64話 空っぽの朝
深い、深い眠りに落ちていた。
ベッドに倒れて、そのまま意識が途切れて、朝日が昇るまでずっと眠っていた。
意識が覚醒してきて、胸の奥から抜け落ちたものを自覚する。それは執着であり、恋心であり、昨日まで抱え込んできた、俺の全てだった。
生まれ変わった。なんて大層なことを言うつもりはない。
ここにいるのは昨日と変わらない俺だ。髪の毛一本変わってやいない。
だけど軽くなった。
寂しさはまだ色濃く残ろうが、どこか清々しい。
そろそろ起きようかと、枕元のスマホを起動する。
いや、やっぱりもうちょっと寝ようかな……
「ていやーっ!」
朝っぱらから謎のテンションで突撃してくるのは、うちの妹しかいないわけだが。
「うるせぇぇぇ」
「大丈夫! 近所の人はなにも言ってこないから!」
「さては外道だなお前」
「いいから早く起きてよー」
「……なんか予定あったっけ?」
お盆休みに本格的に入り、父さんと母さんも仕事は休み。お墓参りに行く予定はあるが、それは午後からだし。まだ寝ててもいいはずだけど。
「昨日の話、まだ聞いてない」
「あー。うん。まあ、よかったぞ」
「功労者にその雑さは人間性を疑うよ!?」
「知りたいなら、花音から聞いてくれ」
「哲にぃから聞かなきゃ意味ないよ~」
物凄いパワーでベッドから引きずり降ろさんとする。抵抗むなしく、フローリングに横たわる俺。
「はい、立つ! 起きて朝ご飯食べて、アイスを奢りながら説明!」
「要求が増えてるんだが」
「それくらいの働きはしたつもりだけど」
「ぐっ……それはまあ、確かに」
「じゃあ、起きて」
「わかったよ。着替えるから、ほら、下で待ってろ」
「んー」
上機嫌な様子で部屋を出ていく。
クローゼットから適当に選んだ服を着て、諸々の身支度を調え、朝食を摂り、ショルダーバッグを提げて……。
なんか、軽いな。
気持ちのよい軽さではなかった。違和感のほうが強い。自分の一部がごっそり抜け落ちてしまったような、喪失感がある。
「まあ、こんなもんか」
呟いてみる。
言い聞かせるのではなく、確かめるように。
「哲にぃー、まだー?」
「外出てろ。もう行くから」
まだふわふわしているけど、いつか落ち着くときが来る。焦る必要はない。
スマホをポケットに突っ込んで、部屋を出た。
◇
「ひゃー、やっぱり夏はソフトクリームだね!」
バニラ味をぺろぺろ満喫しながら、凛は朗らかに笑う。その横で、俺は緑茶をちびちび飲む。
「哲にぃはアイスいらないの?」
「寝起きでスイーツが入るかよ」
「哲おじ」
「誰が中年だこいつ」
ぼんやりと川を眺めながら、並んで座る。休日ということもあって、河川敷には人がたくさんいる。
「昔よく、花音さんと三人で遊んだの覚えてる?」
「覚えてるよ。忘れるはずがない」
「そか」
眼下で駆け回る子供達は、ずっと昔は俺たちだった。
「花音の代わりはさ、どこにもいないよ。いないし、いらない」
「……そだね」
それをきっかけに、ぽつぽつと、昨日のことを話した。ところどころ省きはしたが、だいたいはそのままに。
凛は黙って聞いていた。アイスが食べ終わらないくらいの、短い間だったけれど。
話しが終わっても、黙ったまま。やけに遅いペースでアイスを食べている。
俺から、なにかを待っているように。
「あのさ、凛」
「なーに?」
言葉を選ぼうか。悩んだけれど、どうせ結果は変わらない。直球で問いかけてみる。
「お前、氷雨さんになんか言ったろ」
アイスに集中していた意識が、こっちに向く。怒られるのを覚悟したような、どこか不満そうな表情。
唇を尖らせて、
「言ったけど」
「それ、俺が知っても大丈夫なやつ?」
軽く聞くと、拍子抜けだったみたいで、小首を傾げる。
怒ってないよ、別に。
膝を抱えて、凛は首を横に振る。
「……わかんない」
「じゃあいいや」
立ち上がって、会話を終わりにする。それ以上確認したいことはなかった。
後は全部、向こうに戻ってからの話だ。
いくつもの言葉から、想いから目を逸らしてきた。言うべき言葉を飲み込んで、発された言葉に耳を塞いで、ここまで来てしまった。
まだ、間に合うだろうか。
どうなりたいか。どうありたいか。はっきりと口にできるほど、未来は固まっちゃいない。
だから考えたい。話をしたい。言葉で、時間で、知らなかったことを知るために。
もう二度と、すれ違わないように。
「そろそろ帰るぞ」
「ほーい」
残りのコーンを口に入れて、凛も立ち上がる。
思えば長いこと、心配をかけてきた。俺がいろいろ引きずってることも、花音が忘れられずにいたことも、両方を知っていたのは凛なのだ。
素直に労ってやれるほど、俺は素直じゃない。
だから代わりに一つ、約束をしよう。
「またいつか、三人で飯でも食いに行こうぜ」
「……絶対?」
「絶対」
「うん。行きたい」
札幌の街に蝉は鳴かない。
だからはっきりと、凛の声は響いた。
手を伸ばして、くしゃりと頭を撫でる。
これでシスコンと呼ばれるのなら、それもいいかなと、今は思う。




