41話 嵐の前の嵐 その3
買ってきたマットレスを床に設置すると、部屋はかなり手狭になってしまう。一人暮らしのワンルーム。元々、そんなに広さはない。
机をどかさなくてもよかったから、生活に支障はないが。
「んで、次は晩飯か……」
「冷蔵庫チェック!」
機敏な動作で脇をすり抜けて、中身を確認。じぃっと見つめてから、振り返ってくる。
「なっ、中身がある」
「自炊してんだよ、これでも」
「あにぃ、料理できたっけ?」
「必要に迫られれば、人は成長するんだ」
といっても最低限だから、『食べられる』という程度のものでしかないが。
切る、お湯にぶち込む、調味料入れて汁物! みたいな。そういうレベルだ。
「米の準備頼む。おかずは俺が作るから」
「あいさー」
袋と計量カップを手渡せば、凛はきびきびと動く。
それを眺めつつ、スマホを確認。さっき氷雨に送ったメール、そろそろ返信があるんじゃないかと思って。
予想通り、というかわりと前に帰ってきていた。送ってすぐに返信をくれたらしい。
『行ってもいいの?』
なにを疑問に思ってるんだろうか。よくなかったら誘わないのにな。
でも、やっぱり入りづらさはあるのだろう。俺や一輝、小日向はもう一年間の付き合いだ。内輪の空気ができてしまっているのは、事実だ。
だけど、いちゃダメなはずがない。時間が必要なら、かければいい。
『氷雨さんがいたほうが楽しいと思ってる。俺も、他のやつも』
どうせ返信はすぐ来るのだろう。
軽くネットサーフィンでもしながら、待っていようか。
「なにやってるのー?」
「うおっ」
「……メール? いまどき?」
「お前、おい、見んな!」
「相手の人……もしかして、女の人?」
送信先のところを見られたらしい。『氷雨小雪』まあ確かに、一発でわかる。
キラーンと、凛の目が光った。
「カノジョできたの!?」
「ちげーよ」
「狙ってるの?」
「もっとちげーよ」
ずいっと顔を寄せてきて、俺のスマホへ手を伸ばしてくる。咄嗟に電源を切って、ポケットに隠す。
「怪しいなぁ。あにぃが女子と連絡なんて」
「別に、なにもなくたってメールくらいするだろ」
「陽キャみたいなこと言ってる!」
「うっせえ!」
頭を鷲づかみにして、凛を引き剥がす。
ええい、俺のプライベートに踏み込んでくるな。やましいことはなにもない! マジで。
「ぎぎぎっ……絶対、なんか隠してる」
「隠してない隠してない」
「おにぃは恋してる」
「してねーよ。誰にもな」
「してないの?」
きょとんとした目で、凛が俺を見る。ため息を一つついて頷くと、「そーなんだ」と、案外簡単に引き下がってくれる。
「高校入ってからも?」
「そうだ」
「ふうん。じゃあ、その人に会ってもいい?」
「……だめだ」
言うと思った。だから嫌だったんだ。
そしてたぶん、俺はこのまま押し切られる。この流れで凛を止められたことなど、一度たりともない。
「もし断ったら――」
「もし断ったら?」
「お父さんとお母さんに、カノジョが出来たと報告します。そして二人をここに連れてきます」
「貴様ァッ……」
うちの妹は外道だった。
ヤクザでもその脅し方はしねえよ。
「さあ、どうするあにぃ!」
「てめぇ……」
もはや選択の余地はなかった。ただ一つ、氷雨が断ってくれる可能性に期待を込めるしかない。
スマホを取り出す。
さっきの返信は、もう来ていた。
『なら、喜んで参加させてもらうわ』
そっちはオッケー。だが、新しい問題が発生してしまった。
歯を食いしばりながら、新しい件名でメールを送る。
『うちの妹が、氷雨さんに会いたいらしい……』
送る。スクロールを一回して更新すると、もう返ってきていた。
『会うわ』
「……ぐぎぎっ」
言うと思った。絶対あいつ、凛に会いたがると思った。
「どうだった?」
「会ってくれるらしいぞ」
「やりぃ!」
嫌な予感しかしない。
なんでこんなことになってしまった? たぶん、俺にはどうしようもなかった。
◇
翌日の昼。三人でご飯を食べようということになった。集合場所は駅。
途中、街路樹に張り付いた蝉を見つけて、指さす。
「ほら、あれがアブラゼミ。この騒音の元凶」
「お、おおー。思ったよりグロいね」
「グロいて」
「想像よりミチミチしてるっていうのかな、羽がぴくついてて、なんか、生き物って感じが凄い」
効果音はともかく、言っていることはよくわかる。
蝉という生き物は、やけに存在感が強いのだ。鳴き声も、見た目も、命燃やしすぎだろ。
「暑さはどうなんだ? なんも言ってなかったけど」
「あちぃ」
パタパタと顔の前で手を仰ぐ。
ま、そうだよな。北海道とこっちでは、温度も湿度も違う。海が近い街とはいえ、厳しい環境なのは間違いない。
「でも、クーラーが気持ちいいよね。こっちのほうが」
「確かにな」
こたつに近い中毒性があるのは、本州ならではか。
「ということで、住めます」
「住むな。帰れ」
手で追い払う。凛はふひひ、と不気味に笑う。
ほんとに住むなよ? 帰れよ?
なんというバカな会話をしている間に、到着。いつもの場所に、氷雨は既に着いていた。
半袖Tシャツに、七分丈のジーンズ。活発な印象のコーディネートをしている。
片手を挙げると、ひらひら手を振ってくる。
「ほら、いたぞ」
「えっ、どこ?」
「あの時計の下に居る女子」
「……あにぃ」
「なんだよ」
ジト目で凛が睨んでくる。母さんに似てか、時々こいつはちょっと怖い。
目の光がなくなるというか、冷たい無表情になる。
「ほんとに、なにもないんだよね?」
「ああ。そんな嘘はつかん」
「しっかり見てるから」
「お……おう」
本当になにもないんだけどな?




