60話 デート その1
寝不足でも眠たくない日が、たまにある。
なにかの大会の日だったり、受験当日だったり。緊張するようなことがあると、疲れを自覚しないのだと思う。まさしく今日がそれだった。
実際に眠ったのは、朝の四時から七時までの三時間だが。体が辛いとは感じない。
落ち着かない、というのが正しいか。
シャワーを浴びて服を選んで、朝ご飯を準備して食べる。少しだけ早起きだったので、三人分用意。凛はどうせまだ寝ているので、後で自分でやればいい。
歯を磨いて、時間を潰すために自室へ戻る。
ベッドの上に凛が転がっていた。眠そうに目をむにゃむにゃ擦りながら、こっちを見つめてくる。
「おはよー」
「そろそろ身の危険を感じるレベルなんだが」
「ん?」
「寝ぼけんな」
鼻をつまんでやると、引っぺがされた。これでちょっとは目が覚めたか。
「およ。哲にぃが服を着てる」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ?」
いつから裸族設定がついたんだよ。
「てっきり服を決められずに大往生しているものかと」
「長生きはいいことだけども」
幽霊みたいな生き延び方だな。
「ってことは、服選びの手伝いに来てくれたのか」
「違うよ。男物の服とかよくわかんないし」
「違うのかよ。じゃあ戻れよ」
ちょっと感動したのがバカみたいだ。
「慌てて右往左往する哲にぃを眺めに来たんだよ」
「最低な趣味だな」
「でもなんにもないみたいなので、寝ます」
タオルケットを体にかけて、目を閉じる凛。
どかしてやろうかと思ったが、意思は固そう――というか、シンプルに眠そうだ。運んでいくのも面倒しなぁ……。
まあいいか。
いつも通り、許してしまうことにした。やれやれ。また俺の心が広くなってしまった。
回転椅子に座って、スマホをいじる。なにかを見るわけでも、ゲームをするわけでもなく。ただ時間を潰すだけだ。
そうやっているうちに、九時になる。
そろそろ家を出よう。ちょっと早いけど、やることもない。ショルダーバッグを提げて、財布とスマホを入れ、玄関に向かう。
ドアを開けると、花音が立っていた。
「あっ、おはよ」
ひらひらと手を振ってくる。スニーカーの踵を整えて、外に出た。
鍵を閉めて、向かい合う。
「集合は駅じゃなかったか?」
「早く起きちゃったから」
ぽりぽりと頬を掻いて、はにかむ。
花柄のカーディガンと、白いシャツ。すらりと伸びた足がまぶしいショートパンツ。靴はスニーカーではない。踵の高い、品のあるサンダル。
記憶にはない、オシャレな姿だった。似合ってるな。口にはしなかったけど、素直にそう思った。
「行こっか」
「だな」
「小樽、楽しみだね」
「おう」
「もしかして、緊張してる?」
「いや、別に」
「ほんとは?」
手を後ろに組んで、上目遣いの花音。
「…………ちょっと緊張してる」
二年の間に大人びた姿に。動揺している自分がいた。昨日も見たはずなのに、むしろ昨日会っているからこそ。こうやってデート用の服を着てきた花音に、心を動かされるのだろう。
口をへの字に曲げて頷くと、花音は挑戦的に笑む。
「手、繋ごうよ」
「手?」
差し出された右手。試されているのだろうか、俺は。
「いや?」
「嫌ではないけどさ……」
「今日はいいでしょ? それとも、彼女がいるんだっけ」
「いたら今日、ここにいない」
「知ってる。哲って浮気とか大っ嫌いだもんね」
「できる気もしないけどな」
考えるのもややこしい。左手を伸ばして、花音の手を掴む。
胸の奥に、静電気みたいな痛みが走る。静電気だから、無視するのは簡単だった。
今日の俺は、花音の理想でありたい。だから緊張を振り払う。
ほんの少し力を入れて、すぐ隣まで引き寄せる。肩が触れあうくらいの距離で、柔軟剤の甘い匂いが鼻をくすぐる。
「い、意外と男らしいじゃん……」
「これでいいんだろ?」
「いいけど……もうちょっと初々しい感じがよかったなぁ」
「羞恥心が死ぬから無理」
思い切ってやってるから耐えてるけど、冷静になったら終わる。
「いいじゃん! 減るもんじゃないでしょ!」
「精神力は有限なんだよ!」
「ええい、やり直し!」
ぱっと花音が手を解く。
それで、また手を差し出してくる。
「哲から誘って。じゃないと、手、繋いであげないから」
「ええ」
「ほら。早く、電車行っちゃうよ」
「めんどくせえ……っ」
ほら、ほら。と催促してくる花音。たとえ電車に乗り遅れても、俺にやらせようという意地を感じる。花音はそういうやつだ。俺にはワガママを言ってもいいと思っているところ、凜と似たものがある。
「あーもうわかった。ほら、行くぞ」
目を逸らして、顔を隠して、花音の手を掴む。
「さっきと同じじゃん」
「幼なじみに初々しさを求めるほうがおかしい」
「それもそっか。うん。じゃあ、許す」
軽快なステップで、花音が前に出て、俺の腕を引く。
「ほら、行こ行こ。電車に遅れちゃう」
「誰のせいで遅れたと思ってんだよ」
「哲のせい!」
「なんで自信満々なの!?」
けらけら笑う少女に連れられて、改札を抜け、電車に乗り込む。
あったかもしれない未来だ。夢見た時間だ。手に入らなかったものが、目の前にある。
楽しい。嬉しい。ドキドキする。それは懐かしい、恋の感覚だった。
他の事なんて見えなくなる、盲目の病。なのに、脳裏にちらつく言葉があった。
――どうしてあなたは、そんなに悲しそうなの?
笑うたびに蘇る。真っ直ぐになにかを訴えてくる、雄弁な瞳が。
きっと彼女は、誰よりも俺のことを理解していた。
阿月哲という虚構に、氷雨小雪だけは気がついていた。




