57話 阿月哲 その2
一階に降りると、既に夕食は終了ムードだった。リビングのソファに座って、親たちはアルコールに手を出している。
「おう、帰ったか哲」
顔が赤くなった父さんが手を挙げ、一緒に花音の両親も声を掛けてきた。軽く会釈して、「お久しぶりです」と挨拶。
立ち上がった母さんが、「お寿司残ってるけど、食べる?」と聞いてくる。
「もらうよ。お腹は空いてる」
「お味噌汁は?」
「ほしいけど、自分で温めるから」
「いいから、座ってなさい。花音ちゃんと話したいことがあるんでしょ」
「別に……」
少なくとも、この場所でしたい話なんて一つもない。
けれど母さんの圧は強く、ダイニングの椅子に座らざるを得ない。
先に腰掛けていた花音は、凛と楽しそうに話していた。俺は凛の隣に箸を置く。
「哲にぃ、爆睡だったね。起こしてもびくともしなかったよ」
「悪かったな」
「なのでいくらは全部食べちゃいました」
「いいよ。特別好きってわけじゃないから」
「哲は――穴子が好きだったよね」
探るように、花音が会話に入ってくる。
「ん。ああ、そうだよ」
その通りだ。俺は寿司なら、まず真っ先に穴子を食べる。正解だとわかると、花音は安心したふうに笑った。でも、表情はかなり固い。
人のことを言えた立場じゃないけどさ。
正直、寿司も味がよくわからない。舌にのっけて、その瞬間はわかるけど、胃に落ちたら忘れてしまう。
母さんがくれた味噌汁も、懐かしさに浸る余裕はなかった。
目の前に花音がいる。その事実が、どうしようもなく頭の中をかき乱す。
「うむむ……」
隣でなにやら唸っている凛。ちらっと見ると、やけに険しい表情。
「どうした」
「気まずい」
「はっきり言うなって」
「哲にぃが聞くから」
「にしてもだ。ちょっとは誤魔化せよ」
誰もが気がついていることを、わざわざ言葉にする必要はない。
「でも、気まずいものは気まずいんだよ。ね、花音さんもそうでしょ」
「しょうがないよ。二年ぶりだから」
「うむむ……。あれ、哲にぃはもうご飯終わり?」
「そうだな。ごちそうさま」
食器を持って、流しに置いておく。洗おうとしたら、また母さんに止められた。久しぶりに帰ってくると待遇が良すぎて、逆に落ち着かない。
「哲にぃ。凛ちゃんはアイスが食べたいです」
「はぁ?」
「ついでだし、お菓子と飲み物も買ってきてほしいです」
「自分で行けよ」
「これは花音さんと二人で行ってねっていう、妹ちゃんからの超絶ナイスパスでしょ!? なんでわかんないの鈍感!」
「わかりやす過ぎるんだよアホ!」
おりゃーっと掴みかかってきた凛を引っぺがす。邪魔だこの、マジで、マジで離れろ。こいつ……しがみつく力が昆虫レベルだ。びくともしねえ。
はっきりとした意思を持って、割り込んでくる声。
「行こうよ。哲」
「ほらほら、花音さんも言ってるじゃん」
ポーチバッグを手に取って、花音が立ち上がる。勝ち誇ったような表情で、凛は元の位置に戻った。
「お前……ほんとに後で覚えてろよ」
「甘いね。凛ちゃんはついに撃墜コンボを習得したのだ」
「まったく」
ムカついたのでほっぺたを軽くつねっておいた。やられる側は、ふにー、と楽しそうにしていたので、ストレス解消にはならなかった。
◇
「気を遣ってくれたみたいだね。凛ちゃん」
「にしても、もうちょっとやり方があるだろ」
夜八時。すっかり暗くなった住宅街を、俺たちは並んで歩く。
距離感はおぼつかなくて、離れたり近づいたりを繰り返す。どこにいても収まりが悪い。
昔と同じ場所を探すから、ズレて感じるのだろう。背が伸びた。視線が変わった。あの頃よりずっと、花音は小さく見える。同じような位置を探そうとしても、そんなものは存在しない。
「凛ちゃんはさ、わざとああやってるんだと思う」
「わざと? まさか」
「哲はわかってないなぁ」
呆れたような、どこか間延びしたトーン。いつも歯切れよく喋る花音の、まったりした、俺を諭すときの声。
なにもかも違うはずなのに、それでも、ああ。目の前にいるのは、花音なんだと思い知らされる。
「頭がいいんだよ。だから自分がバカっぽくして、空気を和らげてくれる」
「…………」
「ほら。凛ちゃんのおかげで、私たちは話せてるでしょ」
「そうだな」
ため息が漏れてしまう。凛にはそんなふうに育ってほしくなかった――というのは、俺のエゴなのだろう。
あいつは考えてくれている。だから、ありがたく従うべきなのだ。
「せっかくなんだし、寄り道しよ」
「どこに?」
「んー。適当な公園でいいんじゃないかな。立ち話もなんだし」
公園に行きたいと言われて、思い当たるのは一つしかなかった。
適当なところでいいと言ったのは、嘘だろう。
途中の自販機で飲み物を買った。俺はコーヒー、花音は水。
「哲、コーヒー飲めるようになったんだ」
「まあな」
「オトナッポイデスネー」
「おい棒読み」
蓋を開け、一口。
「美味しいの、それ? ずっと不思議なんだけど」
「美味いと思ったことはない」
「じゃあ、なんで飲むの?」
「好きだから」
「ふーん。よくわかんない。でも、いらなくなったんだね。砂糖とミルク」
ゆらゆら歩いて、花音は目的地の公園に入っていく。
真っ暗な中、街灯に照らされたブランコと滑り台。おまけのように設置されたベンチ。
なんの変哲もないただの公園だ。
だけど、ここは俺たちにとって特別な場所だ。
何も言わずに、花音はブランコに立った。膝丈のスカートなんて、まるで気にしないみたいに。
「見たら殺すから」
「気にするのかよ」
「そりゃ気にするでしょ。女子高生ブランド舐めんな」
「へいへい」
「だから、哲も乗ってよ。横なら、見えないでしょ」
アホかお前は。そうやって返そうとして、飲み込んだ。
花音の目は真剣だったから。
「ったく、なんでこんなこと……」
渋々、もう片方のブランコに座る。俺は漕がないで、隣できーこきーこと揺れる花音を眺める。
これじゃあまるで、焼き直しだ。
二年前。
花音が俺に告白した日も、同じだった。
校門の前で唐突に、「大事な話があるから来て」と頬を赤くして宣言。てっきりそこらへんの木の下とか、川沿いに行くのかと思っていたら、小さな公園で。
無言でブランコに乗った花音に合わせるように、俺もブランコに座って。
きーこきーこと、生ぬるい音を鳴らしていた。ずいぶん長い間、それを隣で聞いていた。
いよいよこれは告白じゃなくて、もっと別のなにかじゃないかと思った頃に、降りたのだ。
花音が降りて、俺も降りて、そして――
「好きだよ、哲」
と。
想いを告げられたのだ。
また告白されるのか? まさか。そんなはずがない。
花音には新しい居場所があって、そこでの出会いもある。当然のように、男が放っておかないだろう。魅力的だからな。そのことは、俺が一番よく知ってる。
だからあの時とは違う。
俺はもう、待たなくていい。
「長野はどうなんだ?」
「暑いよ。そっちは?」
当然のように答えが返ってきた。向こうから振る話題はなかったようだ。
「茨城も暑いぞ。蝉が鳴く」
「本州全部そうっぽいね」
「らしいな」
そうそう。と軽い相づちを花音が打って、一旦話が途切れる。
けれどその沈黙は、すぐに別の話で埋めた。
「マネージャー、やってるんだってな」
「野球部。ほんっとに大変なんだからね」
「メールで伝わってくる」
「キャッチボールの練習、今もしてるから」
「例のイケメン外野手と?」
「イケメン君、彼女いるけどね」
「ふーん。え? ああ、そうなんだ」
そういうのじゃないから、とやけに強く否定する花音。
別に、俺が勘違いしたってなにも起こらないだろ。
「なんでまた、ボールなんか投げようと思ったんだよ」
「甲子園、目指しちゃおっかなーって」
「なんて?」
「嘘嘘ジョーダン。なんとなく、なんとなくね。そーいう哲は、野球やってないの?」
「やめたよ。グローブもこっちに置きっぱなしだ」
「そっか。遊びでもやってないんだ……」
次第に遅くなる、隣のブランコ。
軽やかな靴の音を立てて、花音が降りる。合わせて俺も立ち上がる。
そろそろコンビニに行って、戻らないと。凛はいいとして、親がなにを言い出すかわからない。
「明日、空けてるよね?」
「おう。一日空いている」
メールをしていく中で、決めたのだ。
丸一日遊ぼう。
それで、全部終わりね。
提案してきたのは花音からだった。拒否する理由はなかったから、俺は賛成した。
「小樽行こうよ。せっかくだし」
「電車か?」
「うん。朝早く行って、夕方に帰ってくるやつ」
「わかった。そうするか」
十四年見てきたのと同じ笑顔で、花音は言った。
俺も軽く微笑んで、それから二人して、なにも言わなくなった。
本当に好きだったんだなと、忘れられなかったんだなと、当たり前のことを自覚する。
呪いとほとんど同じ強さで、俺は花音との記憶に縛られていた。
そしてそれは、おそらく花音も同じ。
強く繋がったこの関係は、きっともう、お互いにとって重荷でしかない。この先には持って行けないから、せめて最後は綺麗な形で。
俺が好きだった君のままで。
あるいは、君が好きだった俺のままで。
お別れをするのだ。今度こそ、はっきりと。
そういう一日にしよう。
浮ついた言葉はそぐわないけど、それでも。
最高のデートをしようと、心の中で誓った。
明日 阿月哲:過去回です。
心の準備を




