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95話 願いの結末

 最悪だ。

 その知らせを聞いたとき、真っ先に思った。


「ぬぐぐ……」


 小雪と電話しながら、明らかに大丈夫ではない人間の声を出してしまう。ベッドに上半身を預け、天井を仰ぐ。


 彼女の父は、家族の仲直りにクリスマスパーティーを提案してきた。十二月二十四日。イブの日だ。終業式の翌日でもある。

 イブがだめなら、じゃあ俺とは当日だな。クリスマス本番やったぁ! ……とは、ならないわけで。


「なんでよりによってそのタイミングで……いや、そのタイミングだからこそか?」


 イベントがあれば理由もつけやすい。クリスマスであれば、プレゼントという形で謝罪することもできる。美味しい食事と、飾り付けで、記憶を彩ることができる。ある意味、壊れた場所からの再スタートには打って付けに見える。


 ほんの一言、すれ違うほどしか見ていないあの顔が浮かび上がる。小雪に少し似た、穏やかそうな大人の顔。


『そうね。あの人は昔からそう。少しでも成功する確率を上げようとして、自分を美化しようとするの』

「なんか耳の痛い話ではあるけど、納得した」


 電話越しの小雪は淡々としていて、その声は静かなのによく響く。ひしひしと伝わってくる、父親への軽蔑。冷たく、鋭利で躊躇いのない冬の温度。

 人の本質は、簡単には変わらない。


 氷雪の女王と呼ばれた一面も、彼女の中に残っている。自らを守るために築き上げた防壁を、彼女は再び扱うと決めた。それが彼女の願いだった。


 父親との思い出を、美化したくはない。いつか時間が経って、昔は酷かったけど、今ではいい父親になったね。なんて言いたくない。

 その過去を、存在を、完膚なきまでに消し去ってしまいたい。


 きっと綺麗な答ではないのだろう。人として正しいかもわからない。許すことが大切だと言う人もいる。小雪の選択を、家族なのに冷酷だと非難する人だっているだろう。


 それがどうした。

 そんなものは他人様の正義だ。

 俺は、俺の信じる正義を貫く。


「ってことは、その日が勝負になるんだな」

『せっかくのイブなのにね』


「来年もあるから大丈夫だろ」

『来年は受験よ』


「……再来年か。うわっ、急に腹立ってきた」


 今年を逃すダメージでかくね?


『ふふっ』

「笑ってる場合か?」


『いえ。でも、面白かったから』

「ならいいんだけど……いや、別になんもよくはないな。でも笑ってくれたからオッケー?」


『オッケーよ。元気が出たわ』

「じゃあいっか」


 それから軽く笑って、少しの間を置く。


『私は、今度こそあの人と決別する。やり直しのチャンスは与えないわ』

「それがいいなら、迷わなくていい。先に約束を破ったのは向こうだ」


『お母さんとの時間も、せめてあと一年は邪魔させたくない』

「それでいい」


 大人になることや、優しく振る舞うことが、諦めの結果であっていいはずがない。すべてを願え。望め。その権利がきっと、俺たちにはある。誰にだってある。だめだったら、その時に考えればいい。

 なにかをする前に諦めるのは、自分への裏切りだ。


「それで、俺はどうすればいい?」

『私を守って』


 迷いなく告げられた言葉は、ずっとほしかった言葉だ。大切な人に、その人を守ることを許してほしかった。

 俺は、誰かに信じられたかった。弱さを受け容れてほしくて、だけどそれと同じように、強さも認めてもらいたかった。


 こんな無茶な注文を、こうも自然に叶えてくれる。

 だから俺は、君が好きなんだ。


「任せてくれ。必ず守るから」







 イブの夕方。コートを羽織って家を出て、ポケットに手を入れる。息を吐くと白く曇って、木々は完全に葉を落としきった後。ライトアップは蜘蛛の巣のようにあちこちへ張り巡らされ、通りにはカップルらしき二人組がちらほら見られる。


「寒いな……」


 さすが十二月。吹き付ける風が頬を切り裂くようで、マフラーに深く埋まる。

 信号待ち。目を閉じて、深く息を吸う。


 緊張がある。恐怖もある。大人に立ち向かうのは、やはり不安だ。でも、それでいいのだと思う。ちゃんとビビっているから、踏み外さないでいられる。勇気と蛮勇は違う。恐怖を認めろ。弱さを受け容れろ。

 俺は弱い。それでも、進むと決めた。


 信号が青に変わる。横断歩道を渡る。カラスの鳴き声につられて、空を見上げた。オレンジ色に、ちぎれ雲が流れている。

 その夕焼けに、ふと問いかけてみたくなった。


 ――なあ、花音。俺もちょっとは強くなったのかな。


 なんて思って、笑ってしまう。我ながら馬鹿げた問いだ。

 俺が強くなったわけじゃない。そのくらい、あいつならすぐ見抜く。







 家の近くで電話を掛ける。アパートの二階。玄関から顔を出した小雪に手を振って、ぎこちない足取りで近づく。


「どんな感じだ?」

「あの人はまだよ。今は、私とお母さんだけ」


「なるほど」

「ちなみに、お母さんに阿月くんが来ることを言ったのは七秒前よ」


「嘘だろ!?」

「嘘よ。正確には九秒前」


「そういう正確性じゃなくてだな!」


 玄関先でそんなやり取りをしていると、奥から氷雨(母)が顔を出す。俺を見てなにか言おうとしたが、それより先に小雪が口を開いた。


「私が呼んだのよ。阿月くんは悪くない」


 事前に伝えていれば反対されかねないから、このタイミングで、か。ずいぶんと強引な手段ではあるが、冷静に考えればそれも仕方がないだろう。


「聞いて、お母さん」

「……なに?」


 怯えるように、氷雨さんは瞬きをする。背筋を伸ばして立った娘と、その後ろにいる俺。なにを切り出すかは、おおよそ見当もつくだろう。


「私は、お母さんが好き。毎日遅くまで働いて、だけど私の話を聞いてくれる。可愛い服を買ってきなさいと言ってくれる。文化祭にも来てくれるし、阿月くんとの事も応援してくれる。

 だから、いつもありがとう」


 胸に手を当てて、小さく頭を下げる。顔を上げた彼女がどんな目をしていたのか、俺には見えない。少し迷って、視線を横に逸らす。


「でもごめんなさい。私はもう二度と、あの人を父親だと認められない。大好きなお母さんを傷つける人を、家族だなんて思えないの」


 彼女の父親が手を上げるとき、氷雨さんは自分が盾になっていたという。小雪を隣の部屋に逃がし、見えないようにして、声を殺して、暴力に耐えた。


 どうしてそんな男を好きで居続けられるのか、俺にはわからない。わかりたくもないが、否定できるほど偉い人間でもない。そういう形もあるのだろう。真っ当な形はしていないけれど、愛とはそういうものでもある。そうなりうるものなのだろう。


 氷雨さんはうなだれて、掠れた声で言う。


「……どうしても?」

「どうしてもよ」


 小雪ははっきりと、躊躇いなく応えた。


「だから、自分で伝えるわ。今まで逃げてごめんなさい。私もちゃんと、あの人と向き合うから……だから…………、」


 後半に行くにつれて、小雪の声が震える。弱々しくなる。

 彼女の泣き声を、何度聞けばいいのだろう。何度聞いたってなれやしない。胸がしめつけられる。自分の無力さが嫌になって、俺まで泣きそうになる。


「これからも、私のお母さんでいてください」


 外廊下の手すりに腕を乗せて、外を見た。後ろがどんなふうになっているのか、俺が見ていたら邪魔だろう。

 長い静寂があった。三度風が鼻先を掠め、街灯がじりじりと光り出す。


 ゆっくりと流れた時間は、目的の相手が現れたことで終わる。


 見下ろしていた駐車場の端。妙にきっちりしたスーツに身を包んだ、穏やかな雰囲気の中年。

 後ろから肩を叩かれる。目が合って、緊張した面持ちの少女が頷く。紺色のコートを羽織って、外に出る準備はできているらしい。


「……行きましょう」

「大丈夫か?」


「一人だったら、きっと逃げていたわ」

「ヤバくなったら、二人で逃げるぞ」


「魅力的な提案ね」

「だろ?」


 マフラーと手袋を外して、階段を下りる。

 家に入れる気すらないのだろう。話し合いの場所に選んだのは、コンクリートの駐車場。


 小雪が正面に立つと、向こうも立ち止まる。


「小雪? 久しぶりだな。大きくなった」


 目をぱちぱちさせて、感動したように一歩踏み出そうとして――


「来ないで」


 ぴしゃりと払われる。驚いたように男が止まる。


「今日は、お別れを言うために来たのよ」


 強く出る。だが、小雪の手は震えていた。その震えを止めるために、いつもなら手を握れるのだが……今回はそうもいかないだろう。半歩後ろに立って、成り行きを見守る。


「お別れ? なに言ってるんだ小雪。お父さんは心を入れ替えて――そうだ。ごめんな。まず謝らないといけない。お前と、お母さんに」

「謝って済む問題だと思っているのなら、本当に軽蔑するわ」


「そんな――お前の好きだったケーキを買ってきたんだ。プレゼントだってある。だから……」


 明らかな動揺は、計算が外れたからだろうか。


 おそらく、氷雨さんとの話ではもっと好感触だったのだろう。小雪が最近明るくなったことが、自分のことを許したからだと思ったのだろう。そして子供なら、ある程度の物を揃えれば簡単に態度を軟化させられると、甘い甘い策を練ったのだ。

 その代償が、どれほど大きなものかも知らずに。


「なにもいらない。あなたに与えられるものに、私は価値を感じない」


 怖さが限界に達したのか、一歩下がって小雪が俺の腕を掴む。出番か。頷いて、気持ち前に出る。


「そいつは誰だ……お父さん、なにも聞いてないぞ」

「恋人よ。あなたに言う必要がある?」


「こいびと……? ああ、そうか。小雪ももう高校生だもんな。恋の一つや二つしたくもなるか――」

「一つよ。不愉快だから訂正させて」


 たった一つだと断言してくれる彼女に、その想いに応えたい。できることがなくとも、立っているだけでも、支えになりたい。


「そ、そうか……。君、名前は?」


 俺に向けられる視線。この間のことは忘れているらしい。まあそうか。道を聞いただけの相手なんて、覚えていることのほうが少ない。


「阿月哲です。小雪さんとお付き合いしています」

「君はなにが得意なんだい? きっとなにか、すごい特技があるんだろう?」


「いえ、別に。人に自慢できるような技能は持ってないです」


 なんの意図で聞かれているのかわからなかった。なんだろう、この人は。根本的に話が噛み合っていない気がする。

 なにかが致命的にズレている。


 男は動揺する。その姿は俺の知っている常識にはなくて、ただただ気味が悪い。


「じゃあ、なんで小雪は彼を恋人にしたんだ。昔から言っていただろう。お前は可愛い。顔がいい。だからいい男を選べと。能力のある相手と付き合わないと、不幸になると言っていただろう。なのになんでこんな、見た目すら二流以下の――」


 こんなものに彼女は追われていたのか。こんな醜悪なものに。悍ましく、理解できず、恐ろしいものに。

 素直に認めよう。俺は怖い。俺も怖い。

 こんな大人がいることが、ひたすらに怖い。


 けれどそれ以上に、こんな大人に向かっていこうとする彼女の姿が誇らしい。


「それ以上――」

「いいよ。怒らなくて」


 こんなやつに、怒るほどの価値もない。

 男はなにかが壊れている。いつ壊れたのかはわからない。最初からか、あるいは途中でか。ただ一つ言えるのは、きっと俺の言葉は届かない。


 話し合いではないのだ。同じ音を並べても、意味する言葉が違うのだから。どれだけ伝えようとしても、耳を持たない相手には聞こえないのだから。


 それでも言おう。

 隣で怒ってくれる彼女のために。


「俺は、自分がすごいやつだなんて思わないです。実際、これといって勉強ができるわけでもないし、運動だってまあまあだし、要領の良さもあるわけじゃない。俺はたぶん、誰かの劣化版なんです。もっとすごいやつなんていくらでもいる。いいやつだっている。

 だけど、小雪のことを笑わせられる。それだけは誰にも負けないし、負けたくない」


 一歩前に出て、男との距離を詰める。背丈は同じくらい。


「二度と彼女に近づかないでください」


 真っ直ぐに目を見て、言い切る。


 ドロリと、男の目が淀んだ。

 次の瞬間、右頬に衝撃。


「――阿月くん!」


 脳が痺れ、視界が傾き、やっと痛みが回ってくる。殴られたらしい。

 いってえなぁ。口の中、切れてんのか。鉄の味がする。


「黙って聞いてりゃ何様だ? これは家族の問題だ! 部外者が、関係のないガキが近寄るんじゃない!」


 胸ぐらを掴まれ、もう一発――


「また、殴るんですか?」


 目を開いて、男の顔を、拳を見つめる。口元を緩め、薄く笑って見せる。


 殴ってみろよ。見ていてやるから。俺だけは、お前の悪行を見ていてやるから。殴った相手に見られる気分はどうだ? うずくまって助けを乞うから、明らかな弱者だから殴れたんだろう。所詮。その程度だ。


「ずいぶん心が弱いんですね」

「――ッ、黙れ!」


 突き飛ばされて、背中からコンクリートに落ちる。今日は厄日か?


 すぐに立ち上がって砂を払う。軽い手の合図で「大丈夫」と、小雪を後ろに下がらせる。

 ファイティングポーズは取らない。俺は殴らない。そんなところまで落ちてやれるほど、優しい心は持っちゃいない。


「同情しますよ。きっとあなたにも、いろいろあったと思うから。俺は社会のことなんて知らない、ただのガキで、だから俺には想像ができないほど苦しいこともあるんだと思います。だけど――」


 息を吸って、ちゃんと聞こえるように。


「苦しみを分け合うのが家族だろ! それをぶつけてしまうなら、お前に父親を名乗る資格はない!」


 男が後ずさる。その顔にははっきりと、恐怖が浮かんでいた。

 ずっと目を逸らしていたものに向き合わされる感覚。わかるよ。俺も経験したから。でも、だからこそ言える。


「そんなこともわからないなら、……あんたはずっと、今のままだ」


 言い終えて、男は固まって、静寂に包まれる。

 その中で俺が聞いていた音は、階段から響く足音。阿月哲という人間は、どこまでも小賢しい。


 間に入ってきたのは、小雪の母。


「阿月くん。小雪のこと、お願いしてもいい?」


 氷雨さんは赤く腫れた目で、けれどなにかを決意したように微笑む。

 その表情に、心の中で安堵のため息をこぼした。


「構いませんよ。俺なら、いくらでも」

「ありがとう。夫とちゃんと話がしたいから、今晩お願いするわね」


「わかりました」

「小雪、すぐに用意してきなさい」


 少女はこくりと頷いて、素早く家に戻っていく。


 俺の出番は終わりだ。ここから先は、大人がなんとかしてくれる。

 ふらつく足取りで離れて、敷地の外に腰を下ろす。


 小雪の抱えていた問題を解決する方法は、たった一つ。彼女の母親が決断すること。夫よりも、娘を選ぶと覚悟すること。

 だから俺が前に出た。小雪の意思を、俺の存在で裏付ける必要があったから。


 考えてみれば単純だが、それに気がついて実行できる自分は、やっぱりヒーローにはほど遠い。


 ぼんやりと夜空を見上げて、考え事をして。やっと落ち着いた頃に、ふと現実感がやってくる。




 ……今晩よろしくって、なんか大変なことになってないか?

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― 新着の感想 ―
[一言] 氷雨さんのお母様だけにして大丈夫なのだろうかという心配はありますが…
[一言] まぁ性根は治ってないでしょうね さくっと終わってよかった!
[一言] なるほど。母親を動かしたかあ。これを見れば、父親の本質が変わってない事ははっきり判るだろうからなあ。二人にして大丈夫か、というのはあるけれど。 まあ、結局イブを二人で過ごすことになったし。…
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