジャックもそうだろう。この迷宮がオイディプスの支配下なら、このぐらいのことは起きるか。
おそらくこれを接続すれば、私の魂は想念の中に連れ去られる。
今この場所、九龍城にある肉体に大した意味はない。
では、ホテルの一室にいる肉体、現実世界と呼ばれる場所の私はどうなのだろう。
それもまた、些末なことか。
私の肉体が滅びても、魂はオイディプスの管理下で永続する。私は魂と肉体の分離を意識する。あるいは肉体など魂の容れ物に過ぎないのだと。
「やめるんだ」
はっと、声の方を向く。
ランニングシャツにハーフパンツという姿。長身の白人男性、ゼウスが。
「……今度は本物のようですね。なぜここに?」
「妙な電磁波を感知したから来た。その筐体でプレイしているのはオイディプスの仕掛けたゲームだね。彼の誘いに乗ってはいけない」
私は皮肉げに笑ってみせる。
「ゼウス。あなたに私のやろうとすることが分かるのですか」
「カストルとポルックスに話は聞いている。オイディプスの叶える願いとは想念の中に埋没すること。自己完結する夢への誘いだ。君が口に含もうとしているのはTジャック、君の境遇を考えればおおよその想像はつく」
「ご明察ですね。私はオイディプスの仕掛けたゲームをクリアした。だから彼に導いてもらうつもりです。私は想念の世界で幸福を手に入れる」
ゼウスに一瞬で排除されるのはまずい。ログアウトしたならこのTジャックを失うかも知れない。ゼウスが何らかの兵器で私を破壊するのに何秒かかる? 1秒か、あるいはその半分か。
私は血に塗れた顔に手をあてる。なるべく恍惚とした笑みを見せて、狂気の香りでゼウスを牽制する。足元の血溜まりは、もはや海豚が飛び出すほどに広い。
「ゼウス、私を排除しても無駄ですよ。私はすでに天后をクリアできる。たとえ排除してもまたクリアするだけです。それに私を排除する意味などあるのでしょうか。私は九龍城の攻略には協力しない。蛟となってあなたたちの敵に回るかもしれませんが、今さら一体増える程度のこと」
「そうじゃない」
ゼウスの目は真剣に見える。彼は私を説得しようとでもいうのか。手のつけようがない善性、形容しがたい寛容さ。彼にだって見えるはずだ、私と彼の間の巨大な溝が。
「君は勘違いをしている。オイディプスは善人なんかじゃない。彼のゲームをクリアしても幸福になどなれない」
「客観的にはそうでしょう。幸福な夢を見ているだけですからね。ですが夢の主体は私です。私の主観においては何も困ることはない」
「そうじゃないんだ。僕にも説明はできないが、きっと何か罠がある。オイディプスが君たちに何かを与えるなど絶対にない。彼は迷宮の秩序を破壊しようとしている。邪悪な男なんだ。とてもじゃないが信用のおける人間ではない」
「走破者だからですか?」
ぎり、と、ゼウスは奥歯を噛み、珍しく苛立った顔になる。それが少し愉快だ。
「走破者は根本的に傲慢で、救いがなくて、自分のことしか考えていない。演算力という魔法を使って世界を導くべきなのに、東の善き魔女を目指すものは誰もいない。ゼウス、あなたもまた西の悪い魔女。あなたがそうだからオイディプスもそうであるはずだと」
「違う。僕は自分のことなどどうでもいいんだ。僕は常に、地球に住む皆のために演算力を行使している」
「あなたに他者を慈しむ心があると言い張るなら、オイディプスにもあるでしょう。自縄自縛ですねゼウス。そもそもあなたの言葉に説得力などあるのでしょうか。オリンピアをまとめ切れなかったあなたに」
「離散なんて一時的なことだ。皆、いつかはきっと分かってくれる。僕の理想こそが正しいのだと。なぜなら僕の理想とは原則論だからだ。最大多数の最大幸福。そこに向かう道程であるからだ」
ああ、なんて。
愛すべき、唾棄すべき人なのか。
ある意味で純朴、それがゆえに難解。人恋しいのに孤独。眩しすぎて目もあてられない。
だからもう。これ以上は付き合えない。あなたのためにも。
私はTジャックを舌にあてる。ゼウスは手を伸ばしかけたが、私に届かずに空をつかむ。そして私は眠りと覚醒が同時に訪れて。
暗闇。
静寂。
空間の拡大。
虚無。
閉塞。
そして自己認識。
「ほう、走破者が来たか」
声が聞こえる。いつぞやネオンの街で聞いたしわがれた声。空間全体にいんいんと響いている。私は果てしない暗闇の中にいると感じる。
「オイディプス、私はゲームをクリアした。願いを叶えてほしい」
「すでに叶えている」
光が見える。
どこ、と方角で言い表せるものではない。だが確かにそこにあり、私はガラス越しにそれを見ているような感覚がある。
暖炉に照らされた広い部屋。
大きな絨毯と柔らかなソファ。古びた調度と、いくつかの絵画と写真。
大きめのソファで、三人の人間が身を寄せ合っている。
父と兄と、幼い日の私が。
「人間の魂とは深遠なものだ」
声が響く。それはすぐ近くから聞こえた。車椅子に乗ったオイディプスがいる。いる、と感じるだけで、私とオイディプスの間に実際的な距離は無いようにも思う。
「並大抵のネットワークではそれを格納できない。そして天塩創一のネットワークを模倣しようにも、あの規模はとても再現できぬ」
幸せそうな光景だった。みな温かな空気と、家族という絆の中で眠っている。少女だったころの一場面。あの眠りは誰にも妨げられず、誰も手を触れようとも思わない完全さがある。あの場面だけが、ここで永遠に続くような気がした。
「魂のすべてをデジタライズすることはできぬが、願いの部分だけを抽出すれば可能だ。夢の中で処理される情報ならば、私の用意したストレージにも格納できる」
「魂を部分的に閉じ込めるのですね……願いの部分だけを」
私はそれを理解している。
あの晰星という少女もきっと同じ。想い人と再会するという、あの一場面だけを格納されたのか。確かに私は、その部分しか見てはいない。
オイディプスがそのような事をする、目的とは。
「それが何をもたらすと思う」
「自明ですよオイディプス。私はすべて見ています。天后によって願いをかなえてもらった人間は、蛟となって迷宮の怪物となる」
「強い願いを持つ人間は、強い精神性を持つ。わしはそれを利用した。願いの部分を切り離し、残った純粋なる魂を集め、戦士として育て上げたのだよ」
では、私は。
「プルートゥ、わしはお前を蛟にする気はない」
そのように言う。
「お前はわしの美学から離れておらぬからな。健全な走破者が育つなら構わぬのだ」
「私は、何者だと思いますか?」
問うてみる。問わずともすでに答えは知っている。だがオイディプスの哀れむとも、嘲るともつかない声の響きに興味があった。彼は私をどのように評するのか。少なくとも賞賛はないような気がした。
「本来のお前だろう」
言葉にたいした重みはない。考えてもいなかったというような即興の言葉だ。
「父と兄を失い、それと再会したいという心すら失った。純粋無垢なお前だ。めでたいことだな」
「そうですね」
私は刀を持ち上げる。本当に刀を持っていたかどうかはどうでもいい。
オイディプスは口の端だけで義務的に笑い、その像がゆがみ、煙のように暗闇に溶けた。
あとに残ったのは私だけ。
家族と再会できた私は、まだ眠り続けている。
父と兄、そういう感覚はすでに遠ざかっている。あれはすでに捨てた人生だ。もう惜別の感情すら無い。
ああ。
これでいい。
私は。
最初から。
これだけを望んで。
目を見開く。
目の前にはゼウス。今のは客観的には数秒のことか。
靴底に感じる振動、毛髪に感じる音。ゼウスが私の背後に向けて腕を突き出そうとする一瞬。右のかかとを軸に回転。一瞬で刀を生み出し、腰から腕に、腕から手首に、手首から指先へそして切っ先にまで力を伝播。眼前に迫っていたグリーンタイルのスーツを刀で撫でる感覚。
タイル状の爆薬の隙間を刀身がすり抜ける。脳が燃えるように熱い。あらゆるものがスローに見えて刀が蛟の首を飛ばし、やはり爆薬の隙間を抜けてスーツを斬り裂き、血が噴き出す瞬間には蛟の影は消えている。
納刀。何万回の組み手も及ばぬ戦闘の経験を感じる。これまでの経験すべてを思い出せる。これからのあらゆる戦いを予感できる。
「君は……」
「私ですよ、プルートゥです」
私はすべてを理解している。
この身に起きたこと、一つ残らず計算通り。何一つ意外なこともなく、何一つしくじったこともない。元の私は天后の攻略に時間をかけすぎていたが、大した問題ではない。事態の収拾には間に合っている。
「私の心の中に弱さがあった。黄泉の川を渡った父と兄を求める心。それが私を人間の域に繋ぎ止めていた。だから私はそれを置いてきた。オイディプスの生み出した狭小なストレージ、演算領域に、想念の世界に、私にはそれが必要だった」
「それは……喪の仕事か。喪失から立ち直るための心理的段階……」
「違いますね。私は何も喪失していない。父と兄は分離した私と永遠の時を過ごす。私は家族への妄執を捨てると同時に手に入れてもいる。もう一人の自分に人生の一部を引き受けてもらう。SFならばよくある発想に過ぎません」
「そんなことを計算でやったと言うのか……」
私は笑う。ゼウスは歯噛みする。
私は多少、凄絶な顔になっていると感じる。体の内側から喜の感情が、全能感と万能感があふれ出てくる。気をつけねば奥歯を噛み砕きそうなほど、満身の注力は小指を動かすほどの敷居もない。
ゼウスは少し戸惑うような、あるいは悲しんでいるように見えた。心外だ。私は何も失敗していない。そして完全な救いを得ている。想念の世界に残った私も。ここにいる私も。人生は十全だ。
「もちろん計算通りです。すべて分かっていたのですよ。私にはもう振り返るべきものは何もない。ただひたすらに走破者としての純粋さがある。人の世の些事に関わることも、己を憂うこともない研鑽の世界がある。何という素晴らしき事態でしょう。仙人とはこのような心境なのでしょうか」
「プルートゥ……失われた家族を思う気持ちも、君の一部だろう」
「獲得と喪失は等価であり、逆もまた然りですよ。私は家族を想う心に別れを告げた。それは私にとっては喪失であり獲得なのです。迷宮は思索の場であり、ただ自己の内省と変容だけがある」
水音がする。
どうやら迷宮のギミックが作動しているようだ。ここは九龍城の最下層であるから、やがて完全に水に沈むだろう。上に向かわなければ。
「私は行きます。この迷宮を攻略し、演算力を確保せねばなりません」
「待ってくれ、僕も行く」
「ついてこれなければ」
私は片目をつぶり、一瞬だけ、心の底から笑ってみせた。
「嘲弄ってあげますよ、ゼウス」
Tips 喪の仕事
心理学者において大きな喪失から始まる心理段階のこと。
「無感覚・情緒の段階」「否認・抗議の段階」「断念・絶望の段階」「離脱・再建の段階」に大別される。
喪失へのケアには正しい段階を踏むことが重要とされる。この段階は前後することも巻き戻ることもあるが、基本的には順序通りの段階に正面から向き合うことが良いとされる。




