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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第二話 恋文 ~ 将軍夫人の幸福な一生
9/25

<1>

『今日は少し調子がいいので、この手紙を書いています。

 これを読んでいるということは、あなたは無事に帰って来たのですね。よかったわ。おかえりなさい。

 あなたを迎えてあげられないのがとても残念です。

 あなたは今、悲しんでいるかしら? それとも、何も知らせなかった私に腹を立てているかしら? 両方かもしれないわね。

 最後に勝手をしてしまってごめんなさい。でも、私の傍にいられなかったと悔やんでいるとしたら、それだけは違います。

 あなたは何ひとつ悔やむことなどないのよ』





「あなたの匂いがとても好きだ」


 男は、並んで横たわった女を後ろから抱き締めて、低いが優しい声で囁いた。

 妻である女のことを男は、あなた、と呼ぶ。結婚して五年間ずっと同じだった。未だに女の出自を気遣って、というより生真面目な彼の習慣になっているのかもしれない。


「今度の留守は少し長くなる。不安な思いをさせてしまうが、必ず無事で戻って来るから……私を信じて待っていてくれ」


 女の腿ほどもある逞しい腕が、柔らかな体毛に覆われた広い胸が、先ほどまでの行為の余韻を残すようにうっすらと汗ばんでいる。温かな湿り気を帯びた肌の感触が心地よくて、女は目を閉じた。

 男は、自分の強靭すぎる筋肉が、華奢な身体を壊してしまうのではないかと不安がったが、女はいつも、こうして背後から包み込むように抱き締められるのを好んだ。


 交歓の残り香を楽しみ、蕩けるような眠りに落ちるまでのひと時――密着させた素肌からお互いの鼓動と体温を感じていると、相手との境界が曖昧になる。果たしてどこまでが自分なのか分からなくなる。

 それは決して不安なことではなく、彼らにとっては安らぎであった。

 女の白く細い手が、男の手に重ねられた。


「あなたは絶対に死なせない……私が守ってあげるわ」


 口をついて出た強い言葉に、男の少し驚いた気配が伝わってきた。


「シドニア……」

「だから……」


 だから、私が死んでもあなたは生きてね。


 そう言う代わりに、女は男に向き直り、その胸元に顔を寄せた。


「もう一度、して。シャルナグ、抱いてちょうだい」




○●○●○





 熟したマルメロの実は優しい黄色をしていた。

 小ぶりではあるが掌にしっかりと重く、わずかに柔らかくなったその表皮は天鵞絨のような細かな産毛に覆われていた。鼻を寄せなくても、果実から漂う甘い芳香ははっきりと感じられた。いつまでも嗅いでいたくなる爽やかな香りだ。


 私はマルメロをひとつひとつ丁寧に手桶の水で洗い、産毛を落としてから笊に並べていった。

 庭に茂った棕櫚の大きな葉を通して、午後の木漏れ日が眩しく降り注いでくる。広いテラスはとても風通しがよく、麻の敷物の上に直接腰を下ろすのが心地よかった。

 私は気持ちが安らいで、鼻歌交じりに次々とマルメロを洗っていった。

 黄色い果実は籐籠に山盛り十杯分もある。今朝アルサイ湖畔の農園で収穫されたばかりのそれらを買い付け、ここに運んでくれたのは屋敷の女中たちだが、そこからは私の仕事だった。毎年この作業だけは、私が一人でやることにしている。


 洗ったマルメロをよく拭いて、包丁で四等分に切り、皮も種も付けたままで大きな硝子瓶に入れる。

 そこへ麦の蒸留酒を注ぎ、大量の砂糖と蜂蜜を贅沢に投入する。


「まあ、いい香り!」


 はしゃぐような声に顔を上げると、庭先に最近親しくなった友人が立っていた。艶やかな褐色の肌に、どこか中性的な凛とした顔立ち――キルケである。

 数ヶ月前に王宮付きの歌手になった若い歌姫の姿は、植栽の濃い緑によく映えた。眩しいほどの笑顔で、私に向かってお辞儀をする。


「こんにちは奥様。約束のお時間にはまだ早かったようですわね」

「いえ、いいのよ、こちらもすぐに終わるから。そこから上がって来られて?」

「はい、失礼します」


 少し回り込めば階段があるのだが、キルケは迷わず長い裾を持ち上げ、腰の高さほどある段差を上がってテラスにやって来た。実に彼女らしい、溌剌とした動作である。

 私の周囲に並べられた十個もの大瓶とその中身を、彼女は物珍しげに眺めた。


「これはマルメロ酒ですね? 甘くて美味しそう」

「飲めるようになるのは3ヶ月先だけどね。もう少しで終わるから待っていてもらえるかしら」

「お手伝いしましょうか?」

「すぐ済むわ」


 私はそれぞれの瓶の量を確かめながら、砂糖をもう少し足していった。黄色いマルメロの沈んだ透明な液体に、砂糖はゆらゆらと揺れながら溶けてゆく。陽炎のようだった。数ヶ月のうちによく馴染んで、果実の芳香と味が蒸留酒に移っていくはずだ。


「これ、奥様が飲まれるのですか?」


 キルケはその場にしゃがみ込んで、瓶から漂ってくる甘い香りに鼻孔をひくつかせている。飾り気のない歌姫の声は、耳に心地よく低い。


「主人も好きでよく飲むのよ」

「シャルナグ様も? 何だか意外です。酒豪で有名な師団長が、甘い果実酒を好まれるなんて」

「ふふ、そうでしょう」

「あ……ごめんなさい、もう師団長ではありませんでしたね。先月からは将軍閣下でした」


 彼女の訂正した通り、夫は先月、将軍職を拝命した。名実ともにこれで王軍の最高責任者となったわけだ。オドナスの国土が広がっている今、夫はますます多忙になり家を空けることも多くなっていた。

 明日からは、将軍として初めての遠征に出る。遥か西方の地へ、半年以上かかる行軍になる予定だ。戦況によってはさらに帰還が延びる可能性もある。


 私は微笑んで、瓶の蓋を閉めていった。あとは涼しい場所で静かに保管しておくだけだ。


「もともとは私が薬代わりにしていたの。体にいいと聞いて、実家にいる時に母が作ってくれていたから。でもいつの間にか主人まで飲むようになって……あの人たくさん飲むでしょう? その年に漬けたお酒がその年中になくなってしまうのよ」

「だからこんなにたくさん作っているんですね」

「今年は特にね。これで五年はもつかしら」


 私は手の甲で額を拭った。いくら風通しがいいとはいえ、少し暑い。ずっと下を向いて作業をしていたせいか、立ち上がると視界一瞬暗くなった。


「シドニア様、大丈夫ですか?」


 キルケがそう気遣ってくれて、私の肩に手を添えた。至近距離で見る彼女の肌は滑らかだった。胸は健康的にふくよかで、腰はぴしりと引き締まっている。

 本当に羨ましくなるくらい、綺麗な肢体。


「大丈夫よ、ありがとう。部屋に入ってお茶にしましょうか。マルメロの砂糖煮も作ってあるのよ。少し持って帰ってちょうだいね」


 瑞々しい花を愛でるような気持ちで、私は美しい友人を見詰めた。

シドニアはマルメロの学名から取りました。

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