68話
『この手紙を、どんな気持ちでお前が開いているのか、先生は知らない。
だから、破り捨ててもいい。焼いても構わない。そういう前提であることは、先に言っておこうと思う。
単刀直入に言う。
お前が学校を離れてから、三月の卒業までにクラスの状況はほぼ回復した。
不登校だった三人も学校に戻れたし、高校にも進学した。ギスギスした空気は残っていたが、生徒同士の会話も普通にできるようになった。
一クラス、約四十名。壊せたと思ったか?
残念だったな。お前に壊せるものくらい、時間と人手があればまた治せるんだ。
思い上がるな。自惚れるな。
中学三年の阿月哲なんて、その程度の存在だ。それが子供だ。取り返しのつかない間違いすらできないから、子供なんだ。
だからな。お前が背負わなきゃいけない罪なんて、この世界には一つもない。
そんな暇があったら……まあ、それが見つかったから、この手紙を読んでるんだよな。
菱崎先生なら、そのタイミングで渡すんだろうから。これ以上、俺から言うことはなし。
元気でやれよ。それじゃ。』
手紙を折りたたんで、封筒に戻す。
これはどうしようか。読み返すようなものではない。だけど、捨ててしまうのも気が引ける。とりあえず、持ち帰るか。
顔を上げると、綺麗に並んだ四十の机。教壇から見下ろしてみる景色は、あの日よりも穏やかだ。
俺がいなくなった後、中学の教室も、こんなふうに戻れたのだろうか。
当時の俺が聞いたら、どう思ったろう。きっと許せなかった。だけど今は、なんというか。そうだ。正直に言えば、どうでもいい。
どうでもよくなった。
俺はもう、昔のメンバーと関わることはない。彼らのその後を考える理由も、意味もなくなった。ただ、そのことが軽い。
「――んで、なに隠れてんだ。一輝」
「おっ、バレてたか」
特に悪びれることもなく、教室に入ってくる。部活終わりらしく、ジャージ姿だ。
「忘れ物か?」
「んにゃ。ちらっとテツが見えたからな」
「他の部員は?」
「先に帰った」
「ハブられたのかよ」
「監督に怒られてたんだよ」
へっ、と吐き捨てて、笑ってるんだか怒ってるんだか。よくわからない表情をする。
「お前だけ?」
「俺だけ。副部長だし」
「大変だな」
「ま、そのへん背負うのも役目なんだろうな。運動部のトップなんて、監督のヘイトを集める盾役なんだよ」
言っていることはわかるけど、当事者が自覚することじゃない。
でも、そのへんを割り切って受け流せるから、こいつは頼れるんだろう。固まってないし、脆くない。それをやるのは、難しいことだと思う。
「それより、飯食いいこーぜ。たまにはサシで」
どうして一輝が、俺を信頼してくれるのか。ここまで関わってくれる理由が、俺にはわからない。だけど、それもわかっていきたい。
相棒と呼んでくれる相手なんて、他にはいないのだから。
「……あのさ、ついでなんだけど」
「おうおう」
「バッティングセンター行かないか?」
◇
100円を入れると、機械のランプが点灯。アームがゆっくりと動き始め、ガコァン! と、ぶっ壊れてしまいそうな音を立ててゴムボールを発射する。直後、ボスンとクッションに当たる。
「ひゃ~、はえぇ」
「そりゃ140キロだからな」
空振りした一輝は、後悔をぶつぶつ口にしながら、また構える。ボスン! 遅れて空振る。
「140って、こんなに早いのかよ。てっきり遅いのかと……」
「プロの世界ではっていう話だからな。高校までなら普通に強豪の速さだから」
「プロすげー」
言いながらも、コツンと合うようにはなってきた。元々の運動神経がいいのだろう。
前には飛ばなかったが、十五球終わる頃にはファールを打てるようになっていた。
外に出てきて、苦笑いする一輝。
「これより速くて、変化球ありとか……やべえな、野球」
「やべえだろ」
「テツは何キロ?」
「130にする」
「おいおい野球部チキってんのか?」
「挑発には乗らないぞ」
130でも十分速いんだよ。
打席に入って、バットを軽く手に馴染ませて、百円を入れる。
「やっちゃってくださいよテツ先輩」
「黙ってろ」
呼吸を整え、全身の力を抜く。
俺は優れた選手ではなかった。センスで力強く振り抜いて、ホームランを打つ。みたいなことはできない。
だから集中する。
静かに。淡々とタイミングを計り、振る。
真っ直ぐに来たボールを、真っ直ぐ弾き返す。低い弾道で、投手の頭を越えていくように。
「おぉ……やるやん」
「まーな」
華やかなプレーはいらない。俺にとっての格好いいは、そうではないから。
◇
満足するまで打ち続けた結果、手が真っ赤になった。皮が破れるまではいっていないけど、けっこう痛い。
「おぁぁ、いってえ」
険しい顔で、手をパタパタする一輝。
「テツは平気なのかよ」
「痛いけど、このくらいなら」
「ドMめ」
「慣れだよ。人聞きの悪いことを言うな」
外の自販機でスポドリを買って、一気に流し込む。
青い空には、雲がまばらに散っている。厚みのある雲は、夏の景色特有で気持ちがいい。
まだ響く蝉の音は、札幌の街には響かない。
「俺さ、北海道から来たんだ」
「急にどうした?」
「俺の中学がどこかわからないって、前に言ってただろ?」
「まあ、な。高校に知り合いがいないっつーのは、珍しいとは思ってた」
「札幌だからな。出身が」
「へぇ。親の転勤?」
「いや、一人暮らし」
ふうん。と、空になったペットボトルをお手玉する一輝。
「やっぱ、いろいろあんだな」
「もう解決した」
「……お盆休みか?」
「察しが良すぎる」
帰省のタイミングがそこしかないから、自然な考えではあるのだろうけど。
にしても、ドンピシャで当てるなよ。
「テツが一人暮らしか……んじゃ、今度泊まりに行くぞ」
「ああ。来いよ」
ペットボトルをゴミ箱に放る。
「恋バナしよーぜ恋バナ」
「女子か」
「テツの好みとか、ぜんっぜん想像できないからなぁ。案外、ルリ先生とか?」
「アホかよ」
「年上との恋はきちーよなぁ」
「だから違うって。なにをどう取り違えたらそうなる」
「だって、夏休みなのにせっせと会いに行ってるじゃん」
「呼び出しだって。あの人は俺にとって恩人であって、そういう対象じゃない」
確かに傍から見れば、やってることはそうだ。でも、実際にはただの小間使いとか、暇つぶしでしかない。
「そういう一輝は、なんもないのかよ」
「サッカーが恋人だからなぁ。最近はそれどころじゃない」
上手く躱されて、話題はひらひらと宙を舞う。
一輝との会話が核心を捉えることはない。今まで通り、軽いジャブの打ち合いで。決定的な言葉は伏せてくれる。
信頼していないから言わないんじゃない。言わなくても察してくれるから、信頼できるのだ。
◇ ◆ ◇
このままでいいと思っていた。
女子の中では誰よりも側にいられるから。安心していたのだと思う。不安になることはなかった。
だけど。
「このままでいいのかよ」
お泊まり会の帰り道。一輝に言われた言葉が、消えなくて。
小日向ひまりは、メッセージを送る。
心地よく過ごしていた関係を、壊すために。
◇ ◆ ◇
『今度、二人で遊びに行かない?』
サブタイトルは思いつきませんでした。




