92話 たどり着いた場所
一日ぶりにちゃんと寝て、だいぶマシになった顔色。昨日のようにあくびも出なくて、体長は万全。楽しむ準備もできている。やるべきことは、ほとんど昨日終わらせた。
教室に入って、細かい準備をしていく。八時にルリ先生がやってきて、人数確認。
「後は任せたわよ」
と残して、来客の対応に向かう。
教室に残ったクラスメイトは、欠席ゼロ。
奇跡みたいなことだ。あれだけのミスが重なって、けれどすべて巻き返した。文化祭なんて、学校行事の一つにすぎないけれど。誰もが自信を持ってこの場にいる。なんだ俺たち、やればできるじゃん。みたいな空気が流れている。
二日目。今日で終わりだ。
最後の一日が始まる。このクラスでの文化祭に、二度はない。
始まりの合図を求めて、視線は二人に注がれた。応じるように、小日向が前に出る。凛とした表情で、心なし力強くポニーテールが揺れる。
一つ息を吐いて、顔を上げる。
「あたしは今回、すごく、すごく皆に迷惑をかけたと思います。いっぱいミスして、へこんで――でも、皆が助けてくれたから、今日も笑えてます」
一点の曇りもない笑顔を、全員に向ける。その中にはたぶん、俺もいた。
「あたしは、このクラスが大好きです! だから、二日目、絶対成功させようね!」
「「「「うぉおおおおおお!!!」」」」
一切の躊躇いなく拳を掲げる男たち。野太い声が教室に響き、たぶん下の階まで届くほど重なる。やや引き気味に拳を掲げる女子。
それを俺は、後ろのほうで見守る。なんとなく距離を取って、彼女が立ち直ってくれたことを嬉しいと思う。
これでいい。小日向は大丈夫だから。
そうやって安心していたら、突然指名された。
「おいそこのテツ! なーに涼しい顔してんだ!」
「は?」
間の抜けた声が出てしまう。あまりに急すぎて、理解が追いつかない。
「前でろ前!」
「え、なんで……」
「いいからいいから」
一輝だけでなく、小日向まで手招きしてくる。余計に混乱した。
「いいから行けよ阿月」「いっちゃえいっちゃえ」「阿月くんも盛り上げて!」「できる、君ならできるよ!」
連鎖するように、周りからも背中を押される。
考えてもわからなくて、よくわからないうちに前に着いてしまう。
その場所は俺が、絶対にたどり着かないと思っていた場所だ。
誰かの前に立って、期待を背負って、それに応える役目。一輝と小日向のいる場所。人が苦手で、コミュニケーションの下手な人間にはいられない立ち位置。
そこに今、俺もいる。
もう話すことのないと思っていた小日向に招かれ、まともに向き合わないでいたクラスメイトに背を押されて。
いろんな感情がわき上がってきて、言葉にならない。意味を為さない。まだ混乱が強くて、この鼓動が速いのは嬉しいからか、恥ずかしいからかもわからない。
それでも不思議と、言葉は出てきた。
盛り上げる言葉は、小日向が言ってくれた。同じ事を俺がする必要はない。
「……一つだけ告白しておくと、俺はホラーが苦手だ」
おおっ!? と湧く教室。
お化け屋敷を発案したのが俺で、配布する招待状も書いていたから、当然の反応だろう。
「その俺から言わせてもらうと、このお化け屋敷は絶対に入りたくない」
笑いが起こって、それから「引きずり込んでやる!」と反応がある。真っ黒のウィッグを被った、口裂け女の生徒だ。こえーし、中身男かよ。
ひとしきり笑いが収まって、やはり最後は一輝。
「んじゃまあ、今日もたっぷりビビらせてやろうか!」
ひどく楽しそうに笑う顔は、悪人そのものだった。
◇
一度解散して、各シフトに分かれるタイミングで、小日向に声を掛けられた。
「あ、あの。テツくん」
「お、おう……どうした」
およそ一ヶ月ぶりに向き合う。
久しぶりにちゃんと見る彼女は、不安そうで、けれどその目は前よりも真っ直ぐに俺を見つめてくる。
「あたし、幸せになるから!」
ただの宣言じゃない。もっと挑戦的な響きを持っていた。
「テツくんに負けないくらい、幸せになるから。勝負だよ」
「……なんだそれ。変なの」
「へ、変じゃないし! とにかく、そういうことだから」
「だから?」
やっぱり意味がわからない。さっきからどうしたんだろう。
無理をしているふうには見えないけれど。核心が掴めない。
俺が首を傾げると、小日向は微笑んだ。その表情には、少しだけ弱さが垣間見えて、胸がじわりと疼く。
やっと意味がわかった。
その過去と向き合うために、声を掛けてくれたのだ。俺とのこれまでを吹っ切るために。
「気にしてないって言ったら嘘になるけど、でも、大丈夫だよ。ごめんね、時間がかかって」
「お前が謝ることじゃないだろ」
どちらが悪いという問題ではないのだと思う。
俺が謝るのは彼女への冒涜になるし、小日向が謝るのも違う。
「うん。そうだよね。ありがと」
小日向が平気そうにしているから、辛うじて俺も落ち着いていられた。内心はぐちゃぐちゃで、頑張らないと表情が歪んでしまいそうになる。
どちらか一人しか、俺には大切にできないとわかっていた。
あの日自分がした決断を後悔はしない。何度同じ問いが繰り返されても、この人生に二度目があるとしても、俺は小雪を一番にする。
だけどそれで、積み上げたすべてが消えるわけじゃない。
こんなことを言う権利がないのはわかっているけれど。俺はそれでも、小日向と笑っていたかった。傷つけた分際で、願うことも許されない夢を見ていた。
嘘のない答えは、いつだって汚れている。
欲しいものだけを集めれば、あるのは自己満足だけだ。
「ねえ、テツくん。また最初から、友達になってくれますか?」
だけどそれを、求めてもいいのだろうか。まだ手の届く場所に、それはあるのだろうか。あるのだろう。だから彼女はここにいる。
最初から、また。
きっとそれには、長い時間がかかる。かつて積み上げた一年より、ずっと長い時間が必要だ。高校を卒業して、別々の大学に行って、その後になるかもしれない。
けれど、それでもいいと言ってくれるのなら。
「こちらこそ、よろしく頼む」
ここから始めよう。もう一度。何度でも。
「――んで、どうせいるんだろ。一輝」
「うおっ、バレてたか」
ばつが悪そうに、ポケットに手を入れて近づいてくる。
「心配かけたな」
「一輝には、一番謝らないとね」
へっ、と不機嫌そうに鼻を鳴らす我が親友。それから複雑な表情で俺たちを見て、視線を逸らした。口元が緩んで、悪っぽく笑む。
「まったく……お前らは俺がいないと全然ダメだな」
当たり前だ。
わざわざ口に出すまでもない。
◇
午前中は少しだけお化け屋敷の受付係をして、十一時には引き継ぎを終える。自由になった身で校舎をふらついていると、保護者の中に知っている人を見つけた。すぐに向こうも俺に気がついたので、挨拶をする。
「こんにちは」
「お久しぶりです」
氷雨(母)は、やはり小雪に似ている。雰囲気や細かな所作が落ち着いているのは、違いではあるが。いつか小雪もこんなふうになるのだろうな、などと考えられるくらいには、似ている。
「夏祭りからなんですけど……小雪さんとお付き合いさせていただいてます」
「ええ。聞いてるわ」
なんと言えばいいのだろう。というか、なにか言ったほうがいいのだろうか。それすらもわからん。
「阿月くん」
「はい」
「うちの子について、なにか知りたいことはない?」
氷雨さんは、楽しそうに目を輝かせていた。
「知りたいこと……ですか」
「パジャマの柄とか、教えてあげるわよ」
なにそれすげー知りたい。え、ウサギ柄とか着てるの?
……落ち着け。その質問をしたら、なんというか、人としていろいろアウトな気がする。
もっと他に、聞きたいことがあるだろ。もし文化祭で会えたら、聞こうと思っていたことが。
「じゃあ、聞いてみたかったんですけど―――ー?」
俺の質問に氷雨さんは目を丸くし、それから微笑んだ。
「それは、あの子から聞いたの?」
「はい。たぶん、氷雨さんのものかなと思って」
「あなたが受け継いでくれるのね」
「できるなら」
氷雨さんは頷いて、それから丁寧に教えてくれた。俺はスマホのメモ帳に、聞き漏らしのないようにメモをした。
それが終わると、氷雨さんは満足そうに頷く。
「ありがとう。足止めしちゃってごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」
「それじゃあね。楽しんで」
もう小雪のところへは行ってきたのか、そのまま階段を降りて去って行く。一礼してそれを見送り、歩き出す。
いろんなことを整理して、晴れやかな気分だ。胸のつっかえは一つもない。
いざゆかん。ネコミミ喫茶。
氷雨の教室には長蛇の列。その大半が男で、ちらちら教室の中を見ている。
けっこう待ちそうだな。廊下の壁に背中を預けて、スマホをいじる。
「あれ? 阿月じゃん」
「ナトリンじゃん」
「薬品みたいな呼び方すんな」
ガシッ、と軽く脇腹を小突かれる。
休憩中なのか、名取は制服姿だ。
「小雪のおかげで大繁盛。すごいでしょ」
「悪いけど、昼から連れて行くぞ」
「どーぞ。午前中だけで元は取れちゃったから、好きにして」
「そんなに来たのかよ」
「すごかったわよ。おかげで今は在庫がほんとどなくて、男子が必死に買い出し行ってるって状態」
やはりネコミミは偉大。
別にやましい気持ちは一つもないけど、後で買って家に置いておこうか。悪くない案だとは思うけど、普通に気持ち悪いからやっぱ却下で。
そうこうしている間に列は進み、順番が回ってくる。
「ごゆっくり~」
と手を振って、名取はどこかへ行った。
受付係の女子が、伝票を持って近づいてくる。
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
「ご注文は?」
「コーヒーで」
中に入って、席に通される。
小雪は忙しそうに動き回っていたが、目が合うと柔らかく微笑んでくれる。ウェイトレス姿で、頭にはネコミミ。
惚れるわバカ。
極めて冷静に紳士ぶってはいるものの、内心は乱舞している。可愛いにもほどがある。ちょっとは自重してほしい。いや自重はしなくていいか。
座っていると、紙コップに入れたコーヒーを持って小雪がやってくる。
「お疲れさま。もうすぐ終わるわ」
「お、おう。頑張って」
思えばこの構図も懐かしい。客の俺に、コーヒーを持ってくる。俺たちは、そんなふうに出会ったっけ。
といってもまだ、懐かしむほど昔でもないか。
◇
「せっかくだし、二人の写真撮ろうか?」
小雪の仕事が一段落したタイミングで、カメラを持った女子が近づいてきた。小雪とは仲がいいらしい。さっきも楽しそうに話していた。
小雪はまだ着替えていない。制服姿ならまた今度でもいいが、この服装は今日だけ。
断る理由もない。
「せっかくだし」
「そうね。じゃあ、お願いするわ」
色鮮やかに装飾された壁の前で、二人並ぶ。
「なにげに写真って初めてだな」
「緊張するわね」
「まあな」
なにげに人目につく場所だし。お互いにぎこちない。
「おー、初々しいねえ。それじゃ、はいちーず!」
かしゃっ、とシャッターの音。
「これでどう?」
見せてもらった写真の中では、案の定俺たちはぎこちない。
まあでも、
「いいな。これで」
「ええ。気に入ったわ」
変に上手くやろうとしなくたっていい。これで終わるわけじゃないんだから。
一緒に同じ時間を過ごして、少しずつ上手になればいい。
「着替えてくるわね。すぐ行くから」
「おう。外で待ってる」
廊下に出ると、ちょうど左手から一輝と小日向がやってくる。
「昼休憩か?」
「つーこった。テツは今からデートか」
「デートか!」
「デートです」
肩をすくめて、冗談めかす。軽く茶化してくれると、こっちも助かる。
そういえば、小雪も小日向とは気まずい状態だったのではないだろうか。その話はしたことがないから、わからないけど――
「お待たせ。……あ」
やっぱり気まずかったか。露骨に固まってしまう小雪。だがすぐに、俺たちの間の空気を察したらしい。すっと俺の横に来て、なにがあったのか目で問いかけてくる。
「大丈夫だよ。もう」
俺から視線を離し、小雪は小日向のことを見つめる。
二人の間にどんな感情があるのかはわからない。責任は俺が負う。なんてのは自己満足で、俺にはどうしようもない話だってある。
ちらっと、一輝にアイコンタクト。それから、提案してみることにした。
「せっかくだし、みんなで昼ご飯食べに行かないか?」
「いんじゃね。俺はテツに賛成」
「私もそれがいいと思うわ」
「あたしも賛成!」
ちょっとは躊躇いがあるかと思ったけど、全然そんなことはなく。口々に言って、自然と歩き出す。
小日向が先頭で、一輝が続いて、歩き出そうとした小雪が振り返る。小さく頷いて、俺も着いていく。
なにも変わらないようでいて、大きく違っている。正しいか、正しくないかは誰にもわからない。
だけど、誇りを持っている。
最終章前半はここまでです。
いくぞ、次からが本当に最後だ。




