78話 君に届きますように その3
十個入りのタコ焼きを買って、爪楊枝を二本付けてもらう。
「とりあえず、こんなもんでいいか」
ある程度買っておいて、花火の場所で食べようということになった。手に持ったレジ袋には、焼き鳥が入っている。
でもって、氷雨の手にはリンゴ飴も二人分。隣の屋台で買ってきものだ。
「阿月くん、リンゴ飴って美味しいの?」
「買ってみたらいいんじゃないか?」
と、言ったら律儀に二本。
別に俺はいらなかったんだけど。……まあ、いいか。たまにはね。
「どうぞ」
「ありがとな」
受け取って、右手に持つ。
屋台の明かりに照らされて、宝石のように輝く朱。
「そろそろ行くか」
「そうね」
歩き出そうとしたら、後ろをちらっと見る氷雨に気がついた。
「どうかしたか?」
「いえ。ちょっと、かき氷で思い出しただけよ」
「ああ。かき氷な」
かき氷を食べに行こうとした。そこからハプニングが続いて、わりと大変で。でも、楽しい時間があった。
あの日からだったと思う。氷雨と一緒にいて、楽しいことが増えたのは。
リンゴ飴の上についた、平らな面を前歯で割る。パキッと割れて、味はただの砂糖だけど、リンゴの甘い匂い。
「どうだ?」
「美味しい……と、思うわ」
「その困惑はよくわかる」
見た目がいいし、匂いもいいから美味しいと思う。けど、味、味……基本的に砂糖が強くて、中のリンゴは弱いので、いまいち判断しかねるのだ。
けれど、たまーに無性に食べたくなるから、不思議なもんだ。
「満足はしてるから」
「ならよかった」
この雰囲気も含めてトータルで考えれば、これ以上適した食べ物もないだろう。
恐る恐る、小さな口でリンゴ飴をかじる氷雨。目が合うと、氷雨はおかしそうに笑った。
「俺の顔、なんかついてる?」
聞いてみると、氷雨は首を横に振る。
「いえ。ただ、懐かしいと思っ――」
「懐かしい?」
「なんでもないわ」
慌てて訂正して、早足になる。焦った拍子につまずいて、体勢を崩す。
咄嗟に肩を掴んで引き寄せ、事なきを得る。
「――っと。なんだなんだ急に」
「……なんでもない」
なんでもないはずがない。直感が告げている。もし、この先に踏み込みたいのなら、俺には避けられないものがある。
肩を離すと、氷雨は歩き出した。やや俯いて首を振り、なにかを振り払うように見えた。
俺は、目を逸らしたくない。
「もし気遣ってるなら、心配すんな。ちゃんと聞くし、考えるから」
人の流れは花火の見える場所へ。俺たちは、流れから少し外れたところで立ち止まる。
真っ暗な空。まだ打ち上がらない花火。
逡巡の末、氷雨はちいさく頷いた。
「そうね。あなたは、そういう人よね」
「そうありたいと思ってる」
会場に音楽が流れ始めた。花火の打ち上げ準備が整い、いよいよというアナウンス。
ちらっと遠くを見て、氷雨は手を伸ばしてきた。白くて細い手の平は、空に向いている。
「……この話をするには、勇気がいるの」
「俺でよければ、いくらでも」
左手で掴んで、手を握って。横に並んで、人の流れに乗る。
たどり着いた原っぱにブルーシートを敷いて、座る。手は繋いだまま。
切り出すタイミングは、完全に任せていた。俺は待つ。待つのは好きだ。
音楽に合わせて、最初の一発が打ち上がった。甲高い音を立てて打ち上がった火薬が爆ぜ、暗いキャンパスに金のカーテンを描く。
歓声が上がって、曲はテンポを増して――その中で、ぽつりと彼女が呟く。
「阿月くんといると、時々、思い出すの」
氷雨の声は透き通っていて、小さくてもよく通る。もしかすると、俺の耳が彼女の声をちゃんと拾うように働いているからかもしれない。
どんな雑音の中でも、聞き逃さないよう。空を見上げたままで、意識を割く。
君がくれる想いを、ちゃんと受け取れるように。
「優しかった頃の父親は、あなたのような人だったわ」
握っていた手から、力が抜ける。離れそうになったのを、ほんの少しの力で引き寄せる。
大丈夫だよ。
口角を持ち上げて、笑ってみせる。強がりじゃない。
牡丹の花火が上がる。赤い輝きが、空に吸い込まれていく。
「私がさっきしようとしたお願いはね、『変わらないでいて』ってことなのよ」
「変わらない――か」
氷雨の父親は変わってしまった。
温泉に行ったのも、夏祭りに行ったのも、父親が父親であった頃なのだろう。
ずっと昔の記憶には、優しかった頃の記憶があって、だから彼女は知っている。人は変わるのだと。変わってしまえるのだと。
「ごめんなさい。阿月くんがそうじゃないのは、わかっているのだけど」
「ちゃんとわかってるから、心配すんなって」
「うん。……ありがとう」
鼻声になって、俯く。握った手に力がこもったので、同じように握り返す。
悪人が最初から悪人だったら、どれだけよかっただろう。
だけど彼女の父親は、結婚して、働いて、家族を支えていた。そういう生活をしていたこともあるのだ。
擁護するつもりはない。それでも、その事実は確たるものとしてそこにある。
恋人になったら、家族になったら、いつかこの男は自分を傷つけるんじゃないか。
その恐怖が、男嫌いを作ったならば。
今から俺がすることは、最適とは言えないのだろう。
それでも告げよう。
他の誰でもない、俺の言葉で、俺の責任で。ふらついたり、引きずったり、不甲斐ない俺だけど。
この決意が、覚悟が、大切だと想う気持ちが。
ちゃんと君に届きますように。
「顔、上げられるか?」
持ち上げた瞳は赤くなって、潤んでいた。
目が合って、瞬きをする彼女はどこか不思議そうだ。俺はどんな表情をしているのだろう。わからないけど、言いたいことは、流れるように出てきた。
「氷雨小雪さん。俺は、君が好きだ」
花火と花火の間の空白。刹那の静寂に想いを告げて、次の瞬間にドン!と爆音。まばゆいほどの光が世界を満たす。
なのに、見つめているのは空じゃなくて、隣の彼女だった。
「好きって――人として、じゃ、ないわよね?」
言葉に詰まりながら首を傾げるので、俺は頷く。
「人としても好きだけど、それだけじゃない。恋人になりたいと思ってる」
「こいびと……になったら、どうなるの?」
「どうなるんだろうな。詳しいことは、俺にもわからない――けど、」
大した変化はないのかもしれない。俺たちは今みたいに一緒にいて、結局、お互いが何者でもなかった頃と同じように振る舞うかもしれない。
それでも、意味があるとするなら。
「来年もその先も一緒にいられる。環境が変わっても、一緒にいられる理由になる」
迷わずに誘えるようになりたい。手を伸ばされなくとも、繋げるようになりたい。泣きそうなとき、抱きしめられるようになりたい。嬉しいことも真っ先に伝えて、冗談交じりに笑い合いたい。
「変わらないために、変わりたいんだ」
関係は人を縛る。
だけど、その先にいるのが信頼できる人なら、それは鎖ではない。糸のように柔らかく、自在なものになる。
そのことを、いろんな人が教えてくれた。だから知ってほしい。
裏切りだけが友達ではないと。
変化の結果が、悪いものだけではないと。
返答を待っている間に、三発の花火が上がった。だけど、それほど長くは感じなかった。
真っ直ぐに見つめてくる氷雨の目が、ふっと柔らかくなる。
「月が綺麗ね」
「月? 花火じゃなくて――」
夜空に視線を向ける。
不意打ちのように、頬に柔らかい感触。一瞬、触れるだけ。
視線を下げる。氷雨はしたり顔で、恥ずかしそうに微笑んでいる。
「綺麗だった?」
呆れたような笑いが漏れた。あまりに素直じゃない。だけど、彼女らしい。
「ああ、そうだな。すごく綺麗だった」
これ以上なにかを言うのは、無粋というものだろう。
見上げた空に、最後の花火が打ち上がる。
こうして、夏が終わった。




