温泉if もしも、氷雨小雪が髪の毛自然乾燥派だったら
温泉を出てコーヒー牛乳を飲んで、不思議な感覚のまま廊下を歩く。
まどろみの中にいるような、心地よい違和感。
部屋に戻って、テレビをつける。夕方六時に流れるのはどれも無害なもので、風呂上がりにちょうどいい。ポットに入っていたお湯を使ってお茶を淹れ、ほっと一息。
俺は今、同じ学校の女子と温泉宿にいる。その状況を再認識。
なんか、馴染んできたな。
案外なんとかなるのかもしれない。
ぼんやりとした安堵が生まれてきたのと同じくらいに、ノックの音。氷雨が戻ってきたのだろう。
「今開ける」
大丈夫。自分に言い聞かせて、ドアを開ける。
「いいお湯だったわ」
「…………おう」
大丈夫じゃないかもしれない。
俺としたことが、女子の湯上がりを甘く見ていた。最後にそれを見たのは中学生の頃だったから、完全に頭から抜けていたのだ。
まだ乾ききらない、艶やかな漆色の黒髪。白い肌はまだ熱を帯びていて、頬がほんのり赤い。目も心なしとろんとして、いつもより無防備だ。
おまけに浴衣なのがよくない。地味な柄であるがゆえに、純粋な和風美人の氷雨によく合っている。いつもは見えないような首元やうなじも外に出ていて――
「……髪、乾かしてないのか?」
もう一度視線を戻した。
氷雨の髪の毛は、水滴がしたたるほどではないが、タオルで拭き取ったぐらいにしか乾いていない。
指摘に対し、氷雨はこてっと首を傾げる。いや、なんでわかんないんだよ。
「それじゃあ風邪引くだろ」
「私、風邪引かないわ」
「バカなのか?」
「バカじゃないわ」
「じゃあ引くじゃん」
「そうね。たまに引くわ」
ため息がこぼれる。
こんなこと言うのも、変な気がするけど。
「髪の毛はちゃんと乾かしたほうがいい。今日は特に。ドライヤー、洗面台にあったろ」
「難しいわ」
「え?」
「ドライヤーを使うのは、とても難しいわ」
まあそうだろうな。氷雨はそれなりに髪も長いし。苦労するだろう。
だからこそ必要だと思うんだけど……。
「前はやっていたのだけど、絶望的なほど枝毛が増えたのよ。下手だから」
「おう……」
それは確かに、やりたくなくなる気持ちもわかる。
熱しすぎると髪が傷むからな。自然乾燥派が一定数いるのも、そういう理由だろう。
「…………じゃあ、俺がやる」
「阿月くんが?」
「妹にやってたから、いけると思う…………その、嫌じゃなければ」
「ここにドライヤーがあるわ」
「早いなっ!?」
なんの躊躇いもない。マジかよ。自分で言っといてなんだけど、結構引くところだと思うぞ。
俺が固まっている前で、せっせと準備をする氷雨。
「……いいのか?」
「提案したのは阿月くんでしょう?」
「うん。まあ、そうなんだけどさ」
「好きにして」
「その言い方は抵抗あるな!?」
目の前で背を向けて、ぺたんと座る。無防備にさらされた、小さな背中。
畳の上、ちょこんと置かれたドライヤー。
「……熱かったらすぐ言えよ」
「ふふっ。お願いします」
髪を持ち上げる。指先からこぼれそうなほど滑らかで、柔らかい。
近いから、良い匂いもずっとしている。温泉上がりの、不思議な匂いだ。使ったシャンプーは変わらないはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。
ドライヤーのスイッチを入れ、自分の手で温度を確認。まあ、普通か。
上から下に、熱いので一箇所には留めず、ドライヤーを振りながら乾かしていく。
当然ながら、時間がかかる。
音もするので、その間は会話もない。
二人の間には、なにもない。だから確かに、繋がっている。
俺は氷雨の髪に触れることを許されている。俺は彼女に対し、手を貸すことを申し出た。
そこには、確かな信頼があった。
あらかた乾いてきたら、涼風へ切り替える。ドライヤーの電熱線は仕事をやめ、小型の扇風機として風を吹く。
音も小さくなって、ぽつりと少女が呟いた。
「いいものね」
「……そっか」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、俺たちは言葉を交わす。お互いに届かなくてもいい。届かなくたって、伝わっている。
ずっと失っていたなにかが、埋まるような気がして――
◇
――触れていたものが遠ざかる。
◇
目を開けると、天井があった。暗い部屋。なんの変哲もない、自分の家。
時計を見ても、時間はまだ午前三時。
なにか夢を見ていた気がする。
幸せな夢だったような。だけど、思い出したくはないような。
不思議な時間だった。
こんなん結婚じゃん。




