第二章 4
足元に振動を感じる。
耳に届くカン高い音。コンピュータの放つ電子音。視界が動くものに反応する、それは窓の外を高速で流れる雲だ。
「……ここは」
その空間はさほど広くない、大柄な人間なら動き回るだけであちこちに体をぶつけそうな。周囲には時計のような計器類。何かの表示灯がずらりと並び、小さめの椅子が二つある。
「コックピットですわ」
そう、ここは飛行機のコックピットに見える。窓の外は左右ともに無限の雲海。かなりの速さで雲が流れるように思える。振動はずっと続いている。
亜里亜はというと黒のゴスロリ服になっており、やはり一気に10年ぶんほど成長している。今は胸も腰もせりだして、妖艶な色香すら漂っていた。
私はというと藍色のトレーニングパンツと白のランニングウェアという姿。足首から上を黒のスパッツで保護している。全感覚投入の前は膝丈のスパッツとセーラー服だったのでさすがに調整されたようだ。拡張世界でのコスチュームもそのうち考えたい。
「ボールディング社の737ですわ、グラスコックピット化された後の、やや新しい型ですわね」
それはモータースポーツに生きる亜里亜ならではか、差し迫った状況ではあるが、物珍しそうに計器類に手を伸ばす。液晶画面がいくつかあるが、そのような表示画面が装備されることをグラスコックピット化というらしい。
「分かるの?」
「ボールディング737は世界一のセールスを誇った名機でしょう、コックピットの風景も誰だって見たことあるはずですわ。映画とかで見たことあるでしょう? この白い山型カバーのついたエンジン給油スイッチとか、電卓みたいなFMC (フライト・マネジメント・コンピューター)とか」
それはそうかも知れないけど。
「でも飛行機のコックピット? どういうこと、これを操縦してどこかへ行けってこと?」
「今はオートパイロットのようですけど……調べてみますわ」
私は背後の扉を振り返る。扉には例によって鉄板のような素朴なプレートがあった。そこに刻まれた言葉が意識される。
迷宮を走破せよ
「なんで後ろに……コックピットに置いとけばいいのに」
「おかしいですわ」
亜里亜のつぶやき、彼女は壁に設置された計器を凝視していた。よくSFにあるような無数のメーター類だ。何を計測してるのかよく分からないが大量にある。
「どうしたの」
「このメーター……エンジンの出力計ですわ。ダミーかと思いましたけれど、本来のレイアウトを変えてそんなものをつける意味がない。しかもすべての表示が微妙に違う……。壁の余ったスペースにまで大量に、そんなこと、いえ、まさか、これがダミーではないなら」
「どういうこと?」
亜里亜はごくりと息を飲み、そして妖怪や幽霊について言及する人のように、何を言っているのか己でも分からないという様子で語る。
「この飛行機には、エンジンが78基ありますわ」
「……? 何を言ってるの? 大型のジャンボジェットでも、左右に3つずつの6つぐらいしか」
『ミズナさん、亜里亜さん、聞こえますか』
「ええ、聞こえてる」
私は天井方向からのイカロの声に生返事を返し、コックピットの側面の窓に顔を張り付ける。
『その迷宮……こちらではほとんどモニターできません、あまりにも、異様な……』
「何ですのこれ……こんな旅客機が、いえ、航空機が存在するはずが……」
窓からの風景と、断片的な言葉で、多少は理解できた。
そこに見えたのは、悪夢のような立体格子構造。
まずボールディング737を一機用意する。
そこに、真下から垂直方向にもう一機のボールディング737を衝突させ、どてっ腹に食い込ませる。
それを何度も何度も、横からあるいは上から、縦か横で垂直になる角度で組み合わせていく。双発機である737であるから、それを39機組み合わせれば、エンジンが78基ある怪物となる。
つまり、この迷宮を極めてシンプルに、戯画化された言葉で形容するなら。
「飛行機の……ジャングルジム」
まさにそう形容するしかない。
模式図を見るかぎり、エンジンも機体の向きに沿って上を向いたり横を向いたり、その中でまともに前を向いている十数発が動いている。
果たしてこのサイコロの怪物は飛んでいるのか。巨大なエンジンの生み出す推進力と、機能している翼の揚力で無理矢理に浮いているのか。ごう、と空を駆ける音がする。その継ぎ目に無茶苦茶な力を受けつつ、全身をきしませながら飛ぶ。哭きながら飛ぶ悪魔なのか。
天塩創一の異常性に飲み込まれそうになるのを踏みとどまり、私は現状に対して奥歯を噛んで身構える。
「……亜里亜、その赤い輝点はゴールじゃないの」
液晶画面には、何かの分子標本のように立方体が組まれた模式図。その中で最後尾付近の一点に赤い丸が表示されている。
「こ、こんな位置、行けるわけありませんわ! 高低差でマイナス120メートル以上ありますのよ! ほぼ垂直な空間を下っていくしか……」
亜里亜はまだ動揺している。私はイカロの方に水を向けた。
「イカロ、そちらではこの迷宮はどう見えてるの」
『コックピットの一部が見えているだけです。それとステータスが表示されています。その場所は太平洋上、高度35000フィート、外気温マイナス40度、気圧は地上の4分の1ですが、機内は0.8気圧に与圧されています」
35000フィートということは1万メートル弱、高度、気圧とも一般的な旅客機と同じか。おそらくイカロに見えている数値はコックピット内の計器でも知ることができるのだろう。
「イカロ、こっちは私と亜里亜でやるわ。声の中継はできるわよね、それだけお願い。あとは外の状況を見てて。万一セーフルームが破られそうになったら、私のTジャックを引き抜いて、一か八か戦うから」
『わ、分かりました……』
「む、無理ですわ。こんな迷宮、縦の部分を登ったり降りたりしてたらかるく数時間は」
フォンフォン、とホーンのような警告音が鳴る。コックピット中央にて赤い警告灯があかあかと点灯した。
「……? 主警報? 何ですの」
私は足首を回す。
うすうす分かっていた、これは構造だけなら単なるアスレチック。縦長とはいえ客席シートも窓も、エアコンの送風口も手荷物のキャビンもある。取っ掛かりが山ほどあっていくらでも登り降りできる。
これが迷宮として成立するなら、もうひとつの要素が必要だ。
「Out of fuel……! 燃料減少!?」
「亜里亜、操縦席に座って、可能な限りこの機の操縦を掴んで」
ご苦労なお膳立てだ。現実世界でもっと逼迫した制限時間を抱えていなければ、それなりに焦ってあげられたのだが。
それ以上話をしている暇はなかった。私はコックピット後方のドアを押し開け、厨房とトイレを左右に見て踏み込む。やがて左右に三脚ずつのシートが並ぶ空間を体を横にして進み、意識を前に向けながら機体後部へ。
そこで床に大穴が空いている。覗きこめば横倒しになった旅客機の内部、整然と並ぶシートを真上から見るという感覚が重力の混乱を引き起こす。
私は間髪入れず穴に飛び込んで、壁から生えたシートに着地、16Gにも耐えるというシートはびくともしない。私はそのままするするとシートを下っていく。そして末端のシートから厨房の壁部分に、取っ掛かりでブレーキをかけつつ、体を下に投げ飛ばすような意識を持って動き、下方の旅客機に着地。
走ってしまえば造作もないこと。多少面倒なアスレチックだ。私は検討をつけた赤い起点の方角に走る。空間全体に旅客機の振動を感じながら、前へ前へと。
「たっ……大変ですわ」
亜里亜の声が響く。亜里亜から現実世界へ声を飛ばし、ダイダロスで中継しているために少し遠く聞こえる。
「どうしたの?」
「輝点が移動していますわ!」
我知らず舌打ちを漏らす。
「どっちへ行ったの」
「そ、その前に……ミズナさん、あなた18番のスペースにいますの?」
私は周囲を見回す。
そして発見した。シートの座席番号、本来は8-Aとでもなっているシートが18-8-Aとなっている。
「そうみたいね」
「コックピットの画面でモニターできますわ。輝点はそこから直上方向……7番にいますわ」
そして別のことにも気づく、壁にプラ板の模式図が貼られている。果たしてそれはこの飛行機の地図だ。私のいる機体が黄色く塗られているようだ。
立方体をいくつか組み合わせたような形状、まさにジャングルジムか。それらを構成するのは39機のジェット旅客機。都心の地下鉄ほど複雑ではない、私は走りながらその構造を頭に刻みつける。
私は天井に穴の空いている位置まで走り、飛び上がって適当な手がかりを把持する。
そしてシートと手荷物デッキに手をかけつつぐいぐい登る。小型機の737の中だ、クライミングなら狭い割れ目を進むようなものだろう。膝から腿、背筋までも動員して登る。
「早い……で、でも輝点も移動してますわ、5番から11番、そして6番に」
私から点対称の位置へ移動している。亜里亜の方で私をモニターできるなら、ゴールである赤い輝点にも筒抜けだろう。こちらの動きを感知して逃げているのか。
ならばもっと速度を上げるまで。
「……亜里亜、機体をなるべく深く傾けることってできる?」
「こ、この機体がどんなバランスで飛んでるか分かりませんわ。もし失速でもしたら、いえ、それ以前に機体にどんな負荷がかかってるかも分からない。下手をすれば空中分解を」
「やるしかないの、お願い、可能なら10秒後に」
「……!」
おそらくゴール地点はロボットか何かに接着されている。あるいは人間の姿をしたNPCだろうか。それはいま、最上段に上がった私から見て対角線上、最下段にいる。
そして傾きが起こる。私は靴底のグリップを意識して走る。空間の傾きに体幹を順応させる。
シートの上に躍り上がって、左右のシートのヘッドレストを飛び石のように渡る。床の穴に飛び込んで厨房の壁に着地、20度ほど右に傾いた機内でその壁はすなわち仰角70度の坂道、私ならギリギリでグリップを効かせられる角度。坂に体の側面を擦り付けて態勢を整えつつ斜面を蹴る。シートの背中部分に降り、勢いを殺さぬままに体を丸め、壁と全身とでブレーキを効かせながら猫のように降りる。
だん、と最下層に降り立った勢いのままに疾走。
そして最下段の端に至る。
「亜里亜、目標は」
「水平方向ならかなり追い付きましたが……すでに上に逃げましたわ、あと三秒早ければ」
三秒か。
私が最上段からここまで駆けるのに17秒ほど、ここから三秒縮めるのはもはや人間業ではない。事実上、ゴール地点は人間を越える性能で動くということだ。
ふと、天井からがりがりと音が聞こえる。ダイダロス越しの通信音声のようだ。
「……イカロ、そっちは大丈夫? 妙な音がするけど」
『何らかの電動工具でセーフルームの破壊を試みているようです。鋼鉄製の壁ですから簡単ではないと思いますが……』
さすがのイカロの声にもこわばった緊張が見える。当然のことだろう。
「イカロ、音には近づいちゃだめよ。まさかとは思うけど青酸ガスでも流し込まれたらイチコロだから」
『はい……しかし長くはもたないかも知れません。バーナーで溶断でもされたら……』
「ミズナさん! 燃料の残量が計算できましたわ! 現状維持でおよそ七分、この機体は大食らいすぎますわ!」
亜里亜が叫ぶ。だが制限時間よりも深刻な問題がある。あのゴール地点は、私一人では捕まえられないということだ。
そもそもこの迷路は明らかに単独向けではない。Tジャックで全感覚投入したのが二人だったからこんな迷宮が出現したのか、ともかく本来は立体格子構造を二人以上で走る迷宮なのだろう。ナビゲーション役が必要なら三人以上か。
しかし亜里亜にこの迷宮を走れるとは思えない。もっと時間があれば通路を塞いでいく手段もあるだろうが……。
「……イカロ、この迷宮は、いわば追いかけっこの迷宮よ。ダイダロスの演算力で何か連想できない? 逃げる相手を捕まえる方法について」
『やってみます……通常の予測検索のようなことしかできませんが……』
イカロがダイダロスを操作する気配があり、そして、言葉が降り注ぐ。
『ヒントになるか分かりませんが、こういうお話があります。コンピューターゲームにおける世界初の敵AI、それは世界一有名なゲームの一つ』
「……」
『ドットイートゲーム、というものです』
Tips 航空における単位
航空機の世界においてはメートル法を採用している国は少数派であり、多くの国でヤード・ポンド法が用いられる。
距離は海里、ノーティカルマイルを使用し、一海里は1852メートル。高度はフィートを用い、1フィートは0.3048メートル。
燃料はガロン、機体重量などはポンドが用いられる。




