外伝 第一章 3
幼いころ、流星雨を見た。
父と兄に手を引かれ、車で二時間かけて人けのない雪原まで行ったのだ。
それは荘厳なものだった。無数の星が天から堕ちてきた。
「一瞬の命だな」
兄が言う。流星の輝きは一瞬、それを生命にたとえたのか。
流星雨とは砕けた彗星のかけら。巨大な彗星軌道を描いて太陽を周回する星の群れだと知っていた。だからあれは何千何万年と旅をしてきた星の、その最後の一瞬の輝きであるのだと兄に言おうとした。
「命ってのはな、生まれてすぐに燃え尽きるんだ、何ごともそうなのさ」
兄は私にそう言った。生命のはかなさを、死のいさぎよさを私に伝えようとしたのか。
「そうだな、すぐに消えちまうから美しい」
父がそれに応える。
「海のあぶくも、吹き抜ける風も一瞬の命だ、目的はなく、意味もない、だから美しい」
父は銃を取り出し、遠くにあった石ころに向かって撃った。があん、と耳をつんざく音が響く。
兄も銃を抜いた。腰だめに構えて何発も撃つ。はるか遠くで鳥の飛び立つ音がする。
流星を見に来たのではないらしい。私はがっかりした。父と兄は思うさま銃を撃ちたかっただけなのだ。
銃声が、薄暮の空に吸い込まれていく。天からは光の矢が降り注ぐ。
貴重なことだ。私は息をのむような美しさの中でそう思う。
父と兄が、本物のアウトローに生まれついた男たちが、何かについて美しいと語ることは滅多にないのだ。
私は確かに、父と兄の本当の哲学に触れたのだ。
命は一瞬、一瞬の中にこの世のすべてがある。
幼い日の思い出。
命の出発点。
※
『演算力を分け与えている?』
「はい」
目の前には極彩色の世界。
私がいるのはバスの上だ。ごくありふれた黄色の巡航バス。そして視界を振り仰げば、はるか上空まで続くネオンサインの洪水。看板を飾る蛍光色の文字、看板もまたネオンで四角く縁取りされている。
左右のビルは途轍もなく高い。天は左右から削り取られて糸のように細くなり、今が昼か夜かも分からない。
左右から突き出すのはスチールのパイプに固定された看板の群れ。暖かい橙色、赤に紫、茶のウイスキーグラスには青色ネオンの氷、車や本を模したもの。片足だけを動かすネオンのバニーガール。
私のパンツスーツがまだらに染まる。速度はおおよそ60キロ前後。目視できる範囲でのネオンサインは数千。
まだ何も始まらない。どこからかラジオの音が聞こえる気もする。バスの車内だろうか。私はケイローン様との会話を続ける。
「オイディプスは一般人のスマホを経由して演算力を行使させています。ポルノを生成したり証券会社の取引を盗み見たり、おそらくは犯罪のやり方を指南したり、誰かの弱みを握って脅迫させてる可能性もあります」
『なるほど……その大規模な動きを隠蔽するためにSNSを掌握していたわけですか』
目的はまだ分からない。拉致した2人を締め上げるなり、身辺を調査すれば分かるだろうか。いま思いつくこととしては、ダイダロスのシステムそのものの破壊ぐらいか。
それがつまりは最悪の事態。今はそれを念頭に置けばいいだろう。
私は迷宮を観察する。高速で流れていく七色のネオン看板。網膜に残る光の残像、反対車線を行き過ぎるスポーツカー。私がもっと歳を重ねていたなら、何かしらノスタルジックな感情も生まれるだろうか。
『プルートゥ。もしオイディプスが現れたら即座にギブアップを宣言してください』
「ギブアップを、ですか」
『どんな小さな声でも、発声すればギブアップが成立します。その後は迷宮に留まることはできますが、演算力を入手できません。いわば観戦モードになります』
「……演算力とはゴールプレートに書かれているパスワードでしょう? 観戦モードのままそれを入手したらどうなるのです?」
『何の意味もありません。迷宮はそのような行動を容認しません。パスワードは無効となり、演算力は手に入らない、それは一種の必然です』
ダイダロスの生み出す世界は人間の知の地平を超える。小ずるい企みなど確実に拒絶するのだろう。そこは議論する気はない。
「オイディプスという方はどんな外見なのですか」
『老人です。車椅子に乗っています』
「車椅子?」
『そして盲目でした。ご存じですか、オイディプスとは悲劇の英雄。父を殺し、母を妻とするという予言を受けたために赤子の頃に追放されたものの、紆余曲折の果てに生まれた土地に戻ってきた。そして知らぬながらに父親を殺し、母親を妻として娶ったのです。その事を知ったオイディプスは、何も見えなくなれと願って己の目玉をえぐったと言われています』
「はい、ある程度の情報は入れています」
『走破者のオイディプスもまた盲目でした。われわれはギリシャ神話の神の名を名乗っていましたが、オイディプスは自分には神の名などふさわしくないと言い、呪われた英雄であるオイディプスを選んだそうです』
言及しておくならケイローンという名も神ではないが、ケイローンという存在は神話の中でゼウス、アルテミス、アポロン、プロメテウス、そしてアスクレピオスなどと関連する。ケイローン様の出自は馬の獣医であるし、これ以上ないほど合致した名前には違いない。
まだ迷宮が動く気配がない。何かを探す迷宮にしては目標が見えないから、イベントが起きると思うのだが。私はバスの横から上半身を下ろして窓を覗く。
運転席にロボットがいる。バス会社のものらしい制帽をかぶり、ジャケットを羽織っているが、それ以外の部分は機械がむき出しである。ハンドルとシフトレバーを操作している。このバスは公道ではめったに見かけないMT車らしい。
それ以外に乗客は見えない。そしてラジオの音。どうやら複数の言語が混ざっており、翻訳を通さなくても意味が分かる。
少女を誘拐したテロリストが逃げている。追跡しているのは一人。バス運転手が犯人の車を追っている。テロリストが乗っているのはーー。
「耳を傾けるのは危険だな」
はっと、弾かれるように体を起こす。
車椅子。だがかなり大きい。座面の下にバッテリーとモーターを備えた電動のもの。タイヤはオフロード車のように太く大きい。足置き部分の小径タイヤは金属のホイールで補強されている。
それに座るのは老人。色の濃いサングラスをかけ、肩に届くような長い白髪。頬杖をつく手は枯れ枝のように乾ききっている。
だが、空気が。
その男の周囲で大気が歪むような、強烈な気配がある。私は一瞬たりとも目を逸らせない。
「迷宮は我々の挙動を感得しておる。時には物事を理解することがギミックのスイッチとなることもあろうな」
「オイディプスですね」
私は刀を出現させる。
「美しいお嬢さんだ。若く才気にあふれ、傷一つない。もしやケイローンが見出したという走破者、プルートゥかね」
確かに私の体には傷一つない。私は幼いころから怪我というものに縁がなかった。転んで足を擦りむいたことも、何かの競技に打ち込んで血豆ができたこともない。刀の訓練では外傷もできるが、それは拡張世界でのみ行っている。
だがそれが何だと言うのか。私はオイディプスに切っ先を向ける。
「オイディプス、あなたは何をしようとしている。ダイダロスのシステムを破壊する気ですか」
「そんなことより、間もなく迷宮が始まる」
オイディプスが耳をとんとんと叩く。インカムが埋まっている。
「周辺の音声を収集し、全周囲をスキャンして概要は理解した。これは生存の迷宮、あるいは追跡の迷宮だ」
「追跡……?」
「銀行を襲ったテロリストは、偶然居合わせた客の一人、若い娘を拉致したまま逃走した。それを追跡するのは人質の父親。彼はバス運転手であり、すべての乗客を下ろしてテロリストの車を追いかけている。このバスを運転しているのはその人物だろうな」
テロリストにさらわれた娘を追いかけている……。
では、これから起こることとは。
「テロリストの車両はメディアによって報道されている。運転手はラジオを聞くことで追跡できているようだ。このネオンサインの街で追跡劇が始まろうとしているのだ」
「運転席にいるのはロボットでした」
「別におかしなことではない。ラジオでもそう言っている。ロボットのテロリストがロボットの娘を人質に取り、それをロボットのバス運転手が追跡していると」
……。
ロボットにも意思があり、家族を助けようとする衝動がある。迷宮の創造主はそう言いたいのか。老人は枯れ木のような指をぱきぱきと鳴らす。
「間もなく始まるようだな」
『プルートゥ、ギブアップの宣言を』
……。
光が流れる。
文字と図形と色彩が、私たちを通り過ぎていく。
ネオンの洪水、情報の濁流、そこをひた走る機械の運転手。
……なかなかに美しい。
「スタートだ」
それはすぐに来た。バスの天井をかすめる高さで看板が迫る。
「ふっ!」
一瞬の判断。看板に手をかけて一気に乗り越える。看板に置いた手が後方に引っ張られる感覚。着地からバランスを整える瞬間に頭の高さの看板。身を沈めてかわす。
鉄板をゴムタイヤが擦る音がする。オイディプスの車椅子がすばやく旋回して看板をかわしている。
がちん、と音がする、上空の気配。前に転がると同時に私のいた場所に看板が降ってくる。持ち上げられてたものが水平に降ろされたのだ。それは巨大なライフルの看板。
連続して光が迫る。私はハードルを飛び越え、あるいは身をかがめてかわす。肩をスチールパイプがかすめて鋭い痛みが走る。
「くっ……」
人並みに鍛えていたつもりだが、やはり本職のアスリートではない私には敷居の高い迷宮だ。
バスの横幅いっぱい。迫るのはバイクの看板。高さは2メートル以上。
だん、と巨大な音。私はその音を背後に聞きつつ手に演算力を集中、バスの側面に降りて窓枠に張り付く。
そして見た。はるか上空4メートルあまりの高さに車椅子がある。重力の手に引かれて落下。だあんとバス全体に振動が走る。
前方。
私はそれが何なのか確認する前に飛び上がる。車体の上に出た瞬間。5センチの距離ですれ違うもう1台のバス。ケイローン様の声が届く。
『プルートゥ、やるのですね。対人戦の概要は把握していますか』
「ええ、以前に教わりましたから」
ようするにアスレチック。オイディプスが高位の走破者だとしても、車椅子の老人にアスレチック勝負を挑まれて逃げるわけにいかない。
しかし、あの重そうな車椅子で4メートルも飛ぶとは、やはり演算力で特別に造られたものか。
足場を確認。バスの天井面は平面に近いが、いくつか溝や突起もある。エアコンの吸入口らしき穴もある。足を引っ掛けないように気をつけなければ。
「お嬢さん、気をつけるがよかろう」
「気遣いは無用ですよ」
オイディプス自身はただの老人に見える。運動能力はさほどでもないだろう。勝敗も重要だが、この車椅子の性能を見極めておかねば。
「気付いておるかな。このバスのエンジンはかなりの出力が出ている。音から察するにおよそ1200PS前後、一般的なバスの3倍だ」
「……そんな高出力を?」
「車体重量も一般的なバスより200キロほど重いようだ。その出力と重量が何を意味するのか。おそらく電磁石だな」
電磁石。
私は迫りくる看板を回避しながら、その言葉の持つ不吉さを意識する。
「アナログのレーシングゲームをやったことは?」
「……永久磁石で車をコースに張り付け、コントローラーでモーターの出力を調整するレースゲームでしょう。兄が持っていました」
「そうだ、そしてビル群からの反響音が少し硬い。おそらく建物の壁面にスチールの板が取り付けられている。レールのようにな」
「まさか……」
次の瞬間。バスが速度を上げる。
私は手をついて耐える。その向こうに、巨大な異様が。
あれは、戦車。
分厚い装甲板で全体を覆った鋼の甲虫。カーブを曲がるときに見えた側面は限りなく箱型に近い。箱の上にドーム型の砲座がついており、箱の下面には車輪がわずかに見えている。
砲座が回転。砲身は短いが口径は大きい。砲身の先端、暗闇が見えて、背中に鳥肌が立ち、次の瞬間、砲火の光が――。
Tips ネオンサイン
ガラス管の中にネオン、アルゴン、キセノンなどの希ガスを封入し、電流を流すことで発光する。20世紀初頭にフランスで生まれ、アメリカを経由して全世界に広まった。
高寿命で耐久性があり、全体が故障することが少ないためメンテナンスが容易という利点がある。内部を流れる電圧は6000から15000Vと高電圧なため、火災などに注意が必要。




