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あの後、王都に入った私は、日々の糧を得るために街の酒場や妓楼で歌い始めた。
仲間たちもそれぞれに仕事を見つけた。若く美しい女ばかりだったので、必然的に水商売に流れた者が多かったようだが、それでも奴隷として強制的に働かされるのとは全然意味が違った。また、故郷へ戻った者もいたようだ。
幸運なことに私の歌は王都で評判になり、徐々に披露する場も増えていった。貴族や政府高官の屋敷に招かれるようにもなった。
そして二年後、ついに王宮に招かれ、再会した国王の前で再び歌ったのである。
私は、ずっと彼を想っている。
自分が選んで閉じ込めた感情を、未だに手放せずにいる。
恋の歌を歌いながら、本当に愛する男には手も触れられない、私は愚かな女だ。
それはもしかすると、封じているから、決して手に入れられないからこそ募ってしまう歪な恋情なのかもしれない。だが頭で理解したところで割り切れるものではなかった。
今なら、あの遊女の気持ちが分かる。
彼女が死んだのは、己の不幸を嘆いたからではない。幸せだったからだ。
たった一日、すべてを捨てて惚れた男と外の世界に出た一日のためだけに、彼女の一生はあったのだ。
私も時折、そんな自分を想像する。
たった一度だけでも願いが叶えられたら、彼に抱かれることができたなら。
歌も名声もすべて捨てても惜しくないと――。
しかしもう遅すぎた。この国は私の故郷になってしまった。ここでの私の居場所は、国一番の歌姫という役割の中にしかないのだ。
その夜の顛末は、翌日には噂になって王宮を騒がせていた。国王侍従か後宮の女官か、どちらかに口の軽いのがいたのだろう。
国王は新しい妾妃とともに入浴し、その後床に入った。しかし、さあこれからという時になって、いきなり女が泣き出したのだという。
やっぱり駄目です、お相手できません、堪忍して下さいませ――そう繰り返して号泣する女を前に、さすがに国王は唖然としただろう。目に浮かぶ。
とにかく宥めてよくよく話を聞いてみれば、実は女には想う相手がいるのだとか。手を握ったことすらない仲でありながら、お互いに好きあっているのだと。
だったらどうしてここへ来たのだ、と呆れる国王に、女が涙を拭きながら答えるには――。
彼は自分の父親の店の使用人で、一緒になることなどまず許されない。だから自分が後宮に仕える数年間で身を立て独立し、必ず迎えに来るとそう約束してくれた。
彼女自身も後宮での贅沢な暮らしに多少目が眩んだ、のではないかと私は思うのだが。
でも先ほどキルケ様の歌を聴いて、何だか胸が切なくなって彼のことを思い出し、もういても立ってもいられなくなってしまいました。後生ですから家に帰して下さい――。
そこまで拒絶されてはさすがに興が削がれて、彼はそれ以上何もせずに部屋を出たというわけだ。
腹も立っただろうし、男としていろいろな意味で収まりのつかないこともあったのだろうが、嫌がる女を手籠めにしたとあっては国王の面目に係わる。
あんな恋歌を歌った私に、恨み言のひとつも言いたくなっただろう。
初夜の床から逃げ出した女として、彼女はしばらく伝説になると思われる。
その話を聞いたシャルナグ将軍は、腹を抱えて大笑いした。
王都の賑やかな大通りを並んで歩きながらのことである。
私は将軍に誘われ、今日ある場所に向かっていた。
「ざまあ見ろだ……あいつはどんな女も自分になびくと思っている節があるからな。いい薬だよ」
「将軍、またそのような……ま、私もだいぶ笑いましたけれどもね」
私は口元を押さえて苦笑を隠しつつ、将軍の髯面を眺める。初めて出会った時は師団長だったのが、数年後に全軍を統括する将軍職に就任した彼は、国王の友人でもあった。
将軍は五年前に奥方を病気で亡くしており、以来ずっと独り身だ。私は彼に二度ほど求婚されたことがあったが、勿体なくも断り続けていた。理由は説明するまでもないだろう。
そんな私のことを将軍は怒るでもなく遠ざけるでもなく、変わらず友人として接してくれていた。本当に真面目な好人物なのだ。
昨夜の正妃の言葉ではないが、もし彼の申し出を受けられれば、私はきっと女として幸せになれるのだと思える。
もちろん、その選択はどうしてもできない――将軍に対しても自分に対しても、それはあまりにも不実だ。
「しかしキルケ殿の歌はさすがだなあ……覚悟して後宮に上がったはずの女を、そんな気持ちにさせてしまうとは」
飾り気のない将軍の賛辞に、私は微笑んで応えた。
かつて同じ遊郭で働いていた女が、私の恋歌は心に響かないと言い放った。当時の私はまだ恋を知らず、彼女は誰にも言えない想いを胸に秘めていた。
もし彼女が今ここにいたら、彼女は私の恋歌を誉めてくれるだろうか。
「それで、その愛妾はどうなったのだ?」
「実家に帰されたそうですわ。退職金が支払われない代わりに、本人や父親へのお咎めもなし。その使用人の男との仲を認めてやるよう、陛下が直々に口添えしたとか何とか」
そういう男としての余裕があるところ、もしくは余裕を見せようとするところが、私は結構好きだ。育ちのいい彼は何かにつけて鷹揚である。
だから、こういった自らの醜聞が王宮や市中で酒の肴にされても、彼はそれほど気にしている様子はない。むしろ、親しみを持った噂話が流れるのは人気の証拠だと喜んでいる。
「キザな奴……もっと若い頃ならどんな手を使ってでも口説き落としただろうに、あいつもまあ大人になったということかな」
将軍は妙にしみじみしたかと思うと、またぶり返したように笑う。
「今度会った時にもっと詳しく聞いて笑ってやろう」
私は溜息をついた。お互いに悪口を叩きながらも、何だかんだで仲のいい二人なのだ。
「それよりも、今日私に会わせたい人というのは、どういった方ですの?」
「ああ、この先の広場にいる。旅の楽師のようなのだがな、珍しい楽器を弾いているのだ。ぜひキルケ殿の感想を聞きたくて」
強面ながら目の優しい将軍の顔が、ふと緩んだ。
「あなたの賛同が得られれば、宮廷楽師に推してもよいと思っている」
「まあ、それほどの腕前なのですか?」
「私は無粋な軍人だからな。それをあなたに判断して頂きたいのだ」
私は肯いた。
自分では無粋というが、将軍は実に素直な感性の持ち主で、彼がよいと感じたものはたいてい本物なのだ。
もしかするとその楽師は、この先王宮で私の好敵手になるのかもしれないな――そんな思いがチラリと脳裏をよぎったが、私は気にしなかった。
私の恋歌は、封印した想いの代償。
私は私の役割をこなすだけ。誰にも代わりができない自信はある。
大通りの先の広場から、行き交う人々の喧騒に紛れて、艶やかな弦の音色が流れてきた。
-第一話 了-
第一話『キルケ編』はこれにて完結です。ここまでお読み下さりありがとうございました。
吊り橋効果という言葉があります。
恐怖や緊張を感じた時に人間は恋に落ちやすいというアレです。
生理的な興奮を恋愛感情と勘違いしてしまうそうなのですが、キルケのは完全にそれだな、と今回書いていて思いました。
あと、国王夫妻は意外と仮面夫婦じゃなかったのね、というところを分かって頂ければ……。
ご感想などお待ちしております。




