62話 デート その3
夏休みということもあり、小樽は人で溢れかえっていた。日本人だけではない。外国人旅行客も多く見られる。
駅から出て、真っ直ぐに海まで続く下り坂。それに沿って多くの店が軒を連ね、活気に溢れている。
大きな道だ。人は多いが、窮屈さは感じない。俺たちは、ゆったりしたペースで歩き出す。サンダルは歩きにくいだろうから、歩幅を小さめにして。
「そうそう。小樽ってこうだよね」
「迷子になるなよ」
「大丈夫!」
自信満々に手を伸ばしてきて、再び俺の手を握ろうと――して、急に引っ込める。
「どうした?」
「な、なんでもないけど。暑いな~って」
引っ込めた手で、ぱたぱた頬を仰ぐ。確かに電車はクーラーが効いていたから、暑さは感じる。
「ふうん」
手汗が気になるのだろうか。
「別に、可愛い女の子は手汗なんかかかないけどね」
「……俺、なにも言ってないけど」
「目が言ってる!」
「理不尽だ……」
そんなに雄弁なのだろうか、俺の視線ってのは。
つーか、しれっと自分のこと可愛いって言ったな。やっぱり凛と似てるかもしれない。俺の幼なじみってことは、凛の幼なじみでもあるわけで。必然ではあるけれど。やっぱり、複雑ではあるな。
「黙ってればバレないなんて、甘いんだからね」
「言ってないのに決めつけるのは暴論だと思うけどな」
「でも、思ってたでしょ?」
「まあな」
「ふふっ。哲の考えてることなんて、赤子だってわかるんだから」
「俺のプライバシー緩すぎでは?」
全世界に向けて発信されてるじゃん。国営放送かよ、俺の頭ん中。
お母さんといっしょみたいなノリで俺の思考を読まないでほしい。
「わかるよ~。だって哲、中学のときいっつも私のこと見てたじゃん」
「うぐっ……」
喉の奥に変なのが引っかかった。
「あれでバレないと思ってたの? なんなら中一の頃から知ってたよ」
「ちょっ……お前、そのへんで……」
「他の女子も『阿月くんって絶対、花音のこと狙ってるよね。純情でカワイイよね!』って言ってたくらいだし」
「死ぬ……それはマジで、許して……」
黒歴史の中の黒歴史だ。心臓の奥の、臓器でもない場所が苦しい。
花音はにまにましている。こいつ、楽しんでやがる。こっちに反撃のカードがないのを知っているのだ。
「ヘタレ」
「うっ――」
とどめの一撃が強烈だった。
ああそうだよ。俺は中学一年からずっと花音が好きで、結局、告白もせずにずるずる生きていた。
どうして一歩踏み出せなかったのか。理由?
告白することが、恥ずかしかったからだ。以上! 解散!
あまりに幼かった諸々が、一気に蘇って刃となる。心の一番柔らかい部分にぶっ刺さってくるから、かなりしんどい。こういうのはあれだ。それこそ、アルコールと一緒に押し流すものなのだと思う。
飲酒経験はないけど。だとすれば、大人が酒を飲むのも納得できる。
「はぁ~~~~~」
気の抜けたため息が漏れる。
「ちょっとからかい過ぎちゃった?」
「ったく、俺じゃなきゃトラウマもんだぞ」
「大丈夫。哲以外にはやらないから」
「その特別はマジで嬉しくない」
けっこう効いたけど、リタイアするほどじゃない。かぶりを振って、また歩き出す。
今度は少しだけペースを上げて。
「ちょっ、ごめんって。哲! ごめん。謝るから! 微妙に置いてかないで!」
一メートル開くか開かないかの距離を保つと、花音が折れた。
「陰湿」
「なんのことだ?」
「最低。教室の隅っこで本読んで休みの日はゲームばっかりしてそう」
「ストーカーかよ」
「えっ、図星なの? かわいそう……またメールしてあげるね?」
「我ながらどうかとは思うけど、哀れまれるほど悲惨じゃねえよ!」
本気で心配そうな目をする花音。やめろ。そんな目で俺を見るな。
「部活くらいやればいいのに」
「なにやればいいか、わかんないんだよ」
「ギターとか格好いいと思うけど」
「音楽が苦手なの、知ってるだろ」
「そうだっけ?」
「そうなんだよ。実は合唱コンクールもほぼ口パク」
「うわっ。男子ちゃんと歌って案件」
「ちゃんとやっても無理なんだな、これが。声変わりと被ったときなんか、地獄だったぞ」
高い音も低い音もでない。声帯どうした?って状況がしばらく続いて、どうしようもなくなる。
一年の時はちゃんとやったけど、二年は無理だった。
「そっか。じゃあ、部活は最初っからやる気なかったんだね」
「まあな」
「退屈じゃないの?」
「退屈だけど、大変じゃない」
「そうなんだ」
目標がないことは、よくないことだという風潮がある。……みたいなことを言うと、今からこれを否定します。的な空気が漂うわけだが、しない。その通りだとは思う。目標はあったほうがいいし、それに向けて努力するのは素晴らしい。俺は、そういう人を知っているし、尊敬している。
だけど、無理矢理に見つけたものを、目標と呼びたくない。無理をするならないほうがマシ。とまでは言わないけど、一生懸命に探そうとも思わない。
「大学は?」
「ん?」
「どこに行こうとか、決まってる?」
「戻ってこいって、親からは言われてる。進学はする予定」
「じゃあ、札幌なんだ」
「受かったらだけどな。花音は?」
「都会に行きたいなーって。やっぱり、遊びたいじゃん」
「気をつけろよ。都会は危ないから」
「……うん」
少しだけつまらなそうに、唇を尖らせる。期待外れのような顔をする花音。
「――あのさ、」
喉元まで出かかった言葉があって、けれど違う。飲み込んだ。
ずっと言いたかったことがあるはずなんだ。けれど、それは花音に再会した瞬間に消えてしまった。
言いたかった言葉は、言いたくない言葉になった。
代わりに出てくるのは、違和感を纏ったものばかりで。慌てて他のなにかを探す。
「アイスでも食べないか? 暑いし」
「白恋アイス?」
「それ」
「うん。食べる!」
一転してキラキラした目になって、楽しそうにしてくれる。
このきらめきに触れるたび、唇から溢れそうになる「好きだ」という言葉。伸ばしたくなる手。抱きしめたい背中。
違う。
そうじゃないんだ。
そうじゃないことだけは、わかってる。
「ちょっと並ぶみたい。平気?」
「どこだって待つから平気。それに、大した列じゃない」
「ハスカップ味っていうのもあるみたい。気になる……っ」
「じゃあ、俺がそっち頼むよ」
「いいの?」
「いいよ。レモン牛乳味よりは期待できる」
「なにそれ?」
「栃木のご当地牛乳。かき氷のシロップしか知らないけど、けっこういけたぞ」
「ちゃ、チャレンジャーだ」
◇
アイスを食べて、大通りを少し逸れ、ガラス細工の店が並ぶ通りへ。
綺麗なもので溢れる店内は、カップルばかりで。花音はネックレスやブレスレットをつけて、俺に見せたりする。
「どう、似合ってる? それとも可愛い?」
「傲慢な二択だな」
「両方かー。じゃあしょうがないなぁ」
「なにも言ってないんだけど」
わりと図星だから、歯切れが悪くて。値段を見て二人でビビって。「お、大人ってすごいね」「これが働くってことか……」なんて言ったりして。
ランチは少し洒落たカフェに入って。ただ、混んでいたせいで並ぶことになり、店内でもゆっくりはできなかった。
「事前リサーチ不足だ。……申し訳ない」
「ゆっくりするのは別の場所でもできるよ。美味しかったから、満足」
「か、花音が今日初めて優しい」
「うっさい。私はいつだって優しい!」
「ダウト」
「なんだと~。じゃあ、今からずっと優しくするから」
「言ったな」
「言った!」
くだらないことでケラケラ笑い合った。
この時間が、永遠ならいいと思った。過去も未来もなく、今日が今日から始まって、今日のまま続けばいい。
そうだったら、こんなに苦しくはなかった。
腹の底をズタズタに切り裂くような痛みは、優しく脈打つ鼓動と共にあった。
抱え込んだ嘘は、本物の笑顔と共存していた。
俺は。
いったいどれだけの言葉を、想いを蔑ろにしてきたのだろう。気がつかないフリをして、傷つけたことを忘れようとして。今も、見たくはない自分から逃げようとしている。
だけどもう、無視できないから。
花音が笑うたび、胸が疼く。
もうわかっている。
この感情が恋なら、とっくの昔に終わっていたこと。
俺が抱えているのは、たった一つ。
たった一つの、あまりに愚かしい我が儘に違いない。それに気がついてしまったから、もう、縋れない。
胃がねじ切れそうだ。
俺は聖人じゃない。綺麗な生き物じゃない。当たり前なはずのその結論は、受け容れがたいことだけど。いい加減認めるのだ。
今を逃せば、きっともう、チャンスは巡ってこない。
「あのさ、花音。ずっと言いたかったことがあるんだ」
運河の見える、橋の上。
足を止めて、彼女の名前を呼ぶ。
少女は振り返って、なにかを察したように胸に手を当て、頷く。
息を吸った。風が吹いて、海の匂いだ。つんと鼻の奥にしみる。目頭が熱くなったのは、きっとそのせいだ。
「どうしてお前は、『助けて』って言ってくれなかったんだよ」
つまるところ、これは初恋の結末ではない。
初恋が朽ち果てた後の、憎しみのたどり着いた先。終わっても終わらなかった、残骸の物語。




