外伝 第三章 1
過去が人を作るという。
過去から来て未来へと繋がる、その一幅の織物こそが人生の形、魂の道程。
どちらを欠いても完全ではなく、どちらかに偏重すれば幸福の器は満たされない。
では、どうしてもどちらかを捨てねばならないなら。
人は過去を捨てるのか。未来を諦めるのか。
そのような二律背反のジレンマすらも。
演算力の魔法は、突破するのだろうか。
※
ホテルの一室というのは記号だ。
外界と隔絶された、安息の場所という記号。
外の世界が目まぐるしく動いていても、世界が緩慢なる滅びへと進んでいても、家という記号の中ならそのような憂いを忘れられる。ホテルはそのような記号を提供してくれる。主に高価な家具などで。
私は部屋にいて、大型筐体と向き合っている。
運び込んだものはハイビジョンブラウン管筐体。操作パネルもチューンして応答速度を高め、ついでながら静音仕様にしてある。
まだプレイはしない。私は丸一日以上、筐体を見つめるのみだ。
ばん、と扉を開けて入ってくる二人。相変わらず対人用の防御など意味をなさない。
「プルートゥのお姉ちゃん、大変だよ」
「そうそう、赤文字が出てるんだけど誰もクリアできなくて」
「ちょっと入ってみたけどあれヤバいよ」
と、双子はそこで少し固まり、私の横顔と筐体を見比べる。
「え……お姉ちゃん、これって」
「迷宮の方はお任せします。私は他にやることがあるので」
双子は驚いた顔になり、私を揺すってくる。
「いやダメだよこれ「天后」じゃん!」
「何をお願いするんだよ! 病院のあれ見たでしょ!」
「お二人とも」
別に双子を煩わしいとは思わない。私は何かに悩まされたり、憤りを抱くという感情が遠ざかるのを感じる。心は凪のごとくだ。
「この事態はオイディプスと、それ以外のすべての走破者の戦いと見ることもできます」
「う、うん」
「私はオイディプスが勝つ公算も十分にあると考えてます。そして私が本当に望んでいることを叶えるには、オイディプスのシステムが必要なのです」
「それって……死んだ人に会いたいってこと? あのゲーマーのお姉ちゃんみたいに」
「で、でもあれ、夢に過ぎないって」
「夢と現実に何の差があるのでしょうか。全感覚投入とは人の脳の真理に肉薄するシステムです。水槽脳仮説ですよ。私はオイディプスのシステムを使って自分の願いを叶える。それは客観的に見れば夢かもしれない。しかしこの世界に真の意味での客観性などあるのでしょうか。私にとって死者との邂逅はきっと現実そのものです」
だが、もう少し時間がかかる。
私の中でゲームプレイのイメージが完成されていない。かつて最高難度と思われるステージをクリアした少女、その少女のプレイを数え切れないほど思い返し、そのすべての操作を我が物にするためには、もう少し時間が必要だった。
「よ、よくないよそんなの……現実と夢の区別、とか」
「そ、そうだよ、お姉ちゃんまだ若いのに、そんな妄想に逃げるみたいな」
あのゲーマーの少女は私よりも若かったが、まあそれはどうでもいい。
「お二人とも、我々は演算力で世界を変えようとする走破者です」
「う、うん」
「それは一般の方々にとっては余計なお世話、とんでもない傲慢な所業でしょう。我々はそんな業を背負っている。それならば、我々もいつか、新しい力に脅かされるかもしれない。オイディプスは走破者を一掃し、脳オルガノイドと演算力を組み合わせたシステムで、新しい世界が到来するかもしれないのです。私はそれでもいいと思っている。何が正しい世界かなど、私に決められるはずもない」
「う、うーん……」
「そりゃまあ、オリンピアの人たちがマトモかって話にはなるけど……」
「でも、オイディプスが負ける可能性だってあるよ。だってポセイドンとかゼウスの兄ちゃんも本気でやるだろうし……」
「大丈夫ですよ」
にこりと笑う。
「私は運が強いですからね。人生の絶望のどん底で、演算力に救われたのです。今度もまた、新しい力が私を導くでしょう」
自分では自然に笑ってみせたつもりだが、双子は顔を曇らせるのみだった。
と、その時コール音が鳴る。隣の部屋にあるダイダロスからだ。
「あ、誰か呼んでるよ」
「持ってくるね」
と、双子が頼みもしないのにダイダロスを引きずってくる。この二人とはそこまで親密になったつもりはないのだが、根が人懐っこいのだろうか。
コールはケイローン様からだ。最後に見てから一週間も経っていないが、ずいぶん久しぶりのような錯覚がある。
『プルートゥ、あなたの報告通り、赤文字の迷宮が出ました』
「はい」
『かなりの難物のようです。何人かの走破者が潜りましたが、全容をつかむ前にログアウトさせられました。なぜ死んだのかも理解できないほどの早業です』
「そうですか……」
『プルートゥ、あなたにも攻略を頼みます。迷宮についての情報は皆と共有してください』
通信は切れる。
私にはいくつかの懸念がある。一つはケイローン様のことだ。あの方には助けていただいた恩がある。裏切りたくはない。
もう一つは先ほど双子も言っていた通り、オイディプスが敗北すること、つまり赤文字の迷宮が解き明かされることだ。
オイディプスが相当の自信を持って作り上げた迷宮だが、オリンピアの人々もまた並大抵ではない。
私はどっちつかずのコウモリかも知れない。だがそれもまた、甘んじて受けるべき事態だろうか。どちらが勝利するかを、私が決めるわけでもないのだから。
「分かりました、では私も挑んでみましょう」
「ほんと? やった」
双子は素直に喜んでくれる。その様子には純粋さがあり、二人が年相応の幼さを見せた気がした。
ダイダロスを操作し、迷宮にアクセスする。
画面が暗転。ダイダロスとはホワイトボード型端末であり、通電していない時は全面が白だが、液晶に黒画面が投影されている。
映し出されるのは洞窟である。粗いドットで描画されたレトロゲーム風の洞窟。そこを主観視点で進む。
洞窟は奥へ奥へとスクロールしていく。時おり分かれ道を選び、水たまりや鍾乳石をよけながら進み、ゆるやかに加速。
洞窟の長さは尋常ではなく、速度の高まりも際限がない。ドラッグレースのような異様な加速。洞窟の風景が高速で流れていく。
そして音速近くまで高まったかと思った瞬間、光が満ちる。
宝物庫だ。海賊の残した宝だろうか。やはり粗いドット絵で描かれた金貨の山。宝石や宝剣、ネックレスに彫刻。無造作に転がる天秤や望遠鏡。
その中に宝箱がある。七つの宝箱が一列に並んでおり、それがいっせいに口を開け、画面が宝箱へとズームする。
中に入っていたのは赤い文字。人間など簡単に押しつぶせそうな大きさの、火星の岩から作られたような乾いた赤が並ぶ。それが示す言葉は。
―蛟界懸天の迷宮―
「これが……赤文字の迷宮ですか」
他の迷宮とは雰囲気が違う。クラシカルな描画でその名を知らせるのはいつもと同じだが、これにはどこか威圧感というのか、創造者のそこはかとない自信と攻撃性が垣間見える。
「蛟界懸天……蛟とはやがて龍に変わると言われる想像上の生き物ですが、懸天とは……?」
「入ってみようよ」
「お二人は別の部屋からですよ」
「ううん、別に何もしないってばあ」
そういう問題ではない。家族だろうと人前で着替えないのと同じことだ。
双子が去り、私は迷宮のタイトルを見つめる。
英雄の名を持つ男の渾身の迷宮。これは英雄が神々に挑むという構図になるのだろうか。果たしてどれほどのものか。
私は身支度を済ませてから大きめのクッションに体を預け、Tジャックをくわえる。
速やかなる眠り、一瞬の間に私の五感は肉体を離れ、ここではないどこかで覚醒する。
私は崖の上にいる。
重く垂れ込める曇天の空。遠景には山の稜線が見え、反対側には海も見える。大自然の中にある狼の頭のような断崖絶壁。
「あれは……」
眼下に何か見える。灰色の立方体。
それは極めて密集して存在しているビル群だ。広大な世界の中でそこだけ混沌の気配を放つ。
周囲は岩と草ばかりの荒野である。そうしてぽつんと存在している姿は百億ドルの札束が腐ったようにも見える。ビルとは価値の象徴であり、遠景において札束と通じるものがあるのか、そんなどうでもいいことを思う。
「あれは……見たことがあります。九龍城ですね」
「そうみたい」
双子がログインしてくる。銀のレオタードは曇天の下ではくすんだ色に見える。
「あれ香港にあったっていう九龍城だよ。大きさも構造もほとんどそのままらしいよ」
「他の走破者が飛行機で周りを探してみたけど、意味のある建物はあれしかなさそうだってさ」
つまり、あの九龍城の中にゴールがある。そう考えるのが妥当だろうか。
私はインカムを装備し、ケイローン様との回線を開く。
「ケイローン様、迷宮に入りました」
『分かりました。こちらでモニターします』
よく見るとこの断崖絶壁のエリアには三脚がいくつか立てられ、カメラが据え付けられている。上空では飛行型ドローンが浮遊していた。何人かの走破者が迷宮に入る者をモニターしているらしい。
「ケイローン様、九龍城について教えていただけますか」
『はい、かつて香港の九龍城地区に建てられていた城塞、その跡地に築かれたカオス的なスラムを指します』
断崖には岩肌を削った階段があり、私たちはそこを降りていく。時おり銃声が聞こえたり、九龍城の上空をドローンが飛んでいるのが見える。走破者が何人か入っているようだが、彼らは目的は同じでも仲間ではない。出会い頭に攻撃される可能性は考えておくべきか。
『当時の香港はイギリス領でしたが、九龍城地区は清国の飛び地であり、イギリス政府の実権が及ばない場所でした』
紆余曲折あって清国の役人が排除されたあとも、犯罪者などが住み着き、城塞跡の迷路のような構造のために取り締まりが難しく、事実上どこの国の権力も及ばない場所となっていた。
そののち、1940年代の中国国内の混乱によって難民が流入。無政府状態であった九龍城は一気にカオスの度を深める。そのような説明を階段を降りながら聞く。
「すごいよねえ、2.7ヘクタールしかないのに最大で5万人が住んでたらしいよ」
「一番高い建物で15階建てだって、でもエレベーターは二つしかないとか」
確かに凄まじい建築物だ。遠目では何かの巣のように見えたが、近づくほどに一つ一つのビルの細部が見え、ベランダや配管なども見えてくる。増築に増築を重ねた無秩序空間。あの中に五万人が住み、電気や水道を享受し、飲食と排泄を行っていた事が信じられない。人を群体生物と見なした場合の一種の頂点。生命力の極みとでも言うべきだろうか。
その一角が爆発する。
噴き上がる猛炎。もうもうと上がる黒煙。誰かが爆薬を使ったのか。
「広いと言っても2.7ヘクタールです。どんな兵器でも出せる走破者なら、すべてを解体するのも簡単かと思いますが」
「そうなんだけどね」
「まあ見てて、あの吹き飛んだところ」
私は手の中にオペラグラスを出す。あまり複雑なものは出せないので簡易的な作りだ。
覗き込む瞬間にそれは始まっていた。
吹き飛んだ外壁、その中に垣間見える居住空間。
爆薬で空いた穴が、有機物のように塞がっていく。
鉄筋が植物のように伸び、無からコンクリートが出現し、穴が塞がるまでは、およそ10秒。
Tips 水槽脳仮説
あなたが五感で感じている世界は、水槽に浮かぶ脳が見ている夢なのではないかという思考実験。哲学における懐疑主義で広く用いられ、同種のさまざまな仮説が現在まで次々と生み出されている。この世界は上位存在が生み出したVR世界ではないか、という考え方もあり、シミュレーション仮説と呼ばれる。
デカルトの実在論を始祖とするが、紀元前300年頃、荘子の胡蝶の夢なども同種の考え方と言える。




