外伝 第三章 4
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電子音の中で目を覚ます。
画面の中の私はまだ死んでいる。倒されたことは覚えているが、そのまま気絶するように眠ったらしい。レバーを持っていた手は汗でべとついていて、部屋は唐辛子の匂いが鼻につく。
体が乾いていると感じる。手近にあった赤い何かを手づかみで食べて、ペットボトルの水をがぶがぶと飲む。喉に焼けるような辛さがあるが、何を食べたのかは分からない。考える気力もない。
何日が経っただろうか。
私は外界から隔絶されたホテルの一室で、ずっと天后のゲームに挑み続けている。
攻略までのルートは見えている。最後の敵を出現させたことは数え切れない。
だが、どうしても一歩、及ばない。
なぜだろう。私と晰星で何が違うのだろうか。若さゆえの反射神経の差か、ゲームをやってきた経験の差か。
それとも願いの重さか、執念の強さか、激甚なる心の熱量というものか。
私はきっとひどい姿だろう。もう何日も陽の光を見ていない。化粧もしていないし、入浴も。
赤文字の迷宮はどうなっただろう。まだ攻略されてないようだが、何人が演算力を失っただろうか。
私は気力が尽きかけるのを感じる。この世に無限など存在しない。私の心さえも。
ごろりと床に寝そべれば、白い四角。ダイダロスが見える。
ちかちかと、右下に通知ランプが見える。誰かの呼びかけだろうか。
私は自分の下半身をかき集めるように立ち上がり、ダイダロスの通知を開く。
一件だけ。ケイローン様からだ。
だがメッセージも動画データもない。あるのは1枚の地図のみ。
「……」
数時間後、私は路線バスに乗っていた。
本来ならセキュリティを完備した車を用意すべきだが、もう演算力を行使することも億劫だった。完全に投げやりになっていた。
いくつものバスを乗り継ぎ、重慶の郊外へ。田園地帯が開ける景色の中でいくつかの丘を越えて、さらに1時間ほど歩く。しばらくぶりに着るスーツはやけに着心地が悪い。
たどり着いたのは牧場だ。大きな敷地に何十頭もの馬がいる。
牧場の名は景龍馬場。
働いていた人に問いかけると、牧場長は忙しいので待ってて欲しいとの返答だった。敷地内にある家で待たせてもらう。
その牧場長が現れたのは4時間後だった。窓の外はすっかり暗くなっていた。
「すいませんね、馬が産気づいてしまったもので」
「いえ……」
「難産でしたが母子ともに無事でしたよ。アレイオンと名付けようかと思っています。見ますか?」
「いえ、大丈夫です」
現実世界でケイローン様と会うのはずいぶん久しぶりな気がする。お産があったとの事だが、身なりを整えたのか茶のセーターと褐色のズボンという姿だ。背中で束ねている長髪だけが特徴的だが、元オリンピアとはとても見えない。細い目と撫でつけた髪には冷たい印象はなく、こざっぱりとした信頼できる医師、という印象である。
「意外でした。獣医師だとは聞いていましたが、まだお仕事をされていたのですね」
「いえ、ここはもう牧場としては機能していないのです」
私は小首をかしげる。あんなにたくさんの馬がいたのに。
「ここでの事業は、言ってみれば馬の育成ですね。優れた血統を選び、特別な薬物と訓練によって、常識では考えられない性能の馬を生み出しています」
「それは……競走馬の育成ですね。それも牧場の仕事ではないのですか」
「いえ、スポーツとしての競馬を行う馬ではありません。そもそも繊細な子が多いのです。全速力で走ればすぐに心臓が壊れてしまう」
ケイローン様は脇にあるホワイトボードを見る。その様子に私ははたと気づく。
「もしかして、迷宮に馬を送り込むのですか」
「そうです」
驚くべき発想だ。確かに理論的には人間以外でも全感覚投入が可能だと聞いたことはある。だが、それを迷宮の攻略に利用するとは。
「しかし、私が走破者を続けられればの話ですが」
ケイローン様は何度か赤文字の迷宮に潜ったようだ。しばらくは迷宮についての話となる。蛟が天后によって捕らわれた若者という推測も伝える。
「プルートゥ、あなたから見て攻略は可能だと思いますか」
「まだ全容も見えていないので何とも言えません。しかし、オイディプスはかなり自信があるように見えました。元オリンピア組をよく知る彼ですから、やはり相当な難易度なのでしょう」
ケイローン様は机を指で叩き、少し考えに沈む。私とケイローン様の前にはホットミルクの入ったマグがある。
「私のやっていることもまた、走破者の育成と言えるでしょう。それを踏まえて気になることがあります」
「気になること……」
「蛟たちはあまりにも強すぎる。オイディプスの開発したスーツを着ているとしても、本来なら野良の走破者に元オリンピアが後れを取るとは思えない」
私は蛟との戦闘を思い出す。確かに蛟はアポロンなども仕留めていた。だがプロメテウスとの一騎打ちでは後れを取る。無敵とは言えないが、一朝一夕でたどり着けるレベルの強さではない。オイディプスが睡眠学習でも施しているのか。それとも「天后」を使った選別のシステムがそれほど優秀だったのか。
私たちはいくつか推測するものの、これといった答えは浮かばなかった。やがてケイローン様は話を切り替える。
「私の話をしましょう」
ケイローン様の話?
走破者が身の上話をするのは珍しい。出自や家族のことなど弱点にしかならないからだ。
「私はこの田舎で牧場の息子として生まれました。父は観光用の馬を育てており、私も牧場を継ぐために北京大学の農学院に進みました。私はそこで学問に目覚め、馬の健康診断についての論文をいくつか書きました。賞をもらったこともあります。そこへ、あの方が訪ねてきました」
その姿を思い浮かべているのか、ケイローン様は遠くを見る眼差しになる。
「迷宮で見かけたこともあるでしょう。黒衣をまとった長身の女性。ノー・クラートです」
「……ええ、話をしたこともあります」
「あの方は社用で北京大学へ来ていたようでしたが、なぜか私に、自分の島に来て馬の面倒を見てくれと頼みました。報酬も格別だったので、数年だけという約束で島へ向かったのです。そこは本当に不思議な島でした。美しく整えられた庭園にさまざまな果物が実り、目もくらむような優れた人ばかりが集まっていた」
「それは、もしかしてオリンピアの生まれた地ですか」
そうです、とケイローン様は両手を組み合わせる。
「そこに天塩創一氏もいた。彼は我々に演算力のことを教え、迷宮を走破すればそれを手に入れられると説明した。ノー・クラート様は言いました。これは世界を変革せんとする魔法の杖であると。ふさわしき担い手となるため、迷宮で研鑽を積まねばならないと」
考えてみれば不思議な話だ。
演算力は天塩創一が世界中のマイニング・コンピューターに仕掛けたトロイの木馬であると分かっている。それを迷宮の報酬として競い合わせているわけだ。
「最初から……演算力を使わせろと主張する人はいなかったのですか?」
「勿論いました。ゼウスとポセイドンがそのように主張した。しかしダイダロスのシステムは、天塩氏ですら根本部分はいじれないように作ったそうです。オイディプスが部分的にしか干渉できないのもそのせいでしょう。それにゼウスとポセイドンでは意見の相違もあった。やがては皆が迷宮の走破に同意しました」
オリンピアの初期メンバー、それはやはり、どこか神話の話のように思えた。どのぐらいの人数が途中で脱落したのか知らないが、ゼウスもまた初期メンバーであったらしい。
「我々は迷宮に潜るようになり、演算力の使い方を覚えていった。やがて我々は一人を好むようになった。ノー・クラートの屋敷には誰も寄りつかなくなり、我々は迷宮でのみ会うようになった。走破者たちが現実で会うことはリスクでしかないのです」
そして、と、これからが話の核心であると、ケイローン様は私をまっすぐに見る。
「私は牧場に戻りました。しかし父は急逝しており、母もどこかへ消えていた。私は数年の間、家のことをまったく気にかけていなかったのです」
「……」
「そして私は、走破者になる前のことが思い出せないことに気づいた」
え、と声が漏れる。私は多少、動揺したように思う。
「正確に言えば、どのような人間だったかが思い出せない。走破者であればどんなものでも手に入る。だから何も欲しいものが無くなってしまう。いえ、より正確に言えば理想は持っている。演算力でなければ叶えられない傲慢な願いです。それは霊薬であるネクタルの開発。そして迷宮を走破するための手段として、馬の走破者の育成。では、その前の願いは何だったのでしょうか。それが思い出せない。私は牧場を建て直しましたが、こうして獣医の仕事をしていても思い出せないままです」
「それは……この牧場を立派に守っていく、というのでは駄目なのですか」
「駄目ではありません。きっと私はそれを望んでいたのでしょう。ですが、今となってはそれが信じられない」
ふいに、私は予感する。
ケイローン様が私をここに呼んだ理由を。
身の上話をした理由を。
この話がどこへ向かうのか。刀の切っ先が振り下ろされるのを見るかのように、私は切り出される一瞬前に、それを覚悟する。
「あなたも同じですよ、プルートゥ」
私は。目を伏せる。
「あなたには、最初に見たときほどの魅力はない」
ケイローン様は、なるべく冷たく言おうとしていることが分かった。私をそっと揺りかごから降ろそうとしている。怠惰で傲慢な走破者の世界から、降りるべきだと言っているのだ。
それが悲しくもあったが、ひどく腑に落ちるような気持ちもあった。
「最初に出会った時のあなたは抜き身の刀のようでした。ぎらついた目と指先にまでみなぎる感情の奔流。それを押さえつける鉄の意志。炎を封じた氷のようだった。私はあなたをスカウトするつもりなどなかった。ですが一目見て感じたのです。この人物こそ「七番目の息子の七番目の息子」。魔法使いとなれる人間であると」
思い出せない。
私はどんな人間だったろうか。そもそも人間だったのだろうか。
最後の思い出は兄を失った日のこと。私はその日、ある人物と人生を交換し、別人となった。
悲しくて寂しくて、心はずっと泣いていた。
別人になどなれなかった。なったつもりでいただけだ。
それまでの私を失い、別の誰かにもなれない。走破者としても二流にすぎない。では私はいったい何者なのか。何者になりたいのか。
「天后に取り組んでいることは知っています」
ケイローン様が言う。私を突き放すような言葉はあえてのことだ。その気遣いにひたすらに恥じ入る。
「できることなら、オイディプスの人形になってほしくはありませんが……あなたが望むことがあるなら止めはしません」
「申し訳ありません」
それしか言うべき言葉が見つからない。私はとっくの昔に、ケイローン様の信頼を失っていたのか。
「一つアドバイスをあげましょう。痛みです」
「痛み……ですか?」
「はい、あなたはネクタルによって痛みを取り除きましたが、かつて初めて迷宮に入ったときよりも、何というか切れ味が悪くなっています。病気が人に何かを与えるとは思いたくありませんが、強い痛みは交感神経を刺激し、一時的に集中力を増すことがあります。あなたは痛みを自分のものとしてコントロールできていた。それが走破者としての強みとなっていた可能性がある」
しかし、と、ケイローン様は冷めきってしまったミルクを飲む。
「私も医者の端くれです。治せる痛みを取り除かないでいることはできなかった」
それも、忘れていた。
私の一族には強い痛みを伴う病気が発現する。遺伝性のもので治療は困難だった。だがケイローン様がネクタルによる鎮痛を行い、また、いくつかのきわめて先進的な治療により今は完治している。
治療には数カ月かかったというのに、そんなことすら忘れていたのか。
「痛み……」
「覚えておきなさい、ーー」
ケイローン様は女性の名をつぶやく。
それはもはやケイローン様しか知らない、私の本当の名前。
走破者になる前の、少女だった頃の名前。私はプルートゥではなく、その名を持つ少女であると。
「喪失と獲得は等価であると言います。走破者は人を超えた力を手にしますが、同時に人間らしさを失っていく。迷宮とは本来は思索の場であり、獲得の場でも、喪失の場でもなく、ただ変容だけがあるのです。あなたが天后で何かを得るなら、やはり何かを失うでしょう。それは覚悟しておくのですよ」
「はい……」
そして私は。
また迷宮の中にいる。
目の前にはアーケード筐体。動いているソフトは天后。
迷宮は何でも出せる。刀でも戦闘機でも、設計図があるならブラウン管モニターも、半導体すらも。
ここは九龍城の下層。かなり奥まったエリアであり、他の走破者や蛟はいない。
だが大勢が入れ替わり立ち替わりで潜っている迷宮であり、水没というギミックもある。ここでのチャレンジはおそらく一回だけになるだろう。
それでいい。
私は刀を取り出し。その刃先を自らに向ける。
私の体に魔法を刻む。激甚なる痛みが脳をかき乱す。意識を失えばログアウトするだろうか。私は生死の狭間へと向かう。
獲得と喪失は常に等価。
私はゲームをプレイする。
敵の猛攻をさばき、同時にいくつものことを思考し、雷速の反射でカウンターを打つ。足元には血溜まりができていく。
最後のボスが登場する。私は目のかすむような痛みの中でそれと戦う。
今は気負いはない。
勝たねばならないという焦りも、敗北を重ねた悔しさもない。痛みと戦闘本能だけの純粋さがある。
研ぎ澄まされていく。
あるいは混濁していく。脳が痛みで燗えている。
そのすべてが、闘争という一点に。
そして。
最後の一撃が振り下ろされ。
ゲームクリアの文字がーー。
Tips 七番目の息子の七番目の息子
西洋において特別な存在とされる人間。宗教や魔術において7は特別な意味を持ち、完全さや知性、直感、孤立などを意味する。
七番目の息子の七番目の息子は予知の力を得る、吸血鬼になるなどさまざまな伝承がある。
伝承によっては間に女子を挟まない七男である場合もある。七番目の息子から七番目の息子がすべて男児で生まれる確率は16384分の1。




