91話 嘘のない答えを その8
失恋は言葉にならない。
小日向ひまりにとって、その経験は簡単に割り切れることではなかった。
だからといって破滅的になるとか、阿月哲を憎むとか、氷雨小雪を憎んだわけではない。ただ、自分に問い続けた。
どうして、届かなかったんだろう。
心のどこかで、自分が負けることがわかっていた。手後れだと知っていて、それでも伝えようと決意して――なのに、いざ結果が出た後に問い続けてしまう。
あんなに完璧な笑顔で送り出したのに、次に会ったときは顔を合わせられなくなった。他の人にはいつも通りなのに、あの二人とは話す勇気が出ない。
なにか致命的なものが零れてしまいそうで、だから避け続けた。
ふとした拍子に、言ってしまいそうになる。
――ねえ、テツくん。どうしてあたしじゃダメなの?
――ねえ、小雪ちゃん。どうしてあなたは、そんなに可愛いの?
そんなことを聞いてしまいそうになる自分を、なにより憎んだ。
わかることは、ただ一つ。
阿月哲はもう、小日向ひまりの横にはいない。
せめてしゃんとしていよう。あの日送り出したように。せめて見た目だけは繕って。
大丈夫。自分は大丈夫。
もう一度振り向いてほしいなんて、そんな惨めなことは言いたくない。我が儘を言って、足を引っ張りたくない。
なのに。
たくさんのミスをして、皆の足を引っ張って、ぼろぼろになってしまった。その時に、どうしようもなくなって――やっぱり縋ってしまった。真っ先に助けを求めたくなった。
一輝と職員室に行って、たったそれだけの間に、教室の雰囲気は変わっていて。
その事実に、どうしようもなく心が荒んだ。
前までは哲の活躍に、誰よりもわくわくしていたのに。初めてやめてほしいと思った。
――あたしの前で、そんなに格好よくしないでよ。
何事もなかったように平然として、誰にもできないことをやってしまう。自覚はあるのだろうけど、そのことを顔には出さない。
そういう姿がどうしようもなく好きで、どうしようもなく耐え難かった。
目の前の作業に集中して、忙しさで紛らわせて、笑顔で心を隠して。一日目を乗り切った。二日目は? 同じだ。その後は? なにも変わらない。
いい加減、離れないといけない。まだ残ったこの心を、切り離さなければならない。
脳裏にちらつく横顔を捨てなければ、前には進めないのだから――
「小日向お前、なに怒ってんだ?」
片付けをして帰ろうと鞄を背負った。そのタイミングで、一輝に声を掛けられる。
「怒ってる? あたし、普通じゃん」
「普通……ねえ。鏡でも見ればいんじゃね? ものっすごい顔してるぞ」
一輝の言葉には、容赦がない。中学から一緒なのもあるが、恋愛についても相談していたから、距離が近いのだ。
「うるさい。一輝には関係ないじゃん」
「まあ関係ねーわな」
適当にひらりと流される。ムッとして、ひまりは教室を飛び出す。
だが、その先で見てしまう。窓の外。正門に向かって歩く、一組の男女を。
ぴたりと足が止まった。
「なに見てんだよ。やめとけやめとけ」
「……うるさい」
一輝は露骨にため息をついて、首を振る。
「奪いたいなら、奪えばいいじゃん。法律で禁じられてるわけじゃねえ」
「そんなこと考えてないし」
「だったら、どうしたいんだよ」
そんなの、決まっている。
「……忘れたいよ」
窓に手を当てて、視界の外へ消えた二人の影を追う。
忘れてしまいたい。好意も、記憶も、全部リセットして最初からやり直したい。最初から彼女がいるなら、恋なんかしない。また小雪とも仲良くやれる。なくしたものを、取り戻せる。
いや、本当はもっと、もっと全部――
「昨日、テツがなにやったか知ってるか?」
「……なに?」
「いや、俺もわからんから聞いたんだが。小日向も知らないか」
「どういうこと?」
「誰に聞いても『俺は小日向さんと――後、ついでに一輝のために働いてるだけだ』みたいなことしか言わなくてな。俺はついでだってよ。悲しいぜ」
言われてみれば、不自然だ。明らかに哲がなにかをしたのに、クラスの誰もそのことを口にしない。
「思うに、あいつは本当に単純なことしかしてないんだろうな」
それがなにか、まったく想像できなかった。
哲の取る手段は、いつだって遠回りで、単純なことなんてなかった。
「……なに?」
「『みんなで小日向を支えよう』って言ったんだろ」
ひどく簡単なことだったのに、理解するには時間がかかった。
理解したら、一気に感情が押し寄せてきた。感情は言葉にならず、涙になって右目から溢れる。
「……そんなの、」
胸が苦しかった。手を当てて、壁にもたれかかって、なんとか体を支える。
「そんなの、ずるいよ……!」
涙を拭くための手は残っていなくて、廊下に滴が落ちる。
いつもみたいにしていてほしかった。無理をして、裏側から糸を引くように立ち回ってほしかった。阿月哲の力で為したのだと言ってほしかった。
そうやって、小日向ひまりの無力さを証明してくれたら。そうすればきっと、嫌いになれた。
想いが届かなかった。
その時に、自分は否定されたのだと思った。そう思いたかった。
忘れるか、嫌うか、嫌われるか。その三つのどれかを選びたかった。本当はそうじゃないけれど。本当なんて、知ったことか。明日笑うためには、嘘が必要なのだ。嘘を吐かなければ、心が黒く汚れてしまう。こんなに汚い物を本当だと認めてしまうことが、怖い。
「テツは、別にお前が嫌いで振ったわけじゃない」
「わかってるよ!」
そんなことは、最初っからわかっているのだ。
きっと今だって、話しかければ応えてくれる。ひまりが頑張れば、昔のように笑える日だって、いつかやってくる。
そんなことは、言われなくとも知っている。
「わかってるけど……………………なら、…………あたしでも、いいじゃん」
言ってしまったら、止まらない。
「もっと……早く言ってたらよかったのかな、……もっとアピールすればよかったのかな…………もっと、もっとあたしが可愛かったら…………そしたら」
ずっと心の内側に閉じ込めて、見ないようにしていたことを。それを言ってしまえば、自分の醜さを認めてしまうから。そんな自分にはなりたくないから、押さえつけていた言葉を。
一輝は静かにそれを聞いていた。途中で壁に寄りかかって、腰を下ろして、廊下に足を伸ばす。
夕暮の校内には、もう誰も残っていない。
少女の嗚咽を受け止めて、小さく呟く。
「本気だったんだな」
「あたりまえじゃん」
「いや、当たり前ではねえよ。絶対に。当たり前なんかじゃない」
こんなにボロボロになるのが常識なら、世界から恋は激減するだろう。みんながどこかで諦めをつけて、計算して、手の届く範囲を探り合って、傷つかないようにしている。
失恋を経験して、そういう大人になっていく。
それでいいのだと一輝は思っている。曲げる気もない。
だけど真剣にやる人を、間違っているとは思わない。
「胸を張れよ小日向。
自信を持って怒れ。お前を選ばなかったテツに、ちゃんと怒れ。
思いっきり妬め。テツの隣にいて、幸せそうな氷雨を妬め。
悲しいなら、悲しいって泣きわめけ。誰かに聞いてほしけりゃ誰かに聞かせろ。俺はめんどくさいって顔に出すけど、出さない友達だってお前にはいるだろ。
そんでそれが終わったら、…………いい加減、仲直りしろ。お前がいないと退屈なんだよ。こっちは」
「…………うん。…………わかった」
少しだけ落ち着いて、ひまりは涙を拭く。弱々しい笑みは、いつもの彼女らしくはない。
ひまりだって、いつも笑えるわけじゃない。
「あーあ。あたしって、もっと綺麗だと思ってんだけどなあ」
「お前な、恋ってのはつまるところ性欲だろ? 綺麗なわけがねえ」
「なっ、なに言ってるの一輝!? 急に最低なんだけど!」
「バカめ。この俺がいい感じで話を終わらせると思ったか。それはテツの役目だ」
「そうやってすぐテツくんを頼るから、だめになってるんじゃないの?」
「だめ人間上等! 人として大事なところは、全部お前らに任せた」
「ほんっと最低だよね。…………あははははっ」
くだらなくて、笑ってしまった。
大して面白くもないのに、ずいぶん長い間笑って、笑って。久しぶりに気持ちよく笑った気がする。
そして清々しい気持ちで、ようやく彼女は認めるのだ。
「終わっちゃったんだ」
夢のような時間は、もう戻ってこない。
だけどそれで、すべてが失われたわけでもないのだ。
こうして文化祭の一日目は終わり、二日目がやってくる。




