80話 スローペース
帰宅部同士で付き合うと下校時間が一緒だし、放課後にかなり余裕がある。そのまま帰るのはもったいないし、駅の近くにある図書館に寄ることにした。
平日の夕方、閑散とした館内の一角に座る。
提案したのは小雪からだ。読みたい本があるらしく、「阿月くんも隣でどう?」とのことだったので、二つ返事で了承した。
正直、集中できる気はちっともしないのだが。
ソファに座って、俺はいつも通りミステリーを。小雪は小雪で、ハードカバーの本を持ってきて読み始めた。なんの本か聞くよりも早く集中し始めたので、俺も文字に目を落とす。
何ページかめくるものの、難解なミステリーがこの状況で頭に入ってくるはずもない。隣からページをめくる音がするたび、意識が途切れる、ちらっと視線を向ければ、長いまつげ、真剣な目、紙の上に置かれた小さな手。
小雪って、ほんとに可愛いんだよな。
今更ながらそんなことを思う。本当に今更だ。学校で一番と言われ、違う学年まで顔の知れ渡った有名人。知らない方がおかしい。
きっとこれから、大学にいって、社会に出ても。小雪はその中でトップクラスの外見をしているのだろう。性格も、少々癖はあるがそれは面白い部分でもある。
俺の彼女は、ずっと男からアタックされる。その中には俺より顔がよく、背が高く、性格がいいやつもいるだろう。
小雪はきっと、流されない。これからも俺が俺である限り、誘いを断り続けてくれるだろう。
その信頼に、甘えたくない。
頑張りたい。
かつて俺を空っぽにしたのも努力の果てだが、それでも、努力しなければ俺はここにはいなかった。
……なんていっても、なにを頑張ればいいやら。
考えていると、右腕が温かい。見ると、途中で力尽きた小雪がもたれかかって目を閉じていた。
「安心した顔しやがって」
警戒心のまるでない寝顔。これが男嫌いとは、にわかに信じられない。
それだけ信じられていると思えば、嬉しいは嬉しいのだが――
俺は、彼女の父親の優しかった頃に似ている。
最初から俺にだけ警戒心のハードルが低かったのも、その影響があるのだろうか。あるとすれば、少し、心がざらつく。
小雪は自分の父親を、どう思っているのだろう。
俺になにができる?
……やめよう。考えたってキリがない。
「小雪、朝だぞ」
軽く肩を揺する。
あんまり無防備な寝顔を晒させるわけにもいかない。図書館に人は少ないとはいえ。
「ん……おはようございます」
「おはようございます」
若干の申し訳なさをにじませながら、目を擦る小雪。
「そろそろ帰るか」
こくんと頷いて、小雪は立ち上がる。
「借りてくるから、少し待ってて」
◇
「それ、どんな本?」
小雪が借りた本を指さして、聞いてみる。
「特殊相対性理論の本よ」
「『さよならまでそばにいて』ってタイトルでその内容だったら詐欺だろ」
「恋愛小説の傑作らしいわ」
「まあ、だよな。話は?」
「……これって、いつ恋人になるのかしら」
「恋愛小説って、ものにもよるけど付き合って終わりとかが多いぞ。その後はあんまり書かれない」
「そんな……」
「もしかして、俺との関係性みたいなのに悩んでる?」
「鋭いわね」
「さすがに気づくだろ」
本を読みたいと言い出したあたりから、薄々察してはいた。恋人との関係性。そこでネットニュースとかに流れないあたり、小雪らしい。
「悩むよなぁ」
俺が悩むときは、同じように小雪も悩んでいる。逆も然りだ。
「阿月くんは恋愛の達人じゃないの?」
「痛烈な皮肉か?」
けっこう効く。
「そうじゃないわ。最近もずっと普通だったから、慣れてると思っただけよ」
「慣れてない慣れてない」
「本当?」
「うん。普通にしよう、自然でいようって意識して、やっとこれだ」
焦って前に進めたくはない。大事にすることと、俺が臆病になることは意味が違う。その上で、やっぱり俺は、ゆっくり進みたい。
小雪は安心したように、目を細める。
「そう。てっきり、私だけが焦っているのかと思ったわ」
「言わなきゃわかんないよな。ごめん」
「お互い様でしょう?」
「だな」
悩みを共有することが、解決に繋がるとは思わない。
ただ、悩んでいることをお互いが知っていれば、寄り添い合うことはできる。
「急いでいろいろするのは違うと、俺は思う。でも、まあ、せっかくだし。手を繋ぐってのはどうだろうか?」
「ふふっ」
「な、なんで笑うんだよ!」
「だって、阿月くん緊張しすぎよ」
散々笑って、少し涙が出てきたらしい。目尻を拭いてから、小雪が手を差し伸べてくる。
握ったその手が冷たいから、今度は俺が笑ってしまう。
俺が緊張するときは、まあ、そういうことだ。




