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何が気に入れらたものか、キルケは頭目の『専属』にされた。
どうやら彼はキルケを売らず、自分の女として手元に置いておく腹づもりのようだった。
奴隷商人に売られてしまえば、今より状況はマシになると、そんな消極的な希望すら持てなくなってしまったのだ。
盗賊の情婦なんて冗談じゃない――十八歳の彼女の中で、ふつふつと熱い感情が湧き上がっていた。盗賊たちに対する怒りと、そんな男に諾々と従うしかない自分への悔しさが。
キルケは機会を窺って、女奴隷の同僚たちに相談を持ちかけた。
「すぐ近くの水場で、オドナスの軍隊が野営をしているらしいの」
怪訝な顔をする彼女らに、
「私の客にオドナス商人がいたから聞いたことがある。あの国は盗賊団をどんどん掃討しているらしいのよ。助けを求めたらここに来てくれないかしら」
「そんな……無理だよ。私たち、こんなだし」
他の奴隷は情けなさそうに足元を見る。彼女らはみな足枷をつけられ、外されるのは酒宴で酌をする時と、男たちの相手をさせられる時だけだった。
唯一枷をつけられていないのが、頭目の身の回りの世話をするキルケであった。
「だから私が行くわ。ここを抜け出して、オドナス軍にお願いをしてくる」
「何言ってんの!? 場所も分からないのに」
「頭目の持ってる地図を見た。軍が野営しているだいたいの場所は分かるわ」
キルケは力強く言って、監禁された同僚たちを見渡した。
「みんなも見たでしょう? あんな面白半分であの子を殺して……まるで酒の肴みたいに! 私は絶対に許せない。あいつらに復讐できるのなら、代償にオドナスへ連行されたって構わないわよ」
酒宴の席で喉を裂かれた女の死に様は、全員の脳裏に焼き付いていた。盗賊たちは仕事にも出られず、ねぐらでじっと隠れていることに欲求不満を募らせている。ここに長く留まるほど、ああやって気紛れに殺される確率が高くなるのだと思い知った。
渋っていた女たちも、最終的にはキルケの熱意に押されて承諾した。
不思議なことに、キルケが一人で逃げるのではと疑う者は誰もいなかった。彼女の真っ直ぐな気性と度胸は娼館でも有名だったからだ。
今夜は男たちにしこたま酒を飲ませること、またキルケの脱走がばれても知らなかったと言い張ることを、彼女らは約束した。
夜になっていつも通り酒宴が始まると、女たちは巧みにしなを作り、男たちの杯に次々と酒を注いだ。街一番の娼館の遊女たちが本気になれば、彼らを酔い潰すなど造作もないことだった。
キルケもまた、宴席を中座した頭目に付き従って天幕へ戻り、うんと媚びて甘えて、遊郭で覚えた技術を駆使して、彼をすっかり満足させてから眠らせてやった。
このまま殺してしまうこともできる。だが百人近い男の集団から二十人余りの女が逃げおおせるとも思えない。
キルケはいそいそと服を着ると、鼾をかいて眠る頭目の顔に唾を吐きかけて天幕を抜け出した。
夜空に月はなく、滴り落ちるほどの満天の星だった。
幼い頃から旅の生活に慣れていたキルケは、星で方角を知ることができた。彼女は頭目の天幕から持ち出した地図を頼りに、暗い岩場を歩いて行った。
夜明けに岩場を抜けて水場に辿り着いたが、白々とした朝日に照らされたそこにオドナス軍はいなかった。代わりにあちこちに杭を打った穴や焚火の跡が見て取れた。彼らはすでにここを出発し、砂漠へ出てしまったのだろう。
迷っている暇はなかった。キルケは持っていた水筒に水を詰め、彼らの後を追うべく砂の大地へ向かった。
自分でも無茶だと分かっていた。だが砂漠の環境は考えた以上に過酷だった。
昼の陽光は凶暴で、容赦なくキルケを焼く。全身をすっぽり覆う外套を着ていても、皮膚だけでなく内側の水分すら蒸発させそうな強烈さだった。大勢の仲間に守られて駱駝の背に乗って続けた旅とは、あまりにも条件が違いすぎた。
しかも、オドナス軍の駱駝の足跡は、あっという間に風に掻き消されてしまっていた。
キルケはただ北東を、オドナス王国の方角だけを目指してひたすら歩いた。
夜になると、今度は昼間の熱が嘘のような冷気が降りてくる。
湿度がないとはこういうことなのか――それでも彼女が歩みを止めなかったのは、オドナス軍が休息しているはずの夜間に距離を詰めておきたかったのと、立ち止まると死んでしまうと思ったからだ。
全身に疲労と痛みが蓄積し、起きているのか眠っているのかも分からない。
ただ前へ進まなければ――あいつらを殺さなければ。その気持ちだけでキルケは進んでいた。
砂漠を丸一日彷徨い、水も食糧も尽きた夜明け、一つの砂丘を登り切った彼女は、眼前に無数の灯りを見た。
オドナス軍の一個師団、一万名の野営の灯りだった。
彼女は夢中で砂丘を駈け下り、最後は転げ落ちるように砂の上を滑って、彼らのいる所へと急いだ。大声を出したいのに、砂で喉がやられてできなかった。
ふらふらになりながら野営地に飛び込んで、そのまま倒れ込んでしまったたキルケだったが、幸運にもすぐに兵士たちがやって来た。オドナス軍の優秀な見張りは、彼女が砂丘の上に辿り着いた時からその姿に気づいていたらしい。
「おい、女、おまえどこから来た?」
数人の兵士がキルケを取り囲み、肩を揺さぶる。
彼女は答えることができなかった。激しい疲労のためだ。いけない、早く伝えなければ……。
遠のく意識の中で会話が聞こえる。
「どうした? 朝っぱらから何を騒いでいる?」
「これはシャルナグ師団長……お騒がせを。どうやら行き倒れのようで」
「行き倒れ? 女ではないか。こんな砂漠の真ん中で……とりあえず水を持ってこい」
唇に冷たいものが触れ、キルケは本能的に瞼を開けた。いかつい髯面の男が、困惑した顔で彼女の口元に水の器をあてがっている。
彼女はごくごくと喉を鳴らして飲んだ。冷たい水は信じられないほど甘かった。
ようやく口の中が湿って、声が出せた。
「い……」
「い?」
「いちばん偉い人に会わせて! お願いしたいことがあってここまで来たの……!」
必死の形相の彼女にしがみつかれて、師団長はますます戸惑った。
普通であればそんな要望が通るはずもなく、まずは取り調べを受けなければならなかったのだろうが、師団長がどんな判断をしたのか、キルケは野営地の中央にある立派な天幕に連れて行かれた。自力では歩けず、師団長に抱えられるようにしてではあったが。
天幕の中には一人の男がいた。
年の頃は三十過ぎ、精悍で端正な顔立ちの、伸びやかな体躯をした男だった。今起きたところらしく、夜着のまま寝台に腰掛けている。
「おう、早起きだなシャルナグ……それは誰だ?」
彼は気軽な調子で師団長に手を上げて、それからキルケに気づいて怪訝な顔をした。
師団長は天幕の入口を閉じ、辺りに誰もいないのを確認してから、
「おまえに会わせろと乗り込んできた。どうせどこかで手をつけた女だろう。可哀そうに。責任取って王都まで連れて帰れ」
と、呆れたような口調で言って、キルケを前に押しやる。
男はまじまじとキルケの汚れた顔を見詰めた。その黒い瞳には何の翳りも濁りもなく、彼女はこれほど明るい目をした人間を見るのは初めてだった。
「知らない女だなあ……」
「こ、この方がいちばん偉い人ですか?」
男とキルケはほぼ同時に言って、師団長は愕然と二人を見比べた。自分のとんでもない間違いにようやく気づいたのだ。
師団長は咳払いをして、
「これは失礼をした。ご婦人、このお方はオドナス国王セファイド陛下である。控えなさい」
「王様!」
キルケはその場に膝をついた。礼を尽くしたというより、腰が抜けたというのが正しい。
まさかオドナスの国家元首に遭遇するとは。今回の行軍は国王による親征だったのだ。
国王は興味深げに身を乗り出した。
「おまえは誰だ? ここへ何をしに来た?」
そのよく通る声で我に返り、キルケは平伏した。
「私はキルケと申します。皆様が先日まで野営をなさっていた岩場の近くに盗賊の隠れ家があって、そこから逃れて参りました。私の仲間がまだ大勢捕まっております。どうかお助け下さいませ!」
「岩場……あそこから一人で俺たちを追ってきたのか?」
「はい! 盗賊団は約百名、場所も正確に分かります。どうか、どうかお願い致します、陛下! 皆を助けて下さい……!」
彼女は乾ききった喉から必死に声を絞り出し、国王の膝元に縋りついて懇願した。
無礼打ちで斬り殺されるかもしれないとは考えなかった。ただ残してきた同僚たちを助けたい、その一心だった。
国王は突然の闖入者にも動揺の気配を見せずに、小さく息をついてキルケの肩に触れた。その掌はとても温かく、キルケを安堵させた。
「詳しく聞こう。だがその前に少し休め」
一刻を争うんです、そう答えようとしたが、キルケの体力は限界を迎えていた。また、安堵の気持ちが緊張を緩めたのかもしれない。
彼女は国王の夜着の裾を握りしめたまま、床に倒れ伏してあっさりと意識を失った。
「今の話……信じるのか?」
師団長は跪いてキルケの呼吸と脈拍を確認しつつ、訊く。その時になってようやく彼は、彼女が非常に美しい容貌をしていると気づいた。
国王はあくびをして肩を回した。
「どこかの国の罠にしては、あまりにも要領が悪い。百人程度の盗賊団を餌にしても、我が軍の本隊をおびき出せるはずがない」
それから笑みを含んだ眼差しでキルケを見下ろして、
「見上げた根性の女だ。おまえの早とちりがあったにせよ、よく俺まで辿り着けた」
「ああ、運がいい」
「運は自力で引き寄せるものだろ? とにかく半日は休ませてやれ。その間に討伐隊の編成を」




