外伝 第一章 5
※
カニの匂いというものを意識したことが無かった。そういえば生まれてから今まで食べたことがない。父も兄も肉と野菜ばかり食べていたし、修道女だった頃は言わずもがなだ。
殻がゴツくて食べるのが面倒だし、ただ茹でてあるだけで調理にも幅がないし、なぜこんなものを好む人がいるのか理解しがたい。私は足元に散乱している殻を見てそう思う。
双子の食欲はとても子供とは思えない。テーブルに山積みになっていたカニがみるみるうちに解体され、殻が放り投げられる。それ以外にも八宝飯や葱油拌麺なども平らげていく。
「まあまあだねえ」
「そうだねえ、ホテルだから味付けがおとなしいかなあ」
「あなた方、もう少し綺麗に食べなさい」
私は何かの罪のように赤い麻婆豆腐を食べつつ言う。
「いいじゃない個室なんだから」
「そういう問題ではありません。個室を頼んだのはあまり目立ちたくないからですよ。ホテルの従業員を通して噂になるおそれもあります」
「大丈夫だよお、チップ弾めば」
「だいたいなぜ上海ガニなんですか」
迷宮を出たあと、双子が私のダイダロスに呼びかけてきた。どこかで食事しながら話したいと言うので、滞在してるホテルでレストランの個室を取ったわけだ。
だが、さっきから食べてばかりでなかなか話に入らない。
「重慶なら四川料理を食べなさい。この麻婆豆腐はなかなかのものですよ」
「やだなあプルートゥお姉ちゃん、旅の初心者みたい。日本に行ったらスシとかテンプラばっか食べてそう」
「そうそう、重慶は一千万都市だよ。世界中の料理が食べられるんだよ、カレーでもピザでも」
「上海ガニは話が違うでしょう。鮮度の問題というものがあります」
別の注文が届いた。真っ赤な油を使った豚肉の炒めものと、半分に切られて皿に並べられたハラペーニョである。私は豚肉にタレを絡め、ハラペーニョでサンドして食べる。
「……お姉さんのそれは四川料理なの?」
「そうですよ。辛さを追求するのが四川料理ですから」
と、そろそろ食事のことは脇において、二人に問いかける。
「あらためて……オイディプスのゴールを阻止していただいたことは感謝します。あなた方は走破者なのですね?」
「そーです。カストルです。男の子です」
「ポルックスです。女の子です」
私はその二人を観察しているが、若いというより完全に子供である。確かに身体能力は大変なものだったが、この二人は何者で、どこで迷宮を知ったのだろう。
「私に接触してきたということは、オリンピアなのですか?」
「そーだよー、もう違うけどね」
「今はフリーなの、ここに来たのはアルテミスのおばさんに頼まれたんだよー」
アルテミス。彼女もどこかで活動しているのか。
アルテミスは他者に化けることを得意とする走破者だという。対人戦に特化したタイプだが、オイディプスのような個人を追いかける作戦には向いていない。そこでこの双子に協力を求めたわけか。
……おばさん?
「まあそれは了解しました。先ほどの戦闘ではオイディプスの演算力を奪えたことですし、彼はまた近いうちに迷宮に潜る必要がある。作戦はかなりスムーズに進むでしょう」
「うーん、それなんだけどねえ」
と、カストルの方が首をかしげる。
「演算力が移動してないんだよねえ」
「あ、やっぱり? 変だよねえ」
カニの爪を噛み砕きながらポルックスが言う。双子の歯はまだ乳歯なのだろうか。そんなどうでもいいことが気になった。
「どういうことです?」
「うーん。僕たちもあんまり対人戦やったことないからなあ。オイディプスとは対戦が成立してたと思うんだけどなあ」
迷宮は、2人以上の走破者が対等に競ったと認められる場合に演算力が移動する。その量は所持している半分か、迷宮で使用した分、その二つの多いほうが適用される。
オイディプスは歴戦の走破者だ。所持している演算力もたいへんな量になるはずだが。
「オイディプスがどこかの段階でギブアップを宣言したのでしょうか」
「ううん。それは関係ないはず。さっきの勝負ならギブアップの宣言に関係なく演算力は移動して当然」
ギブアップを宣言して観戦モードになった場合でも、ゴールを目指して競っているなら勝負が成立する。迷宮に意思があるならそう判定されるだろう。
では、なぜ?
「……オイディプスが、ごく少量の演算力しか持っていなかった」
「えー、でもそれなら居場所ぐらいすぐ分かると思うんだよねえ」
おおよそだが、サーバーマシン1万台に相当する演算力を持たないものは自分の身を守れないと言われる。オイディプスも最低限そのぐらいは持っているはずだ。
「……あの人物が、オイディプスではない」
「うん、それだね」
双子はカニの脚を噛み砕いている。つるりとした顎なのに、削岩機みたいな歯をしている。
「あれ影武者だよ。車椅子だけ誰かに与えてオイディプスになりすましたんだ」
「……なぜそんなことをしたのでしょう」
「釣りのエサみたいなもんじゃない? 自分を探しに来る人と会いたかったとかかな」
「探しに来る人物を……なるほど」
「出待ちのファンを探してるタレントみたいな」
「サインペンを持ってうろうろしてるプロレスラーみたいな」
「そのたとえ全然わかりません」
私はオイディプスに刀を突きつけて質問した。そのような行動に出る人物がいないか待っていたわけだ。
オイディプスは追跡者の存在を知った。では彼はさらに深く身を隠すだろうか。それとも攻勢に出るのか……。
そのとき、私のスマホに着信が入る。連絡先を交換していた人物からだ。もちろん通話はダイダロスを経由して暗号化しているが。
「アルテミスですか」
『もしもし、双子もそこにいる?』
「いま音声をグループ会話にします」
「お姉さん、なんで着信音が結婚行進曲なの?」
「目立たないものを選びました」
「……そ、そう」
私はスマホを場の中央に置く。回転テーブルの中央で、スマホがゆっくりと回転しながら声を放つ。
『私は独自のルートでオイディプスの居場所を見つけた。重慶郊外の古い屋敷よ。大昔にイギリス貴族か何かが建てた別荘らしいわ』
「よく走破者を見つけましたね」
『あいつの好みは知ってたからね。住んでるとすれば西洋建築の屋敷だと思った。合致する邸宅を一つ一つ調べたのよ。もっともオイディプスは隠れてたようには見えなかった』
「あ、もしもし、白玉団子とツバメの巣をココナッツミルクで煮たやつ。急いでね」
個室にある電話でスイーツを注文するカストル。ポルックスはカストルの座っていた席にカニの背甲を置く。
「隠れていなかった?」
『プルートゥ、覚えておきなさい。ダイダロスの演算力で人間を追跡できないケースが二つある。一つは十分な演算力で守られていること。もう一つは、その人物が何の痕跡も生み出していないこと。ダイダロスに限らず、追跡というのはアクティブな痕跡を追いかけるものだからね。きわめて静かな人間というのは追いにくいの』
「静かな……」
その言葉の、意味することとは。
『オイディプスは死んでいた』
冷徹に言う。
『古びた洋館の奥で、ひからびて死んでいた。顔面のデータから完全な同定ができたわ。間違いなく死んでいるのよ』
オイディプスが、すでにこの世にいない。
では、迷宮で出会った、あの老人は……。
※
私たちはまた迷宮にいる。
オイディプスの死を知ってから48時間、交代で迷宮に潜っているが、オイディプスが再度現れることはなかった。
ここは真夜中の水族館。
中央に鎮座するのは縦横400メートル、高さ100メートルという超特大の水槽。中を悠然と泳ぐのは雌雄一対のシロナガスクジラである。軍艦のような巨体が水槽の底まで潜り、のたりと浮上してきて盛大に潮を吹く。
この水族館には壁というものがなく、大小の水槽が積み上がって通路を形成している。どのような意図の迷宮なのか、今はそれには興味がない。ここはただのチャットロビーだ。
この時はケイローン様もいた。双子を含めて私たち四人は、世界のどこにも存在しないほどの規模の水族館で言葉を交わす。
「おおよその分析はできました」
ケイローン様がマンボウの水槽を見上げて言う。
「オイディプスは重慶全域にアプリをばら撒いています。全感覚投入ではなく、ブラウザ上で動作するアクションゲームです。それをクリアすると、「願いの手紙」というものが手に入ります」
「願いの手紙、ですか」
双子は追いかけっこをして遊んでいる。あまり人のことは言えないが、あの二人の幼さと手足の細さを見ていると、迷宮に立ち向かえるのか不安になる。
「それに文章を記して送ると、願いをかなえるための指南書や不正ツールのようなものが送られて来ます。確認されているだけで数千人がこのゲームに参加しています」
数千人……あまりに多すぎる。そんな数を解き放っては演算力が世に知られるのは時間の問題……。
と、そこであのメッセージが思い出される。都市一つを使った壮大なサイン。
「オイディプスは、この事象は私のコントロール下にある、と言いたいのですね」
「そうです。オイディプスは犯罪の発生地点を操っている。願いの手紙というシステムより一段上に演算力の階層があり、オイディプスがすべてをコントロールしています」
この事象はあくまでオイディプスの手のひらの上にある。
なぜそんなことをアピールしている?
「……ゼウスですか」
「そうでしょうね」
ケイローン様はあまりゼウスの事について話さない。オリンピアとして活動していた頃のこともだ、あまり良い思い出はないらしい。
「もしダイダロスシステムの破壊が目的だと断定されれば、ゼウスは重慶に核を撃ち込んででも阻止するでしょう。そのようなゼウスの暴走を抑制したいのかも知れない」
そして、我々とアルテミスが調査のために乗り込んだ。この一件が片付くまでは、ゼウスは手を出さないと言質を取った上でだ。
なるほど、アルテミスがゼウスを牽制していたのは、全面核攻撃を防ぐためだったのか。
「走破者は法や倫理に縛られません。彼らを縛れるのは同じ走破者だけです。特にゼウスはその傾向が強い、アルテミスと交わした約束であれば守るでしょう」
「オイディプスがそこまで読んでいたのでしょうか」
「読むかも知れません。彼であれば」
そして、オイディプスの計画はまだ止まっていない。
目的はダイダロスシステムの破壊ではない。
何か別の目的があるのか……だが、いったい何だ。演算力をばら撒いて、一般人を巻き込んで。
奇妙な感覚だ。オイディプスは死んだと聞かされたのに、私はオイディプスの気配を感じている。彼が死んだという言葉を疑う気はないのに、彼の持続性もまた認識している。
「天塩創一になりたい」
ケイローン様が言う。だがそれは推測でもなければ断定でもない、感情のない言葉だった。無意識に口からこぼれたような簡素な響きだ。
「走破者はどんな財宝でも手に入ります。人材でも土地でも、時には人の心ですらも」
「はい」
「しかし、走破者以上のものにはなれない。すなわちゲームマスター、クリエイター、迷宮の世界を生み出した創造者にはなれないのです」
「……」
「オイディプスが、もし、創造者の地位を目指しているとすれば」
それは、走破者たちの噂にあるような演算力の総取り、いつか誰かが到達する頂点。唯一無二の演算力の行使者になるという意味か。
それとも……?
「プルートゥ、あなたは引き続き調査を。私はなるぺく常に迷宮を見張っています。本当のオイディプスがどこかに生きているのか、それともまったくの別人が黒幕なのか、その真相を掴むことが急務です」
「分かりました」
不安は多いが、やるしかない。
あの双子とも協力関係を築ければいいのだが。
その双子は水槽からカニを持ち出していたので、とりあえず頭をはたいた。
Tips 中華料理の分類
中華料理はその成り立ちや地域などにより様々に分類される。有名なものとしては北京料理、上海料理、広東料理、四川料理の四大料理。他にも六大料理、八大菜系などさまざまな分類がある。中華圏の影響を受けつつ独自に発展した料理として台湾料理などもある。
さらに近年では「食堂の料理」が加わって九大料理とも呼ばれている。重慶の食文化は四川料理に分類される。




