外伝 第一章 2
「こ……こんなこと!」
血相を変えるのはアルテミスだ。
「こんなことをされたら! 演算力の存在が露呈しかねない!」
「もちろん手は打ったよ」
ゼウスの声は常に落ち着いて見える。そもそも感情の起伏が少ない、あるいは感情を理性で抑え込める人間に見えた。私たち全員の顔を見てから言う。
「いくつかの警察機構や報道関係に手を回して、犯罪記録を物理的に消したり、架空のものをでっち上げてこの図形を判別できないようにした」
ゼウスは重慶周辺の地図を見て、ため息をつく。
「これを仕掛けたのがオイディプスなのかは分からない。だけど挑戦的であり脅迫的だ。僕たち走破者に呼びかけてる気配がある」
「どうするのゼウス、重慶に行ってオイディプスを探すの」
「すでに10人ほどエージェントを送り込んだ、だが失敗した」
アルテミスはぽかんとした顔になる。ゼウスは私たち走破者を集める前にすでにあれやこれやと手を打っていたわけだ。そしてどうにもならなくなって走破者に呼びかけたわけか。
随分と……独走しているというか、勝手というか、あまり誠実なことと思えない。ゼウスにそんな自覚は毛ほどもないようだが。
ケイローン様が口を開く。
「殺されたのですか?」
「いや、色々だ。探偵だった男は宝くじに当たって働く必要がなくなったとか、傭兵は現地で愛人ができてイタリアに新婚旅行に行ったら、麻薬の不法所持で刑務所に入ったりとか」
演算力は人の運命すら操るという。暴力的でない手段でエージェントを排除することも簡単というわけか。
さらに言うなら走破者がそのようなエージェントを雇用するとき、何重にも中間を噛ませて雇用主が特定できないようにする。そのため、どうしても忠誠心や目的意識が育ちにくい。もっとも走破者でないものに走破者を捕まえることは難しい。エージェントでは最初から無理な話だったのだろう。
「ゼウス、じゃああなたが行くの?」
「行けない。僕は今いる場所を離れられないんだ」
アルテミスは少し考えて、かなり重たげに肩をすくめる。
「私たちに探せっていうのね。報酬は出せるの」
「報酬? オイディプスを放置できないのは今見せただろう。ここはみんなで探すべきだ。協力が求められているんだよ」
その声には優しく呼びかけるような、懐柔するような様子がある。
もしかして、と私は思う。ゼウスという男はこの件をきっかけに私たちを仲間にしたいのだろうか。またオリンピアのよりを戻したいと思っているのか。
いや、それも少し違う。ゼウスの向ける目にへりくだるような気配がないのだ。
彼はすでに私たちを仲間と認識している。あるいはゼウスには敵対者などおらず、皆が自分の共感者であることが当然と思っているような……。
「いいえ、探すのは私よ」
アルテミスは胸をそらせて、挑発的な視線を向ける。不思議だ、アルテミスの体型はさほど特筆すべきほどでも無かったのに、今は胸が水まりのように揺れて威圧的なプロポーションに見える。
「約束しなさい。オイディプスは私が探す。あなたは手を出さない。この一件が終わるまで中国に、いえ、アジア全土に演算力を行使しないと誓うのよ。それなら手伝ってあげてもいい」
「……」
ゼウスが初めて感情を、不機嫌のかけらのようなものを見せる。何かの駆け引きが、アルテミスが何手か先を読んでの発言がゼウスに刺さったのか。
「わかったよ」
感情を込めずにそう言う。アルテミスはにやりと笑い、ケイローン様に顔を向ける。
「ケイローン、あなたはどうするの」
「私が」
ケイローン様に先立って、私が歩み出る。
「私がお手伝いします」
「プルートゥ……何が起こるか分からないのですよ」
「大丈夫です。私もなんだか興味が出てきました」
走破者とは特に非凡な人間が集められたわけではないという。天塩創一が演算力を生み出したとき、その周囲にいた人々なのだとか。
だが、少し話しただけでも伝わる。ゼウスとアルテミスの異様さを。そしてケイローン様にも。
ならば私は、オイディプスという人物に会ってみたい。
それがきっと、私をも非凡に変えるのだろう。
※
重慶とは中国で4番目に大きな都市であり、古来から長江を使った流通の要衝。第二次大戦の前後にかけては数多くの重大事件が起きた歴史ある街だ。
そして平地が少なく山がちであったことから山城とも呼ばれ、独特のビル群が生み出される。あるビルの六階から渡り廊下を通って隣のビルの一階に行けたり、モノレールがビルを突き抜けていたり、複雑怪奇に折り重なる高速道路はまさに圧巻。その構造を見たものは認知の混乱を体験するだろう。
斜面に沿って無数の建物がそびえている。過去のものから現代のもの、あるいは古式ゆかしい瓦屋根の建物などが積み重なった眺め。
ある人は世界でもっとも迷いやすい都市であると言い、ある人はこうも呼ぶ。
「魔幻都市……」
私は夜景を眺めながらその言葉を想う。
確かに幻想的で雄大。貪欲なる挑戦者たちと中国らしい圧倒的な開発熱が生み出した迷宮の街。
そのような情緒はしかし、辛さ、というものとあまり両立しないと分かった。
目の前には真っ赤な火鍋。たっぷりの牛肉と、モツと野菜が赤い地獄の中で煮えている。名物ということで食べに来たが、まあ悪くはない。高級ホテルだけに辛さは少し控えめなのかも知れない。
アルテミスは同行していない。彼女は現実世界で走破者と会うという発想がないようだ。自分で勝手に動くと言っていた。
走破者が現実で動くときに面倒なことはいくつかある。まずはダイダロスの確保だ。
ケイローン様がバックアップについているが、こちらも複数台用意している。宿泊先のホテルであるとか、内部に居住環境を備えたコンテナトラックであるとかだ。私は首元の骨伝導インカムを操作する。
「ケイローン様、定時連絡です」
『はい』
「重慶に入って24時間経ちますが、オイディプスは見つかりません。むこうから接触してくる気配もありませんね」
報告に一種の奇妙さを覚える。
私は常に演算力で痕跡を消しながら移動している。向こうも同じだろう。隠れてないならゼウスがとうに見つけているはずだ。
『この24時間はどうされてましたか』
「朝は磁気口を散歩して、三峡博物館をざっと見て、さっきまで洪崖洞の吊脚楼を見てきました」
『……そ、そうですか』
別に遊んでいるわけではない。歩き回って探せる相手ではないのだ。向こうが観光地に網を張っている可能性にかけて、いくつかのスポットに顔を見せてみたわけだ。
まあ観光を楽しんだことは否定しない。この街の複雑さ、奇妙さ、ここはまさに迷宮の街か。走破者としては何やら感慨深い気持ちになれた。
「ゼウスが送り込んだエージェントは排除されています。私も何らかの網には掛かっているでしょう。しかし私は演算力で排除できない。走破者だと分かるはずです」
『確かに』
ケイローン様がダイダロスを操作する気配がある。
『ゼウスが提示していた犯罪発生地点のマップを私の方でも分析しました。ですが、どうも妙ですね』
「妙というのは」
『当該地域にいる住人のSNSを分析しようとしたのですが……ダイダロスが何も異常なしと解答します。犯罪が増えているはずですから、SNSに変化があっても良さそうなものですが』
「……」
『この空虚な感覚は独特のものです。おそらく重慶の全域でSNSが演算力の支配下にあります。SNSからオイディプスにたどり着くのは難しそうですね』
走破者はダイダロスで自己の痕跡を消すことができる。オイディプスが身を隠している影響だろうか。
だが、特定の誰かがSNSの発言に引っかかることなどさほど多くないだろう。一千万都市である重慶のSNSをコントロールするのは大変なことだ。
それは身を隠すためというより、何か、もっと大きなことを隠蔽している気がする。
何を? やはり多発しているという犯罪だろうか?
『それとプルートゥ。オイディプスは規則正しい間隔で迷宮に潜っていました。スケジュールが狂っていないのなら、おそらく12時間後、明日の朝10時ごろに潜るでしょう』
死んでいなければ。
そう聞こえた気がしたが、私の心が生み出した幻聴かも知れない。
※
朝の公園を歩く。
なだらかな川がある。コンクリートの護岸で舗装され、沿岸には緑地や遊歩道が整備されている。あの流れはやがては長江に注ぐのだろうか。
犬を散歩させる若者や、太極拳を行っている集団、ベンチで刺繍に取り組んでいる主婦など。どこにでもある光景だろうか。このあたりは新興開発地なので、昔ながらの眺めという印象はない。
この地域は特に犯罪が多いらしい。空き巣は他の地域に比べて四倍。暴行事件や詐欺事件は二倍強。だが空気がすさんでいるという雰囲気はない。むしろ平和そのものに見える。
「オイディプス……あるいはその名を示した何者かは、すでに私を補足しているはず。走破者に手は出しにくいのか、それともひたすら身を隠す気なのか……」
しかしそれはおかしい。宇宙からも見えそうなほど巨大なオイディプスのサイン。身を隠すならあんな大掛かりなデモンストレーションをするはずがない。走破者を誘い込んでいるのは間違いないだろう。その目的はまだわからない。
「それに犯罪を増やすというのは、いったいどうやって……」
ふと、視線が動く。
護岸の下にある遊歩道、そこにあるベンチに座っている若い男。見下ろして10メートルほど下方である。なぜそれに視線が向いたのだろう。
見れば、スマホを目の高さに構えている。画面にはジョギング中の女性。ブラウジングするふりをして撮影しているのだ。
「……?」
何かが気になる。私は胸元に入れているボディカメラを起動させて男に向ける。それを手元のスマホ画面に、ダイダロスを経由して画像処理させる。真後ろで見ているかのように精細な画像が表示される。
男は撮影した動画を確認すると、何やら音声で呼びかけている。残念ながら集音マイクの用意はない。
すると画面の中で、ジョギングしている女性の服が消える。
「……」
男は身を縮めて卑しく笑う。
やったことは単純だ。女性を撮影してAIでレンダリング、体型を推測してヌードの動画を生成する。同じことは2020年代にはすでに可能だっただろう。
だが、妙に処理が早かった気がする。命令から1秒もかかってなかったような……。
また別の方向に目が向く。ボディカメラをズームさせてスマホに投影すれば、立木の下にいる若い主婦風の女である。
木漏れ日の下でスマホを体に近づけ、じっと画面を注視している。その様子に不審なものがあったので気づいたのだ。どうやら株の取引画面。秒単位で変化するかなり値動きの激しい株。そこに高速で数百万元の取引を。
いや、違う。
あれは一般人の取引画面ではない。額が大きすぎる。どこかの機関投資会社がプログラムにのっとって行っている機械取引。その画面が表示されている。
0.1秒単位で莫大な額を出し入れする機関投資には一般人では太刀打ちできないと言われる。だが、もしその投資の動向をミラー表示させ、自分の投資を相乗りさせることができるなら。
「機関投資会社にハックを仕掛けている……」
その時、スマホのアラームが鳴る。
時間だ、オイディプスがルーティンを変えていないなら、そろそろ迷宮に潜る時刻。私も入っておかねばならない。
私は指を銃の形にして、ヌード動画にほくそ笑む男に向かって一撃。
ぐらり、と男は倒れる。もう一発。木の下にいた主婦も倒れる。
250メートル離れた場所に控えさせていた狙撃手の仕事だ。麻酔弾で眠った二人は救急隊に扮したスタッフに回収させるとして、私はダイダロスを用意してる場所へと足を向ける。インカムを起動。
「ケイローン様、手がかりをつかみました」
『おお、さすがですねプルートゥ、オイディプスの居場所を?』
「いいえ、事態はそれどころではないようです。まだ全容は分かりませんが、最悪の場合はダイダロスのシステムすべてが破壊される可能性があります。オイディプスはやはりすべてをぶち壊す気かも知れません」
沈黙。そしてごくりと唾をのむ音。
『……そうですか。あのオイディプスがそんなことをするとは、とても思えないのですが……』
「とりあえず二人ほど拉致しますので、身元とスマホの徹底的な分析をお願いします。若い男女ですが、男のほうは気持ち、念入りに」
『わかりました』
「それと、いま出ている迷宮について情報はありますか?」
『まだ私も潜っていませんが、迷宮名は出ています。名前は』
―――万旗紅灯の廻天―――
Tips 吊脚楼
中国の伝統的な建築様式。川沿いや山間部など高低差のある場所に作られ、長い柱で建物を支える様式。
傾斜のきつい地形でも居住空間を確保し、風通しがよく夏場に涼しいなどの利点がある。現代の建物でもデザインとして取り入れられ、商業施設などでは観光的価値が生まれている。




