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女に所望されるまま5曲を歌い終わると、ちょうど時刻は夜半になった。
「ご苦労だった、キルケ、相変わらず素晴らしい」
国王は拍手をして、私を誉め称えた。
私は微笑んでお辞儀をする。
身体が火照り、心地よい疲労感に包まれていた。濃密な睦事の後で優しく愛撫されているような幸福を感じる瞬間だった。
しかし、私の出番はここまでである。
「感動しましたわ、キルケ様。胸が熱くなるよう」
女は心臓の上に手を当ててそう言う。偽りのない心からの称賛がこもっているのがよく分かる。
「何だか切なくなってしまいました……またぜひ、おいで下さいませね」
少し涙ぐんでさえいる彼女の髪を、国王は優しく撫でた。
「……湯浴みをしよう。おいで」
耳元で囁かれて、女は頬を染めた。隣室ではすでに、女官たちの手で沐浴の準備が整えられているはずだ。
衣擦れの音とともに二人が立ち上がるのを待ち、私は部屋の隅に下がって控えた。
まるで戦利品を扱うかのように、国王は女の腰に強く腕を巻きつけて、浴室へと歩き出す。私の前を横切る時、一瞬だけ目が合った。
いつもの通り、あくまでも明るい瞳だ。後ろめたさの欠片もない。
私はわずかな笑みをそのままに、恭しく頭を下げて見送る。こちらもいつも通りだ。自分の中の生ぬるい感情を、彼に気取られてはいないはず。
彼の束の間の戯れの相手に、この私が嫉妬するわけにはいかなかった。
私は自分の役割に満足している。
○●○●○
「あんたの声はまあ綺麗だけど、歌も上手に歌うけど、恋歌だけは頂けないわねえ」
キルケにそんなことを言ったのは、同じ遊郭で働く遊女の一人だった。
彼女は目の覚めるような美貌を持った、店いちばんの売れっ子だった。
奴隷の身でありながら学問や芸術にも秀でており、いわゆる高級娼婦とされる遊女だった。花代は当時のキルケの十倍はしただろう。そんじょそこらの男の手が届く相手では到底なく、また店の主人も売り惜しみして価格を釣り上げたので、彼女の客は豪商や貴族ばかりだった。
女王のごとく遊郭に君臨していた彼女は、仕事前の私室にキルケを呼び歌わせて、そう言ったのだった。
恋歌が頂けない、などと言われたのは初めてで、キルケが納得のいかない顔をしていると、彼女は黒い癖毛をくるくると指に巻きつけながら、笑った。
「気を悪くしたのならごめんなさいね。でもあんたの歌う恋の歌は、どうにも心に響いてこないのよ。ここんところが熱くならないの」
彼女は宝石で飾られた豊かな胸を押さえて肩を竦めた。そんな仕草ひとつにも匂い立つような色香が漂う。
噂では、某国の王族の出身であるとか。国が滅びた際に敵国の捕虜になり、ここへ売られたのだという。宣伝のために意図的に流布された噂であったかもしれないが、それもあながち嘘ではないと思えるほどの自然な品があった。
「きっとあんたはまだ恋をしたことがないのねえ」
「恋……なんて私たちには必要ないものだわ、お姐さん。お客に心を売ってはいけないんでしょう?」
「そう、その通りね。でもキルケ、私たちはこの身を縛られているぶん、心は自由でなくちゃいけないのよ。でなきゃ人形と同じだわ」
「自由……?」
その意味を図り兼ねるキルケの頭を、彼女は優しく撫でた。妹にするように。
「何もかも捨てても添い遂げたいって、そんなふうに思える相手に、あんたも早く出会えるといいわね」
少し悲しげだった彼女の眼差しの意味を、後になってキルケは知る。
二年後、その遊女の身請けが決まった。遊郭の強欲な主人を黙らせるほどの金貨を積みあげ、彼女を妾として囲いたいと申し出たのは、その街を統治する領主であった。
金はもちろんのこと、権力者を味方につけることは店の今後にとって大きな利益だ。また領主が相手なら、同じく身請けを希望していた他の馴染客の恨みを買うこともあるまい。主人は一も二もなくその申し出を受けた。
契約書が取り交わされたその夜、彼女は遊郭から逃亡した。
下働きの若い奴隷の男と手に手を取り合って。
女王のまさかの暴挙に、キルケたち他の遊女は騒然となったが、遊郭に雇われた百戦錬磨の用心棒たちの追跡から逃れられるはずもなく、翌日には二人は捕縛された。
用心棒たちの手で、男の方は捕まってすぐに斬り殺された。
遊女は無理やり連れ戻され、領主の元へ差し出されたが、数日の後に舌を噛んで自害したという。
事の顛末を聞き、あの美しい遊女がこれほど激しい想いを内に抱えていたと知って、キルケは空恐ろしくなった。
あんなふうにはなりたくない――この街最高の遊女としての名声も、約束された平穏な暮らしもかなぐり捨てて、恋に走ってしまうなんて愚かだと思った。
領主に恥を掻かせる大失態を犯した遊郭は、もうその街で商売を続けることはできなかった。
主人は店を畳み、使用人と奴隷たちを伴って他の都市へ移ることにした。
○●○●○
女官から今夜の報酬を受け取って部屋を退出した私は、中庭に面した廊下に出て息をついた。
新月に近い今夜は、まだ空に月の姿がない。代わりに、冷たい金属音が響いてきそうなほどの星空が広がっていた。
歌唱の興奮が抜けると、毎度のことながら言いようのない脱力感が全身を襲う。身体が疲労すると気持ちも弱くなって、私は大きな石の柱に凭れた。
結局、いつも私の歌は彼に媚薬を与えるだけだ。私の歌が彼の欲望を掻き立てたとしても、それは別の女に向けて解消されるのだから。
自分の役割に満足している――本当に?
ふと、空気の振動を感じた。物思いに耽っていても、私の鼓膜は敏感に反応する。
振り向くと、廊下の奥から女が歩いて来ていた。
国王の妾妃の一人だった。上着も羽織らず、薄い部屋着姿の女は、物憂げに長い髪を掻き上げている。蒸し暑く寝苦しい自室を抜け出して、夜気に当たりに来たものであろうか。
彼女は私の姿に気づくと、一人の時間を邪魔されたと思ったか、その視線を険しくした。
「これはキルケ様……今宵も後宮でお仕事だったのかしら?」
化粧は落としているはずなのに透き通るほど白い肌と、金色に近い明るい色の髪をした美女である。西方の血が混じったその美貌で国王の心を捉えたのだろう。確か――一昨年のことであったか。
私は軽く頭を下げた。
「ええ、陛下にお招きを頂きました。新しいお妃様のお部屋で歌ってきたところですわ」
女の細い眉が吊り上がる。新しいお妃、というところに引っ掻かったのか。悪意を込めたつもりはなかったのだが。
「そう……ではお役目が終わったのなら早々にお帰りになっては? ここはあなたのような方が長居をする場所ではなくってよ」
と、棘のある口調で言われてしまった。
私にとっては完全にとばっちりだけれど、彼女の気持ちが分からなくもなかった。
後宮の噂では、ここのところ彼女の元から国王の足が遠のいており、新入りの妾妃と交代に暇を出されるのではと囁かれている。今も、彼が若い女と戯れていると思うと気が気でなく、のんきそうな歌手に八つ当たりもしたくなるだろう。
この後宮では妾妃の交代が非常に頻繁である。理由は単純――もう国王に子を作る気がないからだ。
彼にはすでに六人の子がいるが、末娘を除いて年齢がほぼ同じという事実から考えても、実に計画的に子を儲けたのが分かる。後の無駄な継承争いを避けるためか、彼はこれ以上血を増やすつもりはないようだった。そもそも、彼は王族が増えすぎるのを快く思っていない節がある。
それでも彼の漁色は昔から変わらず、だからこそ、一人の女を長く後宮に留め置くことはしない。子を産まさぬ以上、花の盛りが過ぎる前に別の男へ降嫁させてやろうという『配慮』のためである。
花嫁にそれほど厳格に処女性を求めないのがこの国の大らかなところで、美しく洗練され、しかも王宮との繋がりを持った元妾妃を妻にと望む男は少なくない。実際、貴族や豪商に嫁いだ例も数えきれないのだ。
国王との間に子を儲けた正妃と側室は別格として、その他の妾妃は長くても二年で暇を出されるのが普通だった。
需要と供給が釣り合っており、女たちのその後が厚遇されているとはいえ、私はこう思わずにはいられない。
あの男、いい所だけ摘み食いしてるわ――。
しかし彼のそんな振る舞いを批判できる人間はこの国にはいない。
彼はすべての責任を負う立場で、だからこそ、どんな身勝手をしても許容される。やりすぎれば、そのしっぺ返しは彼自身が食らうと、本人も弁えているはずなのだ。
「申し訳ございません、すぐにおいとま致しますわ。ここは居心地がよくってつい……」
取り繕うようにそう言って、同情の眼差しで見てしまったことが、彼女の神経をますます逆撫でしてしまったようだ。
「居心地がいい? ああそう、でもあなたが以前にいらっしゃった所とはずいぶん違うでしょう?」
女は明らかな悪意を込めて、口元に薄い微笑を浮かべた。そうすることで自らの心の均衡を取り戻そうとするかのように。
ここで彼女と諍いを起こすつもりはなかったが、
「そうでしょうか。あまり変わらないと思いますけれど」
とだけ答えた。
相手の男が一人しかないという意味で、ここの競争は遊郭よりも熾烈だ。
彼女は色素の薄い目を不愉快そうに細めた。
「聞き捨てなりませんわね、オドナス王の後宮を卑しい娼館と同じにするなんて。ここは本来ならばあなたのような方が入れる場所ではないのよ。その背中に背負ったしるしの意味をよく考えて、もう少し謙虚になったらいかが?」
こういう言葉はこれまで散々浴びせられており、私はもう慣れてしまっていた。むしろ彼女の歪んだ優越感に憐憫の情を感じる。己が満たされた人間は、決して他人を蔑んだりしないものなのだから。
私はなるべく声に感情を込めないようにして言った。
「もと奴隷の女が後宮で歌うのがお気に召しませんか?」
「ええそうね、確かにあなたの歌はお見事だわ。でも歌えなくなったらそれでお終い――あなたには他に何もないんですもの。陛下のお心も離れてしまうわ。お気の毒にね」
「おっしゃる通り、私には歌しかございません」
私は彼女の皮肉に答えた。別に腹が立ったわけではないし、黙って受け流すべきだとも分かっていた。
「ですから私はいつも全身全霊を込めて歌っております。何ら恥じ入るところはございません。だからこそ陛下は私を寵愛して下さるのですわ――あなたよりもずっとね」
つい攻撃的な姿勢になってしまうのは、やはり私の育ちが悪いからだろうか。
女の白い顔にどす黒い血が上ったように見えた。
「何ですって……歌手風情が……」
謝るつもりはなかったが、ぶたれるかな、と思った。
だが、女の手は上がらなかった。
「何をしているの」
落ち着いた声が、私たちの間に割り込んできたからだ。
少し離れた所から私たちを見詰めていたのは、タルーシア正妃だった。




