最終話 だからこの恋は、運命と呼ぶに値する
十二月二十五日の朝は、十時過ぎまでベッドの上で過ごした。
その間に交わされた会話や、いちゃついていたことについては、やはり思い出すだけで悶えそうになる。
軽い朝食を摂って、昼過ぎに家を出た。
小雪のお母さんは夕方に帰ってくるらしく、それまでの時間は一緒に過ごすことにした。
どこに行くか意見を出し合ったら、二人揃って同じ場所を口にしたので決定。
洒落たドアを開けて、住宅街の中の小さな喫茶店、森本珈琲に入る。アンティーク調の店内と、しっとりしたジャズ。暖色の照明が、クリスマスによく合っている。
カウンター奥のマスターに会釈する。窓際のテーブル席に案内されて、向かい合う形で座る。ベージュのセーターを着た小雪は、いつもより柔らかく見える。昨日の一件を越えて、また距離が縮まったような気もするし、なんというか、また可愛くなった。
これからもっと魅力的になっていくのか……ちょっと想像できないな。
甘い想像を打ち消したくて、久しぶりにコーヒーを注文。
「明日、札幌に帰るのよね」
「そうだな。正月の間は向こうにいる予定」
「北海道は雪が積もっているのかしら」
「真っ白だってさ。凛が言ってた」
気温が氷点下とか、もうそこ人類の住める環境ではないだろ。血が凍る。
アスファルトの黒い部分はすべて雪の下で、気を抜けば地元民でも滑って転ぶ。受験生にとってこの上なく不吉な土地である。
「風邪を引かないようにね」
「うん。気をつけるよ」
コーヒーと紅茶が運ばれてきて、少しの間、会話が止まる。
陶器の音が響く店内で、この場所で出会った。大学生になって、大人になって、そのうちここを訪れる回数も減って、思い出の中に溶けていくのだろう。
限りある時間の中で、いくつもの偶然を重ねてここにいられる。
いろいろなことがあったけれど、これはまだ人生のほんの一部だ。これから先、もっとたくさんのことがある。あればいいと思う。
カップを置いて、隣に置いておいた荷物を取り出す。
「プレゼントを用意したんだけど、もらってくれるか?」
「私からも」
俺が取り出したのは、手の平に収まりそうなくらい小さな袋。小雪のはもう少し大きく、両手で渡してくれる。
「気に入るといいのだけど」
「ほんとにな。プレゼントって難しい」
「開けてもいい?」
「いいよ。俺のこれは――帽子?」
手で持った感じで、包装の上からでもわかった。二年前まで毎日頭の上にあって、どれだけつばを触ったかわからない。この感触は、指先が覚えている。
「正解。さすが元野球部ね。私のは――」
手の平で広げて、細いチェーンを伸ばす。一番下には、小さな白金のハート。
悩んだ末に選んだのは、ネックレスだった。もっと手袋とかがいいかとは思ったけど、それらは彼女の母が買ったものだ。思い入れもあるだろう。だから俺からは、まだ持っていないであろうものを。
あまり着飾らない彼女に、着けてみてほしいという願いを込めてみることにした。
願い。なんてのは綺麗な言い方すぎるけど。
「着けてみてもいい?」
「アレルギーとかないよな? いちおう、肌に優しい金属とは聞いてるんだけど」
「問題ないわ。……どう?」
「似合ってる」
白い肌に映える輝きで、見ていて違和感がない。
小雪は手の中でネックレスを転がして、何度か頷き、満足そうに微笑む。
「ありがとう。気に入ったわ」
「ならよかった」
「帽子はどうかしら?」
贈ってくれた帽子は、黒地にシンプルな白の刺繍。有名なスポーツブランドのロゴだ。そのおかげで、つばのカーブがよく指に馴染む。デザインのシンプルさも気に入った。
「格好いいなこれ。外出たら被るよ」
「きっと似合うわ」
「ありがとう」
この指先はまだ、あの頃の感覚を覚えている。消そうとした過去は消えず、この身体に残っている。古傷はもう、痛まない。
帽子を置いて、軽く背筋を伸ばす。あんまり堅苦しくないように、けれどちゃんと伝わるように。
「これからもよろしくな。小雪」
真っ直ぐな瞳は俺を見ている。
そこに不思議そうな色はなく、信頼のこもった純粋さだけがある。その信頼に応えたい。
これからもずっと。何度だって、どんなときだって。
「こちらこそよろしくね。――哲」
聞き間違いかと思った。
恥ずかしそうに俯く少女に、間違いではないのだと確信する。
「――――、名前……」
「いいでしょ。呼び方くらい」
知らなかった。
誰かに名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいことだなんて。与えられた名前が、こんなにも大切になるだなんて。
当たり前が特別に変わっていく。
二人なら、特別に変えていける。
だからこの恋はきっと、運命と呼ぶに値する。
◆
小雪を家に送ってから、森本珈琲へ戻った。クリスマスを喫茶店で祝う人は少ないらしく、店内は静寂に包まれる。心なし、従業員の数も少なめだ。
カウンター席に座ると、マスターが声を掛けてくれる。手は空いているらしかった。
「お久しぶりですね。どうかしましたか?」
「氷雨小雪のことで、少し報告が……といっても、なんとかなりそうだ。くらいですけど」
詳しく話せる内容ではないし、マスターだって求めていないだろう。
ただ、一番最初に小雪のことに気がついたのは彼だ。その後を継ぐ形になった俺は、多少の報告はするべきなのだろう。
「順調のようですね」
「まあ、どっちもそうですね」
温かな笑みには、別の意味も含まれている。この人と話していると、どうも頭を使わされるというか、手の平で転がされないように必死になって、逆に転がされるというか――仙人を相手にしているみたいだ。
「君たちのような若者に出会えて、私は幸せです」
注文は聞かれなかった。マスターは話に夢中になっているようで、この人にもそんな一面があるのだと心の隅で思う。
「俺も、このお店に来てよかったと思います」
マスターは頷き、無言でカップを差しだしてくる。彼の手にも同じコーヒー。
「この歳になって思うのは、情けないことに忘れられる恐怖ばかりです。自分が死んだ後、なにが残るのか。そんなことばかりを考える――」
内容に反して明るい表情で、重さは感じない。
「――ですが、君たちを見て思ったのです。きっとこの場所は、誰かの記憶の中心にはならない。それでも、大切な思い出を呼び起こすための引き金にはなってくれるのだと。それだけで、十分なのではないかと」
「そうですね。俺にとってここは、そういう場所になると思います」
「十分です。ありがとう。君たちに出会えてよかった」
その言葉は、俺にはもったいない。だからこれから証明しよう。彼の感謝に応えるために、俺は大人になろう。
理想を捨てず、現実を受け容れ、彼女の隣で歩いて行こう。
コーヒーの代金はいらないと言われた。少しだけ話をして、俺は店を出る。
息を吐けば白い。空に浮かぶ星は数えきれず、踏み出した一歩は昨日よりも確かにこの身体を前へと運ぶ。
少し先の未来を見つめてみる。
一度捨てた過去を抱いて、まだ光を持つものを拾い上げる。
全部、今の俺がやることだ。
いつか変わるために、できることをしよう。
被った帽子に思い出す、グラウンドの熱。置いてきたグローブはもう小さいから、新しいのを買わないといけない。
それから、高校を卒業した後――
スマホを取り出し、実家に電話をかける。固定電話だから、誰かが出てくれるはずだ。
コール四回で、元気な妹が出てくる。
「もしもし。阿月です」
「もしもし。哲だけど、父さんか母さんはいるか?」
「おっ、哲にぃ。どしたの?」
「大事な話……の予告。替わってくれると嬉しい」
「りょーかい。おとーさん、哲にぃから電話」
母さんなら楽だったが、父さんか……。気まずいわけじゃないが、母さんのほうが話しやすくはある。
まあ、どっちでも同じだ。いずれちゃんとしなければならないのだから。
「哲か?」
「うん。……えっと、父さん。明日帰ったらなんだけどさ」
向き合わなければならないことは、たくさんある。だから時間をかけよう。誠実であろう。一つ一つを、ちゃんとこなしていこう。
深く息を吸って、前を向く。
「話があるんだ」
この小説を書き始めたとき、自分のやりたいことをやりきろう。という目標を立てました。
そのため読者のみなさんにとっては、期待していた展開にはならない部分や、読んでいて苦しい部分も多々あったと思います。自分としても、書いていて苦しくなるところが多かったです。
ですが、この物語のおかげで得るものはたくさんありました。
読者のみなさんにとってもそうであれば幸いです。
たぶん、自分はこれからも小説を書きます。
またどこかでお会いしましょう。
それでは。
1/9追記
新作を始めました。
女子四人と男一人のシェアハウスものです。ハーレムとかではない予定です。
目次ページの下部から飛べるようにしてみました。
これからもよろしくお願いします。




