65話 気まずい
お盆休みは、良くも悪くも退屈のまま終わった。親戚一同に会い、「哲はもう彼女いるんか? お?」などと酔っ払いに絡まれ、お墓参りを済ませ、気がつけば帰りの日になっていた。
新千歳空港からの便を降りて、バス、電車と乗り継ぐ。
家に着いた。とだけ連絡を入れると、すぐに返信があった。母さんと凛は、俺の一人暮らしにまだ不安があるらしい。
母さんはともかく、凛に不安がられるのは納得がいかない十七歳の夏。
荷物を片付けて、ベッドの上に倒れ込む。一年と少ししか暮らしていないこの場所が、妙に落ち着く。
しばらくぼーっとして、スマホを開いた。もう何度目かわからない。
メールボックスを確認する。
俺がメールをする相手なんて、もう、一人しかいない。
花音とはSNSのほうを交換したのだ。地味だけど、和解の印として。
だから。俺が待っているのは――
「来て、ないよな……」
スワイプしても、新規メールのない受信ボックス。
送信ボックスには、確かに送った証拠がある。
宛先は、氷雨小雪。
『札幌から戻ったら、話がしたい。言わなきゃいけないことが、いろいろあるから。
空いてる日があったら、教えてほしい。』
「なんだこの文章。……はぁ」
大きくため息を吐いて、立ち上がる。全部自分がまいた種だ。俺がどうこう言える立場ではなく、待つことしかできない。
なら、待てばいい。待つのは嫌いじゃない。
財布を掴んで、夕暮の街に出る。買い物ではなかった。スーパーに行くなら、エコバッグを引っかける。
ふらふらと散歩して、うだうだと時間をかけて、目的地にたどり着く。
なんとなく、来てしまった。
ここに来れば、なにかがわかる気がして。
いや。それは嘘だ。なにかがわかるなんて期待、俺はしていない。ただ懐かしくなって、気まぐれで足を向けただけ。
森本珈琲の控えめな看板を前に、心の中で言い訳を並べる。
そんなことをしたってなにか変わるでもない。息を吐いて、前に。
上品な扉に手を掛け、中に入る。カランコロンと静かなベルの音。夏休みの平日。夕暮の落ち着いた空気。アンティーク調の店内に、静かなジャズが流れている。
「一名様ですか?」
ホールスタッフが聞いてきて、「はい」と頷く。新しいアルバイトだろうか。
カウンターの奥に、マスターがいる。軽く会釈すると、覚えていてくれたらしい。手招きされる。いつもは座らないカウンター席。今日は座ってみてもいいかもしれない。椅子を引くと、「いえ、違いますよ」と諭された。
違う?
「お好きな席にどうぞ」
意味ありげに微笑んで、目線で示す。
窓際の、人目を感じにくいテーブル席。そこでコーヒーを飲みながら本を読むのは、好きな休日の過ごし方だった。
ぱらりと、聞こえるはずのない音がした。
ページをめくる、かすかな音。
息を呑んだ。驚いたからだ。まさか、ここでか。
なのに、同時にひどく納得していた。なるほど、ここでか。
彼女は俺に気がついていない。黙々と本を読んで――どこか退屈そうに文字列を眺めている。なにが面白いのだろう。と言いたげに。
「ご注文は?」
「アイスティーでお願いします」
恐る恐る近づいてみる。それでわかった。彼女が読んでいる本は、少し前に俺が見ていたものだ。
氷雨は興味がないはずの、ミステリー。
どうしてそれを読んでいるのか。考えれば、予想はつく。希望的観測みたいだけど、きっと正しい。
それは俺がアイスティーを頼んだのと、同じ理由だ。そうならいいと思う。
驚かさないよう、静かに声を掛ける。
「あの……」
長いまつげが持ち上がって、顔が上がり、瞳に俺が写る。
「あ、」
「えっと」
「あづ……阿月くんさん」
「さかなくんさんかよ」
ボケたのではなく、混乱しているらしい。氷雨はそのまま固まって、ぽとりと本が落ちる。テーブルの上。慌てて拾って、畳んで脇に。
「偶然ね」
「だな」
「…………」
「…………」
視線を外してしまうと、いたたまれない空気になる。気まずい。ただひたすらに、居心地が悪い。
とりあえず、どうしよう。
「座ってもいいか? 嫌じゃなければ」
「嫌じゃないわ」
「そっか。じゃあ、ありがたく」
座れば落ち着くかと思ったけど、そうでもなく。むしろ視線が同じになったことで、逃げられない感が増した。
そのタイミングで、アイスティーが運ばれてくる。グラスの中身に、やや驚いた様子の氷雨。
「たまにはな。コーヒーじゃないのも」
「そう」
「その本は、年間一冊の一冊?」
「最初の一冊よ。これで終わりではない……と、思いたい気もしていたわ」
「心折れてるじゃん」
小さく笑ってしまう。
「その本、見せてもらっていいか?」
「どうぞ」
受け取って改めて見れば、前に俺が言っていたものだ。
かなり重厚なミステリーで、後半に行くまで面白味を感じにくい構造になっている。
「面白いか?」
「正直に言ってもいいの?」
「それが答えだろ。いいよ。それは個人の感性だし、俺も初めて読んだときはつまらなかった」
「そうなの?」
「そうだぞ。読み始めて10ページで飽きて、一年ほったらかしにして、試しに読み直したら面白かった。だから今はお気に入りなんだ」
ありがとうと言って、本を返す。
「中には、何回読んでも面白くないのもある。読み切っても、大っ嫌いな本もある。本好きってのは別に、博愛のことじゃない。だから、正直でいいよ」
「……面白くないわ。でも、」
躊躇いがちに、氷雨は言う。
「阿月くんがなにを面白いと思ったのか、知りたかったのよ」
イタズラの弁明をする子供のように、口を尖らせて。
その様子がおかしくて、また笑ってしまう。「むぅ……」と、静かに怒る氷雨。
「『人間を情報として捉えたとき、死は停止ではなく、生と地続きの変化の過程に過ぎない』っていうセリフがあるんだけど、序盤に」
人を肉の塊ではなく、一つの情報の集合体として認識する。人は名前や国籍だけではなく、誰かの記憶によっても定義される。ゆえに、死とは終わりではない。誰かの記憶の中で、現実の中で情報は動き続け、掠れ、やがて消滅するまで生き続ける。
そういう意味の言葉だ。
発言者は有名な科学者で、その夜に殺される。被害者の一人。
「なんていえばいいのかな。別に、感動した! とかではないんだけど。そういう一文に、心を掴まれた。だから読めたんだ」
氷雨はじっと俺の話を聞いて、小さく頷く。
「ほんの少し、わかった気がする」
「そっか」
「まだ、読んでみるわ」
「うん。最後はちゃんと面白いから、いいと思う」
アイスティーの氷が溶けて、からんと鳴る。
気まずい空気は依然としてそこにあって、半透明のガラスを挟んだような心地がする。どのくらいの距離だっけ。俺たちは。どんなふうに話していたっけ。
探っているのは、俺だけじゃない。
当然だ。関係は、一方通行じゃないんだから。
「返信、できなくてごめんなさい」
「いいよ」
こうして会ってわかった。ただ拒絶されていたわけじゃない。
俺が手を振り払ってなお、彼女は手を伸ばしてくれている。
「凛に言われたことって――」
「私が聞いたのよ。私が、凛ちゃんに聞いたの」
凛からではないと、訂正が入る。俺の妹は、自主的にかき乱しはしなかったのだ。
氷雨が、自分で。
「花音のことか?」
「そうよ」
一つの躊躇いもなく、頷いた。さっきまでの困惑が嘘のように、真っ直ぐな目で。
アイスティーを一口。甘くない、すっきりした香りが鼻から抜ける。
「どこまで知ってる?」
「阿月くんが、まだ花音さんを好きなこと」
それを知っていて、そこまで聞いていて、それでもあの夜、氷雨は俺にああ言ったのか。
なんと言えばいいのだろう。
バカだと思った。俺の中に花音がいる限り、勝ち目なんてないのに。どうやったって、俺が過去を捨てられないと知っているのに。そこに手を伸ばすなんて。やっぱりバカだ。
だから、ありがとう。
どんな言葉よりもきっと、俺の感情を的確に表す。
店内の時計を確認する。午後五時。少しずつ空席が目立ってくる時間帯だ。
「明日、また会えるか?」
「どうして?」
「昔話を、聞いてくれたら嬉しい。俺が札幌からこっちに来た理由とか」
「わかったわ。場所はここでいい?」
「ああ。時間は合わせる」
「お昼の二時からはどうかしら」
「それで」
短いやり取りをして、俺は席を立った。氷雨は文庫本に手を伸ばして、少し悩んで、席を立つ。一緒に店を出て、そこで別れて家路についた。




