66話 始まり
夜が明けて、再び俺は森本珈琲へ向かう。
日を変えたのは、時間が遅かったし、頭を整理したかったから。
少し早めに到着して、お気に入りの席に座りコーヒーを頼む。やっぱり、落ち着くにはこれがいい。
あくびがでそうなくらい、平和な午後だ。木漏れ日のような照明の光を受けて、心を静める。
氷雨がやってきたのは、それからまもなく。
俺の前にやってくると、腰掛けてアイスティーを注文する。
「…………」
「…………」
切り出す言葉が見つからなくて、戸惑ってしまう。辛うじて「よ」と絞り出すが、よ、ってなんだよ。一文字のひらがなで意思疎通とか、コミュニケーション舐めすぎだろ。
「こんにちは」
「ありがとな、来てくれて」
氷雨が口を開いてくれて、ようやく調子を取り戻す。
どうやら、俺の頭はすでにパンクしかけているらしい。自覚して、コーヒーを傾ける。苦味が冷静さを取り戻すのに働いてくれる。
一息吐いて、確認する。
「話、してもいいんだよな?」
「どうぞ」
「じゃあ、ちょっと長くなるけど――」
頷いた氷雨に促されるまま、ゆっくり始めた。
長くなる、と前置きはしたが、実際に語ることなんてほとんどない。俺と花音の関係は、両片想いの一言で済むし。あとは事実が並ぶだけだ。
二年前に離ればなれになって、再会し、和解したこと。そしてそれまでに、俺が人を傷つけたこと。端的ではあるが、全部言った。
氷雨はその間ずっと黙っていて、終わるのと同時にカップを傾ける。
少しの沈黙を挟んで、一言。
「だから、阿月くんはそうなのね」
「俺が?」
「いつも一歩引くのは、自分のことを責めていたから。そうでしょう?」
「違いない」
今も少しは残っている。簡単には消えやしない。
自分が好きか嫌いか。問われれば、嫌いに傾く。だけど、それは逃げだと知った。
俺は自分が嫌いだ――なんて、簡単な言葉に収めたくない。
空になったカップ。賑やかな店内。窓の外、通りを抜ける赤い軽自動車。
「酷いことをするのは、あなただけじゃないわ」
重たい息を吐いて、氷雨は顔を上げる。
「私は、告白されたときに手加減ないって。有名でしょう?」
「有名っていうか――俺、現場にいたことあるし」
確かにあれはトラウマになるやつだ。もうちょっとマイルドにすれば、とあの時は思っていたけど。
「でも、男が苦手なら仕方がない部分はある」
潜在的に父親への苦手意識があって、それゆえの防御反応なら。それを知った上で、氷雨を責めることなどできない。
「それは私の理屈。相手に押しつけるのは、根本的に間違ってると――阿月くんと会ってからは、思うの。
私のことを好いてくれる誰かの、大切な気持ちを踏みにじった。その事実は変わらない。知らなかったのよ。告白をするのに、どれだけ勇気がいるか。今ならわかる」
カチャンと、陶器の音。店内のどこかで響いたものが、やけに鮮明に聞こえる。
言葉の隠し方を、感情の隠し方を、まだきっと彼女は知らない。
だからいつだって、真っ直ぐに伝わってきて。あまりに真っ直ぐで、目を背けたくなるし、逃げ出したし、振り払ったけれど。
ここに来るまでに、覚悟は決めた。
俺は逃げない。受け止める。目を背けないで、ここにいる。
「ありがとな」
その感謝は、なにに対してだろう。俺をフォローしてくれたことか、話を聞いてくれた、あるいはもっと別のことか。いいや、全部だ。全部に感謝している。
氷雨のおかげで、俺は自分の過ちに気がつけた。正しい想いを、花音に伝えられた。
「引きずってないって言ったら、嘘になるけどさ。もう大丈夫だ」
俺はいなくならないし、どうせ離れようとしても引っ張ってくれる人がいる。一輝も、小日向も、氷雨も。名取とエージも、そうかもしれない。ルリ先生は……どうだろうな。わからないけど。
一人じゃない。
当たり前だ。人は一人じゃ、間違えることすらできやしない。失敗したのは、隣に誰かがいたからだ。その事実は忘れないでいたい。
「なら、安心ね」
そう言って微笑む氷雨は、いつもと変わらないのに、何度も見てきたはずなのに。なにかが違っていた。
氷雨小雪は美少女である。
その意味を、やっと理解した気がする。ずっと見ないようにしていたものが見えた。
なるほどな。
一目惚れする男子が後を絶たないわけだ。
そんなふうに茶化さないと、やっていられない。
これから俺は、こんな感情からも目を逸らせないのか。綺麗なものを見た時に、可愛いと感じてしまった瞬間に、それをせき止めてくれるものはもうない。
もう一人にだって――小日向にだって、動揺するのだろう。友達だと言い張って、強固に閉じていた関係性。
大切なものが、二つある。
花音との恋が終わって、けれど終わるよりも前から育っていた感情だ。
気がつかないフリをして、逃げようとしたけれど。もうやめだ。
俺は、小日向ひまりが好きだ。
あの太陽みたいな笑顔に救われるし、一緒にいて楽しい。冗談も言い合えるし、彼女の力になりたいと思える。
俺は、氷雨小雪が好きだ。
目の前にいる彼女が笑ってくれると、素直に嬉しいと思う。彼女の真っ直ぐな目に見つめられると、逃げられなくて、心が荒れるけど。でも、その正しさが眩しい。
みんな好きだ。
大切なものは二つじゃない。
だけどきっと、この二つは永遠じゃない。
一輝やエージ、名取とは訳が違う。当然、花音とも。
選ぶなんて傲慢なことは言いたくない。それだけは、絶対に違う。彼女たちをそんなふうに、安く扱いたくない。
それってどうやればいいんだろうな。
もっと早く考えていれば――と思う。俺がもっと、素直な思春期を迎えていれば。
やめよう。考えてもキリがない。
言えることは一つ。
俺はこれから、人生で二度目の恋をする。
誠実さを繕うことが、なにより不誠実なことになる。
さあ、格好つけないラブコメの時間だ!




