96話 醒めない夢のように
ただ待っているのも寒くて、近くの自販機で缶のココアを二本買う。ちびちび飲んでいると、少し大きめのバッグを抱えた小雪がやってくる。とことこと近くに来ると、バッグを地面に置いて中から小さなボトルを取り出す。
「怪我してない? 応急処置用に持ってきたのだけど……」
「血は出てないから大丈夫だよ」
「そう?」
「おう。というわけで……まあ、なんだ…………行くか。あ、これココア。荷物持とうか?」
「ありがとう。荷物は自分で持てるわ」
明らかに挙動不審な俺にたいして、冷静な小雪。
そういえば部屋って綺麗にしてたっけ。明日会う約束はしていたから、掃除はしたけど……急に不安になってくる。とはいえ廊下で待たせるわけにもいかないし。たぶん、大丈夫。やばかったら謝ろう。うん。それしかない。
そんなことより――
ちらっと後ろを確認してしまう。そこにはもう、薄暗い道しかないのに。
氷雨さんは、大丈夫だろうか。俺の出る幕ではない。けれど、この状況を作り出した原因の一つとしては不安にもなる。
後悔しているかというとそれは違うけれど。
後悔はしていない。結局、あの問題は夫婦でどうにかしてもらうしかない。
夫婦、か。
今の俺には、まだ理解のできないことだ。大好きだから一緒にいよう。なんて口約束では足りない関係。お互いの好きなところ、嫌いなところを受け容れて、家族になること。
いつか俺にも、その決断をする日が来るのだろうか。
「私の顔になにかついてる?」
「いや、ちょっと考え事をな。でも大したことじゃない」
未来のことを考えたって、できることはない。なら今を前に進みたい。そうすれば、いつかきっとたどり着く。どんな場所にだって行けると思う。
静寂が終わった流れで、小雪が聞いてくる。
「さっき、どうしてなにもやり返さなかったの?」
「やり返す? なにを?」
「あの人に攻撃されたときよ」
少しだけ非難するようなトーン。自衛をしろということだろう。確かにやられっぱなしは、少し気分が悪い。けど、
「俺がやり返したら、そりゃあ正当な理由はあるのかもしれないけどさ。小雪にとって、怖い男になる気がしたんだ」
相手をねじ伏せるために、暴力を用いてしまったら。ほんの少しでも、その片鱗を覗かせてしまえば。きっとそれを、彼女は感じ取る。
俺の手は、誰かを傷つけるものであってはならない。大切なものを、守るために使いたい。
「俺は変わらないよ。少なくとも、悪い方には」
「…………はぁ」
「ため息!?」
「あきれたのよ」
「あきれた!?」
「どうしてあなたは、そんなに格好いいのよ。ずるいわ」
「…………」
「私はきっと、これからもっと阿月くんのことを好きになる」
「それは俺も同じだ」
「そう?」
「そうだよ」
「なら安心ね」
格好いい。シンプルに嬉しい言葉だ。だけど恥ずかしくて、まだ受け止めきれない。
ぽつりと、手の甲に雨粒が落ちてきたのはその時だった。
「雨」
小雪が呟いて、「マジか」と俺も呟く。
ぽつりぽつりと降り始めたそれは、あっという間に強くなってアスファルトに叩きつける。
「荷物貸して。もうちょっとだから、急ぐぞ」
結局俺たちは、雨に打たれている。
君となら、それも悪くない。
◇
家に帰るなり暖房を入れ、湯船を張り、タオルを出して小雪に渡す。脱いだコートを二人分干して、とりあえず一段落。
「また雨ね」
「本当だよ。なんでこうなる……」
夏休みも雨に降られ、電車が止まり、その結果としての泊まりだった。今回は雨が原因ではないが、まただ。
「風邪引くから、先に風呂入ってくれ」
「そ、そうさせてもらうわ」
ここにきて小雪は緊張してるようだったが、それに触れると俺も耐えられないので流す。
率直に言ってしまえば脱衣所とか死ぬほど覗きたいけどそういう自分を頭から追い払うのだ。失せろエロ仙人。
着替えを持って小雪が部屋を出ていく。
ただ待っているだけだと本当にどうかしてしまいそうなので、冷蔵庫から食材を取り出し、料理を始める。料理はいい。単純作業をしていると余計なことを考えなくていいから。
本当は明日作るはずだったものだが、今日でもいいだろう。
ある程度準備ができたところで、小雪が出てくる。
「ありがとう。温まったわ。――いい匂いね」
「料理してみた」
「いつもしてるんでしょ?」
「人に食べてもらうのは調理実習以来だ」
後ろからのぞき込んでくるので、少し避ける。風呂上がりの寝間着姿で、この狭い台所。密着はやばい。
「……ミネストローネ、作ってくれたのね」
「好きだって言ってたからな」
コポコポ沸騰する鍋。適度に混ぜながら、あとは煮込むだけだ。
「阿月くんもお風呂にいって。私が見ておくから」
「わかった。ありがとな」
まあでも冷静に考えて、小雪の浸かった湯船に入れるほど俺はメンタルが強いわけでもなく。いずれ慣れるのかなとか考えながら、シャワーだけ浴びて済ませる。
あっという間に出てきて、「本当に温まった?」と懐疑的な視線を向けられることになった。
「俺、のぼせやすいほうだから」
今年一番しょーもない嘘を吐いて切り抜ける。
再び台所に立って、味付けの済んだ肉を焼き、サラダを作り、パンをトースターで温め、皿に盛り付けていく。
机に並べて、うん。わりといい感じだ。
「メリークリスマス。ってことで、食べようか」
「メリークリスマス。じゃあ、いただくわね」
手を合わせて、スプーンを手に持つ。
作った料理を食べてもらうのって、すごい緊張するんだな。食べにくいとわかっていても、じっと見つめてしまう。
スープを口に運んで、小雪は目を丸くした。
「――! この味……でも、どうして?」
「レシピを聞いたんだ。小雪のお母さんと会ったときに」
好きな料理にもいろいろな理由があり、味がある。料理上手の小雪が、一つ挙げたもの。なんとなくそれは、母の味なのだろうと思った。今となっては忙しく、料理をする余裕のない彼女の母の、思い出の味。
「上手くできてるかな」
「ええ。とても美味しいわ。……私には、作れなかったのに」
「じゃあ、ミネストローネは俺が作る。それでいいだろ」
「そうね。お願いするわ」
誰かが作った料理は、自分で作ったものとは違う。味がまったく同じでも、きっと別物なのだ。
込めた心は、ちゃんと伝わる。
食事が終わって、後片付けをして、それからしばらくして電話がかかってきた。小雪の携帯。相手は、たぶん想像した通りの人。
目が合って、小さく頷く。部屋を出た小雪は、廊下で少しの間話をしていた。
戻ってくるとスマホを握ったままこっちに歩いてきて、俺の横に座って、背筋を伸ばす。
やけにかしこまったその動作に、俺も背筋が伸びる。
「……どうだった?」
「今、二人は実家にいるそうよ」
「お、おう。実家か。なら安心か?」
「ええ」
「それで、どんな感じになりそう?」
「離婚のことも考える。そう言っていたわ。……どうなるかは、わからないけれど」
「……そうか」
よかったな。とは言えなかった。
静かに報告をする彼女の表情が複雑そうで、感情の整理に戸惑っているふうだったから。
どれだけ憎んでも、恨んでも、簡単に断ち切れるものではないのだろう。そんなふうに簡単に済むなら、きっと彼女はここにいない。
「お疲れさま」
「……そうね。少し、疲れたわ」
身体から力を抜いて、体重を預けてくる。それを受け止めて、そっと抱きしめる。
風呂上がりの小雪は、いつもより温かく、柔らかい。同じシャンプーを使ったとは思えないほど、甘い香りがする。緊張はするけど、それ以上に安心する。
この感情を、まだ上手く言葉にはできない。だけどそれに代わる言葉はあって、きっとこの夜にふさわしい。
「愛してる」
「私もよ」
それ以上の言葉はなく、雨の静けさに包まれた部屋で俺たちは寄り添い合った。
少しして腕の中の小雪は眠り、彼女をベッドに移して、その隣で俺も眠った。
夢から覚めたとき、隣で眠る君がいる。
口に入りそうな髪をどかす。くすぐったそうに身じろぎする。寝ぼけて抱きついてくる。そっと頭を撫でる。
胸の奥にあるのは、どんな氷すらも溶かせる温かい感情だ。太陽にも負けないくらい輝いて、どんな暗闇でも見失わない。
だからこの恋は、醒めない夢のように。
終わることなく続いていく。




