82話 つつがなく日々は続き その2
九月の終わりの土曜日。
朝から俺は、せっせと部屋の片付けと掃除をしていた。元からある程度は綺麗にしているのだが、今日は特に入念に。掃除機の後にフローリングを雑巾で拭いて、洗濯物は畳んでクローゼットに収納。
換気して一度スッキリしてから、部屋が寒くないように軽く暖房をつける。とはいえ九月なので、温度は最低。すぐに切って、あとは最終確認。
「大丈夫だよな……」
口に出してしまうほど不安だし、緊張していた。そうすることで、どうにか心を落ち着かせる。
時刻は十時半。予定までは、まだ三〇分ある。間に合いはしたようだ。
あとは待つだけ……。
机の上にスマホを置いて腕を組み、日本の行く末を案じるような表情をしながら待機。
一人暮らしをしているがゆえに、発生する選択肢がある。
お家デート。
今日、親いないんだよね……。みたいな変なスリルを体験しなくていいこの環境。それだけに試される俺の理性。
なにもしない。なにもしないぞ……。
その時、スマホが震えた。
「――っ、早いな」
慌てて取ると、画面には【阿月凛】の三文字。
控えめに言ってキレそうになった。
なんでこいつ、こんなタイミングで……。まあなにか用事があるのだろう。くだらなかったら、即切る。
「もしもし」
「凛たんだよっ」
「じゃあな」
「待ってよ哲にぃ! まだなにも言ってない!」
「なにも言うことがなさそうだから……」
「あるある。ちゃんと話題なら用意してきたから!」
「デートの準備に必死なやつかよ」
「ええっと、今日は曇りだね。……ははっ、いいことありそう」
「棒読みの笑いがこえーよ。それどんな感情?」
「ラッキーアイテムはアヒルのくちばしです!」
「グロっ」
札幌と茨城では天気が違うだろ。というツッコミを入れる暇すらない。
ボケの絨毯爆撃。こいつ、ちょっと会ってない間により面倒臭くなってやがる。
「んで哲にぃ」
「本題の入り方が雑すぎだろ。ちゃんとオチをつけろ」
「ないものはない!」
「それ言えば許されると思うなよ?!」
我が妹はボケにステータスを全振りしているらしい。これじゃあ立派な芸人にはなれないな。お兄ちゃんちょっと安心したよ。
「小雪さんと付き合ってるんだよね」
「……どうせそんなことだろうとは思ったよ」
俺から言わなくとも、小雪から伝わったのだろう。そういえばあの二人、連絡取れるんだもんな。
だからこそ、俺からはなにも言わなかったってのもあるし。
「ねえ、哲にぃ」
「なんだよ」
「思い切って言っちゃっていい?」
「なにを?」
「けっこう立ち直るの早かったね!」
「言っていいことと悪いことがあるよなぁ!?」
俺もちょっと気にしてることを。
電話の向こうで凛はゲラゲラ笑っている。よっぽどツボに入ったらしく、苦しそうですらあった。
「あーすっきりした」
「俺はもやっとしてるよ。……言いたいことはそれだけか?」
「も一個だけ」
「なんだよ」
「私、お姉ちゃんが欲しいなぁ」
俺は電話を切った。
◇
チャイムの音がしたので、玄関のドアを開ける。
「どうぞどうぞ」
「どうしたの阿月くん? ひどく憔悴しているようだけど」
「ひどく憔悴しているんだよ」
「風邪?」
「いや、妹」
小雪は不思議そうな顔をするが、残念ながら冗談でもなんでもない。凛との会話で、とりあえず緊張するための体力はなくなった。
「凛ちゃんとなにかあったの?」
「さっき電話がきてさ。あいつのテンションに付き合ってたらな」
「阿月くんと話すのが嬉しかったのよ」
「兄離れしてくれと、切に願う」
自意識過剰とかでもなく、普通にブラコンだからなあいつ。なんなら自分で宣言するくらいだし。
部屋に入って、座布団に座るよう促す。一度来たことがあるからか、小雪は落ち着いたものだった。座って、上目遣いを向けてくる。
「でも、本当に離れたら寂しいんじゃない?」
「正論はやめてくれ」
「素直じゃないのね」
「これ以上甘やかすと、ほんとに凛がだめになるから」
立っているのも変だし、座ってベッドに背中を預ける。
「これ、お母さんから。阿月くんによろしくって」
「おおっ、……じゃ、じゃあありがたく」
渡されたのは、直方体の紙箱。包装の感じからして、ケーキか。ありがてえ……ありがてえけど緊張が戻ってきた。
「どうしたの?」
「いや、お母さんに知られてるのって、けっこうなプレッシャーだから」
「そうなの?」
「そうなんだよ。男ってのは複雑なもんで」
「阿月くんが複雑なだけだと思うけれど」
「ぐうの音もでないな」
黙って来てくれとも言ってないし。言うつもりもないのだが。
反対されなかったことを喜ぶべきなのだろう。認めてもらえている。任せてもらえている。大切な娘を。
「それで、お昼ご飯を作らせてもらえる?」
「お願いします」
今日の目的がそれなのだ。
手料理を振る舞って、俺の胃袋を掴みたいのだと。
「私の料理なしで生きていけない。と思わせるのが目標よ」
と言っていた。ド直球のプロポーズで、あの奥ゆかしい告白がなんだったかわからなくなった。ほんとに同一人物か?
「冷蔵庫にいろいろあるはずだけど、足りなかったら教えてくれ」
「普段から自炊しているの?」
「まあな。適当に」
きゅっと口を閉じた小雪が、まじまじと俺の顔を見つめてくる。
「……なに?」
「阿月くんの手料理」
「そんな大したもんじゃないけど。――今度作ろうか?」
聞いてみると、こくこく頷く。なにこの子可愛い。俺もちょっと頑張っちゃおうかな。
どんなものを作ろうか。考える俺の前で、小雪が動き出す。食材を並べて、てきぱきと。手伝いをしたいとは思うが、一人暮らしのキッチンはやはり一人用なのだ。邪魔にしかならない。
手を洗ってエプロンを着け、髪を後ろに結ぶ。
なんかいいなこれ。なんかいいとしか出てこない。語彙力は死んだ。
トントントンと響く包丁の音。静かで、一定で、小気味よい。そこに至るまで、どれだけの時間がかかったのだろう。
真剣な横顔。ちらっと、小雪がこっちを向いて微笑む。
「どうかしたの?」
「どうもしてないよ」
「そう」
切った食材をフライパンに入れて、火を掛ける。
その姿に、掛けたい言葉があって。けれど今は飲み込んだ。
物事には順序があって、ふさわしいタイミングがあって、それで初めて意味を為す。
だから、いつか伝える。
いつかはきっと、やってくる。




