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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第一話 恋歌 ~ 歌姫の代償
7/25

<6>

 キルケらはオドナス軍に同行して数十日間砂漠を渡り、王都に向かった。


 男ばかりの軍隊の中に二十名余りの若い女――何を求められるかある程度は覚悟をしていた。しかし意外なことに、彼女らに不埒な真似をする兵士は一人もいなかった。

 たまには若い兵士にからかわれることもあったが、こちらも冗談で返せる程度の害のないものだ。

 かつてキルケの母親と仲間を無慈悲に蹂躙した軍隊とは雲泥の差だった。この違いが、つまりは国家としての格の違いなのだろうか。

 キルケがそのようなことを口にすると、師団長は得意げに言う。


「オドナスの軍律は厳しいのだ。妙な真似をする奴がいたらすぐに言いなさい。それからあなた方の方も、兵どもをあまり刺激せぬように」

「刺激なんてしません」


 キルケは少々むっとしたが、何かと彼女らに気を配り、世話を焼いてくれる師団長には感謝していた。見た目は恐ろしげな大男なのに、彼はその地位に係わらず気さくで、部下からも慕われているようだった。


 気さくといえば、国王も驚くほど気取りのない人物だった。旅の間は下士官や末端の兵士たちとも気軽に言葉を交わし、馬鹿話に興じたりもしている。勝ち戦の帰路という理由もあろうが、国王は常に楽しげで、必然的に師団の雰囲気はよかった。

 あの時に感じた血の臭いはやはり気のせいだったのかしら――明朗な国王の背後に陰を探すように、キルケはついつい彼を目で追ってしまい、視線が合っては慌てて逸らすということを繰り返していた。


 さらに驚いたことに、オドナスには奴隷制すらないのだという。現国王が廃止したのだ。

 王都に到着するまでに、各々身の振り方を考えておくようにと、キルケらは言い渡されていた。奴隷の身分から解放されれば、もう誰からも仕事を強要されずにすむ。その代わりに、何をして食べていくかは自分で決めなければならない。

 これまでずっと他人の意志に従い、命じられたことをやるだけだった女たちは、誰もが戸惑っていた。自由とは何なのか、それすら教えられたことがないのだから。


 長い旅が終わりに近づき、明日には王都に到着する最後の夜、キルケは初めて国王の前で歌うことになった。

 感謝の気持ちを伝えるのに、キルケは他に方法が思いつかなかった。盗賊に奪われた荷物は押収されていたので、その中から自分の仕事用衣装を引っ張り出し、精一杯着飾って、中隊長以上の集う酒宴の席にキルケは現れた。


 この砂漠最大のオアシス湖が近いせいで、風景にはすでに緑が混じっている。灌木がまばらに茂り、地面も柔らかい草に覆われていた。空にはいびつな銀色の月。満月にはまだ数日早い。

 心地よい湿度の混じった夜の野外で、約八十名の隊長が国王を囲んで酒を酌み交わしていた。長い遠征に勝利し明日は我が家に戻れるとあって、みな寛いだ様子で談笑している。

 キルケは楽器の弾ける2人の同僚を連れて、国王の前に進み出た。


「歌手だったのか」

「ほんの廓芸ですが、歌わせて頂けますか?」


 国王の許可を得て、キルケは歌い始めた。2人の女がそれぞれ弦楽器と笛で伴奏をつける。

 男ばかりの宴席に、雅やかな風が吹き込んだようだった。


 キルケが艶のある声で歌ったのは、故郷の恋人を想う歌だった。歌謡団で彼女の母親がよく歌っていた曲である。緩やかに伸びやかに、彼女は心を込めて歌った。

 遊女の廓芸、というにはあまりに見事な歌声に、居並ぶ隊長たちからほうっと溜息が漏れる。裏声を駆使して高音域を歌う王都の歌手とは違い、彼女の声は実に自然でそれでいて美しかった。

 国王も感心したように聴き入っている。

 数十日ぶりに歌うキルケは高揚し、同時にその胸を様々な記憶が去来した。 


 おまえと俺は同じだ、と言った男の言葉。血の臭いの中で犯された恐怖。雄叫びを上げながら襲いかかってくる盗賊たち。

 焼印の痛みと皮膚の焦げる異臭。遊女の微笑み。あんたはまだ恋をしたことがないのね。

 炎に包まれる街。逃げ惑う歌謡団の仲間。血の色。華やかな舞台の輝き。それを袖で見ていた自分。

 若い母親の美しい歌声――。


 気がつくと、キルケは泣いていた。

 どうして涙が出るのか分からない。悲しいのか寂しいのか安堵したのか、自分の気持ちが分からない。それなのにひたすら涙が零れ、喉の奥が熱くなるのだった。

 十四歳で売り物になって以来、どんな目に遭わされても決して泣かなかった女が、異国の君主とその兵士たちの前で涙を流していた。

 途中から喉が詰まり声が潰れ、キルケの歌は大きく乱れた。これまで歌った中で最低の出来だと自分で思った。

 しかし――聴衆である兵士たちもまた目を潤ませていた。

 恋人と故郷への想いを切々と歌い上げる旋律に、長く砂漠を渡ってようやく王都へ帰還する自分たちの状態を重ねたのかもしれない。戦場では厳しく部下を指揮し、勇敢に戦ってきた隊長たちの多くが、今は目頭を押さえている。

 背後で伴奏をつける女たちも、演奏をしながら肩を震わせていた。多少の差はあれ、女奴隷の境遇はみな同じようなものなのだ。

 キルケはそんな周囲の反応にひたすら驚いた。

 途中で泣き出すなど歌手にあるまじき失態なのに、彼らは確かに心を揺さぶられている。大事なのは歌自体の出来、不出来ではないのか……。


 嗚咽を堪えて何とか歌い切ったキルケを、拍手が包んだ。武骨な男たちからの温かい拍手だった。

 穏やかに微笑んでキルケを見詰めていた国王は、同じように拍手を送りながら、


「自由とはこういうことだよ、キルケ」


 と言った。


「泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑えばいい。おまえはその自由を勝ち取った」


 迷いのない口調に、哀れな女奴隷への同情は微塵もなかった。国王は彼女を、強い意思と行動力を持った人間として認めている。

 他人、特に男からこのような眼差しを向けられるのは初めてのことで、キルケは戸惑いつつも誇らしかった。そして自信と誇りを与えてくれた国王に対し、感謝とはまた異質な想いが湧き上がってくるのを止められなかった。

 心臓が痺れるようなキリキリとした痛みは、もうずっと前から彼女の中に宿っていたのだ。


 その後、キルケは一人で国王の天幕を訪れ、少し話をした。

 問われるままに身の上を話し、改めて礼を述べた後、彼女は意を決したように切り出した。


「王都に到着しましたら、私をお傍に仕えさせては頂けないでしょうか?」

「おまえを?」


 分厚い敷物の上に腰を下ろした国王は、近い位置に座ったキルケを意外そうに見た。

 相変わらず明るく澄んだその瞳に気圧されながらも、キルケは胸を押さえて続ける。


「わ、私のような奴隷女が畏れ多いことでございますが……側女の一人にでも加えて下さいませ。私は陛下をお慕い申し上げております。心から……」


 彼女はその場に平伏した。


「お願い致します。どうかお情けを……!」


 今まで求められ強要されるだけだったキルケが、初めて自分から求めた。望んだのはあまりに彼女とかけ離れた相手だったが、今は手の届く所にいる。

 国王は肘掛に頬杖をついて、やや気だるげに答える。


「俺には正妻と四人の側室がいる。他にも後宮にたくさんの妻を囲っているが、それでもいいのか?」

「は、はい!」


 元気よく顔を上げたキルケを、彼は苦笑して迎えた。これほどはっきりと、自分から手を上げて愛人に志願する女はそういない。

 彼の右手が伸びて、キルケの頬に触れた。その掌は剣を持つ者らしく硬い皮膚に覆われていたが、優しく温かかった。

 頬にかかった髪を払い、鼻筋を撫で、唇をなぞる。慈しむようなその仕草に、キルケは身体の芯が熱を帯びるのを感じた。

 本当に生まれて初めて、彼女は他人を欲した。目の前の男の腕に、自分から身を投げたいと思った。

 そんな激しい気持ちに気づいているのかどうか、国王は、


「おまえは強くて美しくて……率直に言うと俺の好みだよ」


 と、囁いた。


「では……!」

「でもな、おまえは歌いたいんだろう?」


 キルケは首を傾げた。なぜそんな当然のことを訊かれるのか分からなかった。

 国王は彼女から手を離して身を引き、きっぱりと、やや厳しい口調で言い放った。


「俺の後宮に入るというのなら、今後歌を歌うことを禁ずる」

「ええっ、なぜですか!?」

「国王の愛人があれほど見事に歌えば……まあ王宮中で称賛されるだろうな。だがその称賛には必ず俺に対する媚びや胡麻すりが含まれるはずだ。おまえは自分の才能以上に過大評価され、持て囃されるだろう。反対に、歌手としての名声を得たいがために、おまえが国王に近づいたと批判する者も出てくる」


 考えてもみなかった理由に、キルケは呆然とした。歌は歌に過ぎず、歌う者の立場や身分に関係なく評価されるはずだと信じ込んでいたのだ。

 国王は少し表情を和らげた。


「周囲の偏見の中で才能ある者が腐っていくのは不幸なことだ。だから俺は、歌手であろうと画家であろうと、職を持つ女を愛妾に加えようとは思わない」

「では私も……」

「俺を取るか、歌を取るか、自分で選びなさい」


 優しい声で残酷な選択を迫る彼の前で、キルケは再び俯いた。

 狡い男だと思った。俺のものにする、もう歌うな、と命じられれば、自分はためらわず従っただろうに。

 初めて手にした自由――その最初の選択は、あまりにも重かった。


 わずかな逡巡の後、キルケは大きく息を吐いて顔を上げた。


「そんなの決まっていますわ……もちろん歌を取ります」


 そう答えて、彼女は晴れやかに笑った。

 大粒の涙が両目から零れ落ちて、次々と頬を伝い落ちたが、拭おうともせずに続ける。


「だって、私には歌しかないんですもの。一生歌い続けたいと思います」

「そうか」


 国王も微笑んでキルケの選択を認めた。身を裂かれるような彼女の想いに、気づかぬふりをした。

 その態度に、彼女はむしろ感謝した。


「いつかオドナスで一番の歌姫になって、陛下の御前に戻って参りますわ」


 キルケは精一杯の笑顔を作って、芽生えたばかりの感情と耐えがたい痛みを、胸の奥底へ深く封印した。

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