54話 氷雪の女王はもういない
伏見英二が、初めて氷雨小雪を見たのは四月。入学して間もない時期だった。
二年生に、とんでもない美人がいる。という噂があったのだ。ミーハーな英二は、当然のように食いついた。何人かの友人と、こっそりその先輩を見に行ったのだ。
二年四組の、奥の方。窓際の席に座った彼女こそがその人だと、一目でわかった。それほどまでに、隔絶した存在だった。
綺麗な人だと思った。表情を変えず、姿勢を正し、誰と交わるでもなく自分のテリトリーを守っている。きっと心が強い人なんだろう。自分なら昼休み、というか暇があれば誰かとつるんでしまう。一人では退屈だし、なんか寂しいし、惨めだと思ってしまう。
なのに、彼女からはそういった雰囲気がいっさい感じられなかった。
一人で十分。むしろ、他の誰かが加わればその可憐さは損なわれてしまう――そんなふうに、感じた。
だから。
だからきっと、それは恋ではなかった。
多くの男子生徒がそうするように、氷雨小雪という存在は観賞用に過ぎず、告白して玉砕した同胞を「馬鹿だなぁ」と笑い慰める。
玉砕した彼らも、きっと恋ではなかった。
憧れと恋情はどこまでも似ているが、同義ではない。
勝算もなく挑めるのなら――フラれるとわかっていて踏み出せるのなら、その程度の感情。人生という経験に一つバツをつけるだけの、いわゆる負けイベントを消化するに過ぎない。
恋とは恐れる心だ。
英二は、今更ながら知った。
自分には、それが欠けていることを。
◇
「氷雨先輩は、怖いの大丈夫なんですか?」
「ものによるわね。でも、幽霊なら大丈夫よ。実害はないもの」
「実害……」
「痴漢暴漢悪代官に比べれば、たいしたことないわ。塩で倒せるもの」
「ナメクジと同じ扱いなんすね。あと悪代官て」
ちょっとしたところでボケてくれる。先輩側がそうすると、自然にエージも話しやすくなる。
「エージくんは、むしろ好きそうね」
「そうっすね。自分、お化け屋敷とかガンガン行くタイプなんで」
「お化け屋敷。……どんなものなの?」
「あっちこっちから怖いメイクをした人が飛びかかってくるんすよ。ま、脅かすだけなんで、安全ですけど」
「怖いメイクというと、ゾンビ……とかかしら?」
「コンセプトによりますよ。病院が舞台なら、ナースとか患者とか。場所によりけりです」
「奥が深いのね」
いい感じだな、とエージは思う。
恋愛っぽい雰囲気じゃないけど、普通に話せている。誰も寄せ付けないはずだった氷雨小雪は、知らない間に普通の女子になっていた。
だからこそ、違うなと思う。
ここに自分がいるのは、違うなと。どこまでも冷静に、悟ってしまう。
ショックではなかった。当然だ。恋なんてしていないんだから。彼女ができればラッキー、できなくても次がある。その程度だ。
その程度では、この人に手を伸ばせない。
「テツ先輩のこと、誘ったらいいんじゃないっすか」
氷雪の女王は、もういない。
氷は溶け、ここにいるのはただの可愛い女の子だ。そして、溶かしたのはエージではない。
たった一日でも、十分にわかった。氷雨小雪は、阿月哲のことを特別に信頼している。ビーチバレーのときも不安そうな顔一つしなかったし、水を真っ先にかける相手に選んだのも阿月哲だったし――ところどころに、現れるのだ。
隠しきれないほど、鮮明に。
だから、エージはパスを出す。
「阿月くんを? ……どうして?」
なのに、返ってきたのは予想外の言葉。
心底不思議そうに、小雪は首を傾げていた。
「え、だって氷雨先輩……」
「阿月くん、怖いのが苦手だと思うから――楽しめないと思うわ」
「ん? テツ先輩が怖いの苦手……って、そうなんですか?」
「さっきも一人だけ乗り気には見えなかったわね。そう見えないように、振る舞っていたんじゃないかしら」
「そうは見えませんでしたけど」
思い返してみる。どうだっただろう。エージにはよくわからない。わからないけど、肝試し前後は、哲の存在感が異様に薄かった気がする。
でも、怖いアピールはしてなかったような。むしろ俺は平気だけど、みたいな雰囲気じゃなかっただろうか。
「どうして隠したんですかね」
「それは私にはわからないけれど――」でも、と小雪は続ける。「あの人は、いつもそうなのよ」
諦めたような、呆れたような、どこか困った笑みを浮かべる。
その表情は、なぜか満足そうで。
敵わねえなぁ。敵うはずがねえよなぁ。
と、伏見英二は空を仰ぐのだった。
森は終わり、何事もなく彼らの肝試しは終わりを迎える。




