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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第一話 恋歌 ~ 歌姫の代償
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<3>

 隣国へ渡る旅に出て四日目のことだった。


 短い草がかろうじて茂る岩場を抜け、ようやく本物の砂の海に入ったところで、キルケたち一行を盗賊団が襲った。

 大量の物品を運ぶ隊商に倣い、遊郭の主人は護衛に傭兵団を雇っていた。その傭兵の一部が盗賊団に通じていて、彼らを待ち伏せさせたらしい。よくあることである。


 百人近い男たちはみな屈強で訓練されていて、襲撃されたキルケたちは一溜りもなかった。

 荷を置いて逃げようとした主人と女将はその場で殺された。また、商品価値のなさそうな男の使用人や、砂漠での長い移動についていけない子供の奴隷も、容赦なく処分された。

 怒号、悲鳴、狂ったような駱駝の足音――かつて幼い日に見た光景の再現だった。キルケは逃げることもできずに、血に染まった砂の上にへたり込んでいた。


 結局、積み荷を根こそぎと、キルケを含め二十四名の若い女奴隷が彼らによって略奪された。

 キルケたちは、盗賊団のねぐらに連行された。岩場の陰に隠れるようにして設営された、数十張の天幕群である。

 隊商を襲っては商品を奪い、それを闇で売り捌いては生計を立てている彼らは、キルケたちも同じように奴隷商人に売り飛ばすつもりでいた。そのため商品である女たちは傷つけられることはなかったが、味見と称する彼らの凌辱に耐えなければならなかった。

 毎夜違う男に、時には一度に数人に身体を弄ばれながらも、キルケは無駄な抵抗をしなかった。男たちは粗野で獣じみていたが、求められる行為は娼館で働いていた頃とそう変わらない、平気だ、と割り切ろうとした。

 さすが街一番の娼館だ、上玉ばかりだな――男たちの薄ら笑いから目を逸らして、キルケは自分が売られる日を待ち望んでいた。どうせどこへいっても奴隷の身分なのだ。


 だが盗賊団はしばらくねぐらから出られなかった。付近をちょうど、ある国の軍隊が通過していたからである。ここ数年で砂漠の諸国を平定し、急速に領土を拡大してきた国の一個師団が、遠征先から王都に帰還する途中なのだという。


 その国の名は、オドナスといった。


 とはいえこういった状況に慣れていた盗賊団は、酒をあおり女を抱きながら、商人と取引のできる日を気長に待った。ねぐらには水も食糧も大量に蓄えられている。


 ある夜の酒宴の席で、酌をして回っていたキルケは、盗賊の頭目に声を掛けられた。

 両脇に女奴隷を侍らせ、きつい酒を豪快に飲み干す頭目は、まだ二十歳代半ばの若い男だった。この歳で盗賊団を纏め上げている実力者は、その地位に相応しく狡猾で残忍で、野生動物のような雰囲気を漂わせていた。

 集まった仲間たちの真ん中にキルケを立たせ、彼は歌えと命じた。彼女が歌手であることを、女たちの誰かから聞いたらしい。


 キルケは――歌わなかった。


 自分は焼印を背負った奴隷だから、身体をどうされようと構わない。だが歌だけは、大好きな歌だけは自分のものだと思った。

 こんな場所で、こんな男たちの前で歌うのは絶対に嫌だった。


 この盗賊たちが自分たちの一行を襲撃し、主人と女将を殺して金と荷物を略奪したことはどうでもよかった。女奴隷が慰みものになったのも仕方がないと諦めている。

 しかし、見習いの幼い少女や下働きの使用人たちをも切り捨てたのは許せない。

 殺された者たちが、辛い仕事の合間に目を輝かせて自分の歌を聴いていた様子を、キルケは思い出した。

 あたしも姐さんみたいに歌いたい、と笑った少女の顔を。あんたの声を聴いていると故郷を思い出すよ、と目頭を押さえた年老いた奴隷の顔を。

 だからキルケは、口を引き結んでその場に立ち尽くしていた。


 苛立った頭目は部下に命じて彼女の服を剥ぎ取らせ、露わになったその豊かな乳房を鷲掴みにした。これを切り落とされたいかと凄まれても、キルケはただ燃えるような瞳で頭目を睨み据えていた。

 強情な彼女の拒絶に、頭目はにやりと薄い笑みを浮かべた。


 おまえが歌わねえのなら代わりにこいつに悲鳴を上げさせるぞ、と隣にいた女奴隷の首に短剣を押し当てる。

 三つ数えた後、こいつの喉を掻っ切ってやる。


 恐怖に歪んだ同僚の顔を目の当たりにして、キルケはきつく眉根を寄せた。

 刃を向けられている女とは同年齢だった。同じように幼くして売られ、見習いの頃から苦労をともにしてきた仲間だ。


 キルケは大きく息を吸い込み、望み通りに歌ってやった。

 褐色の瑞々しい裸身を隠そうともせず、彼女は遊郭で流行っている遊び歌を妖艶に歌った。見物する男たちが卑猥な言葉で囃し立てる。

 何とか平静を保って歌い切ったが、こんなに悔しい思いで歌ったのはキルケは初めてだった。自分の歌が、唯一の誇りが、土足で汚されたような気がした。


 頭目は満足げに肯いて、それから当然のように、さきほどの女奴隷の喉元に短剣を突き立てたのだった。

 女は鮮血を噴きながら踊るようにくるくると回って、声も出さずに崩れ落ちる。悲鳴を上げたのはキルケの方だった。


 おまえの歌い出しがちいっと間に合わなかったからな――茫然自失のキルケの前で、頭目はげらげらと笑う。

 彼は血に汚れた手でキルケの腕を掴み、そのまま自分の天幕に連れ込んで、手荒く彼女を抱いた。

 全身に跡の残るほど歯を立てられ、首を絞められながら揺さぶられて、殺されるとキルケは思った。男の腕力よりも凶暴さよりも、身体に染みついた血の臭いが恐ろしくて何の抵抗もできなかった。

 古傷だらけの頭目の身体には、その背中に、キルケと同じ奴隷の焼印が押されていた。

 

 事が終わった後で彼は、俺とおまえは同じだ、と彼女に言った。これまで散々踏みにじられてきた俺たちには、奪った奴らから奪い返す真っ当な理由がある。

 生き長らえたければ、おまえもそうするこったな。


 違う、とキルケは言い返したかった。私はあんたのようにはならない。

 けれどキルケは心身ともに疲弊していて、泥のような眠りに落ちたのだった。




○●○●○




 正妃は黒く澄んだ冷たい瞳で、私たちを交互に見た。

 普段着姿ではあるが、長い髪をきっちりと結い上げ、深夜にも関わらず綺麗に化粧を施している。私はこれまで、この人が寛いだ格好をしているところを見たことがない。

 その品格に押されるように、私も女もその場に膝をついた。


「このような時刻に騒いでいてはいけません。今夜は陛下がお渡りなのですよ」

「も、申し訳ございません、正妃様」


 女は気の毒なほどかしこまって、蚊の鳴くような声で詫びた。よほど正妃が恐ろしいのだろう。

 正妃は後宮の女主人に相応しい威厳を持って、女に言葉を掛ける。


「それに、そのような軽装で出歩くものではないわ。早く部屋に戻ってお休みなさい」

「はい……失礼致します」


 女は深く頭を下げてから立ち上がり、足早に廊下を去っていった。もう私のことなど忘れてしまったかのようだ。

 正妃の命令は絶対なのだ。ある意味、国王のそれよりも逆らうと恐ろしい。

 この女の園において、正妃はわざと若い妾妃たちと距離を取っているようだった。彼女らの教育は他の側室たちに任せ、自らは積極的に係わろうとはしない。出て行くのは彼女らを叱る時だけだ。

 そうやって親しさを排除し、憎まれ役を買って出ることで、正妃は入れ替わりの激しい後宮の秩序と風紀を保とうとしているのだと思う。


「もうお立ちなさい、キルケ」


 正妃に言われて、私は立ち上がった。彼女の眼差しはいくぶん和らいでいる。


「お騒がせを致しました」

「後宮の女のやっかみなど、まともに受けてはいけませんよ」


 女の去って行った方向をちらりと見やって、小さな息をつく。


「あの娘には近々暇を出すつもりです。よく尽くしてくれましたが、陛下が飽きてしまわれた以上、仕方がありませんね」

「そうですか……お気の毒に……」

「退職金の額と、降嫁を希望する殿方の面々を見れば、傷も癒えましょう」


 正妃はやや皮肉っぽく微笑んだ。

 不思議なことに、彼女は一度も私を蔑みの目で見たことはない。生まれながらにこの国で最高の身分を持ち、結婚してからも国王の正室として敬われる立場の人間の、これは余裕なのかもしれなかった。

 私もまた、普段それほど接点のない彼女になぜか親近感を持っていた。非常に畏れ多いことではあるのだけれども。

 彼女も自らの役割を忠実に演じている――そう感じるからだ。


「そなたも早くよい所へ嫁がなければね」


 正妃は丁寧に磨いた爪で唇をなぞった。とても洗練された、落ち着いた色香の漂う仕草だ。


「女が若く美しい季節はとても短いですよ。子を産める時間もね」

「私のような年増は、もう、そのような」

「シャルナグは面白味のない男かもしれませんが、一本気です――どこぞの殿方とは違って。きっとそなたを大切にしてくれましょう」


 私は軽く目を閉じた。将軍に想いを寄せられていることは誰にも話していないのに、気づいている人は気づいているようだ。

 そんな私を見て、正妃は明るく微笑んだ。屈託なく笑うと、異母弟でもある国王に少し似ている。この人はもともと太陽のように朗らかな女性なのかもしれないと思う。


「報われぬ恋は、そなたには似合いません」

「正妃様……」


 熱を帯びた微風に衣装の裾を閃かせながら、正妃は涼やかに澄んだ表情をしていた。


 ああこの人は何もかも知っている。知っていて腹に収めている。

 だとすれば、私が自分の役割に満足しきれず、すべてを投げ出して心に正直になりたいと思うことがあることも知っているのだろか。

 そして、彼女にもまた、国王正妃という役割を捨てても欲したものがあるのだろうか――。

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