59話 阿月哲 その4
俺に告白をした翌日、新島花音はこの街から消えた。
そのことを知ったのは朝、親に言われたときだった。
「花音ちゃん、今日からいないね」
「え、……いないって、どういうこと?」
「転校よ。――哲、知らなかったの?」
なんのことを言っているのかわからなくて、頭が真っ白になった。
手に持っていたコップが震えた。
「母さん、もしかして俺をバカにしてる?」
「花音ちゃんから話すって聞いてたけど。……言われてなかったのね」
「いや、待ってよ。そんな冗談面白くないって。センスないからやめろよ」
「新島さんなら、引っ越したぞ」
朝のニュースを見ていた父さんが、静かな声で入ってくる。
「は?」
「昨日の日中に荷物をまとめて、夜に行ったらしい。元々は単身赴任だったらしいが――」
「いやいや、あのさ。二人揃ってなんなんだよ。花音がいない? そんなわけないだろ」
淡々と語る父さんと母さんに、気持ち悪さを感じた。胃の中が引っくり返ってきそうで、苛立って、テーブルを立つ。
「もう行くから」
そんなわけねえだろ、と心の中で吐き捨てて家を飛び出した。
昨日までいたんだ。急にいなくなるわけがない。俺はなにも聞いてないし、あいつはそんなこと言ってない。
適当に背負った鞄。初めて踵を踏み潰したローファー。ぐちゃぐちゃな気分で、住宅街を走った。
花音の家は、空っぽになっていた。
新島と書かれていた表札は、確かにあるはずのものは、なくなっていた。カーテンすらかかっていない。丸見えの室内が、端的に現実を示している。
それでも、心は受け容れないままで。
れはなにかの夢だと言い聞かせながら、学校へ向かった。机に座った。そこから、花音が来るはずの席を見つめていた。
妙に明るい雰囲気の教室が、鬱陶しかった。
始業の時間になった。
花音席は空っぽのままだった。
担任が入ってきた。担任は、数学教師で、一時間目は理科だから入る教室を間違っていると思った。そういうミスであってほしかった。
「新島さんは転校しました」
くすっ。
誰かのささやきが、やけにはっきり聞こえた。
◆
その日のことを、よく覚えていない。気がついたら一日が終わって、家に帰って、部屋に入って――
手に持っていた鞄を、全力で投げていた。ちゃんと締めていなかった鞄から、教科書が床に飛び散る。開けっぱなしの筆箱から、蓋をしなかったシャーペンの芯入れから、なにもかもが飛び散って広がっていく。
「なんの音?」
一階から母さんの声が聞こえて、だけどなにも返さなかった。誰の声も聞きたくなかった。これが現実だと思いたくなかった。
足音が近づいてきて、部屋のドアが開く。
「哲……」
「出ていってくれ」
声が震えた。内臓が焼けるような心地で、視界が定まらない。
母さんは部屋の入り口で黙ったまま、立っている。それが無性に苛立った。
「出てけよ!」
親に向かって怒鳴ったのは、その時が初めてだった。強烈な罪悪感に潰されそうで、けれど、撤回しようとは思わなかった。出ていってほしかった。一人になりたかった。叶うなら、永遠に。
「降りてきなさい。話があるから」
あまりに静かな母さんの言葉に、逆らえなかった。
俺が怒鳴り立てたところで、少しだって怖がりやしない。自分の浅はかさを、恥じた。
テーブルに座るのとほとんど同時に、凛も帰ってきた。
「凛も来なさい」
とぼとぼと歩いて、凛は俺の横に座った。
母さんが麦茶を三人分入れて、テーブルに並べる。手を伸ばす気にはならなかった。触れたら、床に投げ捨ててしまうだろうから。
母さんはしばらく黙って、天井を見つめたりして。それから、俺たちを見つめて言った。
「花音ちゃんはね、いじめられていたらしいの」
脳の奥で、なにかが切れた。
「誰が?」
機械みたいに素早く、淡々と口が動く。
「誰が花音に手を出した」
「わからない。母さんも、今日になって知ったから……」
「わかった。ちょっと学校行ってくる」
「待ちなさい。行ってどうするつもり」
「聞いて回る。教師全員、徹底的に」
「やめなさい」
「なんで――」
「やめなさい! それは先生の仕事だから、やめなさい」
なにも言い返せなかった。さっきまでは、絶対に行ってやると思っていたのに。ほんの数秒前までは、そうだったはずなのに。
母さんが泣いていたから、俺はなにも言えなくなった。
凛も泣いていた。声を殺して、鼻をすすりながら。
涙が出ないのは、俺だけだった。壊れたのかと思ったら、乾いた笑いがこぼれた。
この世界は地獄だ。
花音はなにも言わずいなくなる。花音をいじめていた奴らは、今日も平気で生きている。笑いながら、バカにしながら。俺はなにもできない。なにも気がつけない。告白されて、浮ついて、アホ面をしている間に全部が終わっていた。
地獄だ。
教師になにができる? 口で訴えても、取り合ってくれるかどうか。取り合ったところで、向こうの親が出てくる。人をいじめるようなやつの親って、どんな顔をしてるんだろうな。きっと平然とそれは嘘だとか、うちの子供はそんなことしないとか、言うんだろうな。そうに決まってる。クズだ。クズしかいない。性根が腐ってなきゃ、歪んでなきゃそんなことはしない。
そうだろ? どんな世界だってそうだ。アニメだって小説だって、クズは根っからクズで、救いようがなくて、だからあいつらは滅ぼされる。滅ぼしていい。
なのにこの世界は、そうじゃない。
この世界だけが、そうじゃない。
人を傷つけた方が得をする。傷つけ得だ。誰かを踏みつけて、笑いものにするのが上手いやつが人の上に立つ。ヒーローになれる。
荒れた部屋の真ん中で、意味もわからずに立っていた。本棚の中もぶちまけて、クローゼットも引っ張り出して、椅子もひっくり返した。なにをやっても、虚しかった。
「哲にぃ……」
ドアが開いて、凛が入ってくる。
涙の痕が残る顔は、弱々しくて。ふらふらと抱きついてくるのを、避けられなかった。
俺の腕の中で、凛はまた泣いた。何度も泣いた。声は枯れているのに、涙も流れていないのに、ずっと泣いていた。
悔しいと、何度も繰り返した。
その間ずっと、俺は考えていた。
凛が泣いてくれるから、彼女が怒ってくれるから、俺は冷静になれたんだと思う。酷く落ち着いた頭で、最悪の結論を導く。
「なあ、凛。これからお前の兄貴は、最悪の人間になるよ。お前にも、母さんと父さんにも迷惑をかける」
かがんで、背の低い妹と視線の高さを合わせる。
「俺はこれから、全部を壊す」
◆
花音が転校したのは、九月。
それから二ヶ月経った十一月。札幌の街に、雪が舞い始めた時期に。
三年二組は、学級崩壊を起こしていた。
受験を前にした、まさに追い込みの時期にこの惨状。学校側は全力で対応にあたり、事態を収束、あるいは隠蔽しようとする。
だが、追いつくわけがない。
教師陣が対応しようとする頃には、全部手遅れになっている。
コンコン、誰もいない教室の、教卓を叩く。コンコン。コンコン。
掃除もままならない教室は、誰がどう見ても殺伐としていた。誰かが剥がすからと、掲示物はすべて撤去。画鋲が危ないからと、ここからは持ち出された。置き勉をすると盗まれるから、教科書はすべて持ち帰り。机が近いと争いが起こるから、異様なほど距離を取って。
並んでいる机の数は、この二ヶ月で三つ減った。不登校になって、そのまま転校。あるいは三月まで学校に来ないことを決めた生徒だ。
その三人は、花音をいじめていたメンバーだった。
テニス部の先輩に告白された。
あの時点で、なにかがおかしかったのだ。三年生の俺たちは、普通なら先輩と接点がない。
花音に告白した先輩は、テニス部の別の女の彼氏だった。いわゆる浮気で、腹いせに花音が狙われた。
くだらない。
本当に、ゴミみたいな理由だ。
廊下から足音がする。慌てているのが、音だけでわかる。
ドアが開いた。担任がいた。まだ若い、二十代後半の新人。熱気があって、このクラスの問題にも真剣に取り組む――好感の持てる大人だった。
「こんにちは、先生」
「阿月……お前」
授業のとき、担任の使う教科書に挟んでおいたのだ。
『いじめの主犯です。放課後、教室に来てください』と。
「俺なんですけど、罰してもらっていいですかね」
誰かを蹴落として上に立つのがヒーローなら、俺は悪になろう。誰もを蹴落とし、自らも底辺で朽ちる泥として生きよう。
教壇から降り、教室を歩く。荒れ果てた場所を、見せつけるように。
「新島花音を覚えていますか?」
「…………」
「花音は、このクラスにいる元テニス部を中心とするメンバーからいじめを受けていました。転校の理由、先生も聞いてましたよね」
二ヶ月という時間が、俺を冷静にした。怒鳴ることはなく、むしろ余裕を持って話を進められる。
「始まりは、復讐でした。最初はわかりやすく加害してやろうと思ったんですけど、それじゃああいつらは反省しない。自分がしたことの重さに気がつかない。だから、人間関係を壊すことにしました」
「…………」
「受験って人生のビッグイベントですよね。みんな一生懸命だ。特に北海道って、内申点が大事なんですよね。だから、先生の前でいい子でなきゃいけない。必死に頑張るんですよ。必死にね。だから、自分がいじめなんてしたってバレちゃいけない。
でも、あいつらは図々しいんですよ。大勢で固まってれば、強いと思ってるんですかね。『証拠を出してみろ』とか言うんです。めんどくさいですよね。だから、手段を変えたんです」
こんなことを思いつく俺は、一体何色だ?
心の中で問う。どうでもいい。ただ、汚いものであることは確かだ。
「こう言いました。『お前は流されてやったんだよな。誰が中心だった?』って」
内心とは真逆の嘘をついて、寄り添うようなフリをして、暴き出した。
その全てを録音して、関わっていた七人ぶんを揃えて、ラインのグループに垂れ流した。
「あっという間に壊れました。不信感が芽生えれば、一気に他にも拡散する。いじめに加わっていたメンバーは皆から嫌われて、次の標的にされた。それが真実です」
受験期のストレスも相まって、収集がつかなくなった。
誰かを必死に傷つけて、自分を守ろうとする。そんなのばっかりだ。どいつもこいつも、醜くて仕方がない。
担任は俺の話を最後まで聞いた。黙ったまま、なにかを噛みしめるように。
そして、真っ直ぐな目で聞いてきた。
「満足したか?」
息が詰まるような問いだった。無意識のうちに、歯ぎしりをしてしまうほど。
「誰かを傷つけるようなやつって、おかしな人間だと思ってたんですよ。心のない化物みたいなやつだって――そう思ってたんです」
だから踏みつけてもいいと決めた。
きっとそうすれば、ざまぁみやがれと笑えると信じて。悔しそうに歪む顔が見たくて。
だけど、そうじゃなかった。
「みんな、普通のやつでした。花音を傷つけたやつも普通に傷ついて泣いて、学校に来なくなって。普通のやつがある日誰かを傷つけるようになって、人を追い込むんだなって。なんかバカバカしくなって。だからもう、いいんです」
「飽きたんだな、要するに」
否定できなかった。
散々好き勝手に散らかして、ガラクタだらけの周りを見て、飽きた。
頷くと、担任は大きくため息を吐いた。
「それで罰を――か。嫌なヤツだな、阿月。お前は性格が悪い」
「すみません」
「新島のことに気がつけなかったことは、俺たち教師だって後悔してる。だから、あんまりお前を責められないんだ。――わかるか?」
「はい」
「それから、お前のやったことは直接的な加害じゃない。証拠もない。やってないからな。手は出してないんだろ?」
「はい」
「だから、罰せない。教師として言えることは、ほら話をしてる暇があったら帰って勉強して寝ろ。以上だ」
「……でも、俺は――」
「罰がほしいんだろ」
「……はい」
破滅がほしかった。なにもかもがどうでもよくて、終わりにしてほしいと思った。
このまま高校に行けなくて、人生が真っ暗になってもいい。
「じゃあ、札幌から出ていけ」
なにかを決意したように、担任は告げた。
「…………札幌から?」
「茨城に知り合いがいる。向こうの高校に進学しなさい。手続きはこっちでやる。親との相談も行ってやる。出席日数は――ちょっと誤魔化せば足りるから、学校にももう来なくていい。それで、このクラスの生徒とは二度と関わるな」
重いのか軽いのか、それすらもわからなかった。
なにもかも突拍子なことで、けれど、妥当な気もした。
「わかったか?」
「……はい。わかりました」
そうやって、俺の中学生活は終わった。
◇
最悪の記憶と一緒に眠れるはずもなく、ベッドの上に座って天井を眺める。
あれは紛れもない罪だった。
だが、後悔に値することだろうか。今になってもわからない。
担任は言っていた。「正しくない。だが、間違っているとも言えないんだ」と。
教師としては正しくない発言なのだろう。けど、人としては信用できる言葉だと思う。
やり返してはならない。というのは道徳で、この国の法律だ。
けれど、復讐したいというのは、自然なものだ。そう思う。
悪いことをした。その事実は認めても、反省しようとは思えない。
自分を美化しているのだろうか。それもあるかもしれない。悲劇の役者を演じているのか。反吐が出る。
誰も信じられなかった時期があった。
学校に行かなくなって、高校に通い始めた時期。
だけど、信じたいと思ってしまった。
小日向ひまりと、佐藤一輝に出会って。俺の作った薄っぺらい壁は、いとも簡単に壊された。
人を傷つけたこの手で、また誰かの力になりたいと願ってしまった。
それは、醜いことだろうか。
なにを意図して、俺は札幌から追い出されたのだろう。
わからない。いつもそうだ。俺はなにもわからないでいる。
聞いてみたかった。
俺は、笑っていてもいいんですか?
ため息。まただ。さっきから何度ため息を吐いたか、というか、日常的にすぐため息。よくない癖がついている。
もう眠ろう。
そう思って横になって、外が明るくなるまで意識は覚醒していた。




