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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第三話 初恋 ~ 蜜月の果て
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<11>

 七ヶ月前の別れの夜と同じ、重苦しい沈黙が流れる。

 ミモネは大きな目をますます大きく見開いて、セファイドを凝視していた。あの時の再現にだけはしたくなくて、セファイドは深く息を吸い、吐いた。


 彼は躊躇なく、その場にすとんと膝をついた。


「即位して以来、人間の前で跪くのは初めてだぞ」


 後ろめたさの欠片もなく、むしろ堂々と見上げてくる国王を前に、ミモネは少し眉を上げたが、


「そりゃそうでしょうね」


 と、平然と見下ろす。


「ミモネ、俺の所へ来てくれ。おまえを束縛したいわけじゃない。俺はおまえとこの子を守りたいんだ。大切にすると誓う。二度と辛い思いはさせない」


 セファイドは右手を伸ばして、ミモネの腹に触れた。新しい命の宿ったそこを慈しむように、愛おしげに。ミモネは拒まなかった。


「この子と一緒に傍にいてほしい。俺が死んだ者たちに恥じない生き方ができているかどうか、見極めてくれ。もし今度俺が愚かな振る舞いをしたら、捨ててしまって構わないから……どうか猶予をくれ」


 切々と、しかし恥じ入ることなく言葉を紡いでゆくセファイドの肩に、彼女は手を置いた。呆れたように天を仰いでいるが、表情はいくぶん和らいでいる。


「でも、私はあなたのことなんて全然愛してないんだけど?」

「知っている。これから愛してもらえるように努力する」

「この先もあなたの隙を突いて命を狙うかもしれないわよ」

「構わない。そのくらいの緊張感があった方が面白い」

「……じゃあ、私があなたに触れられるのも嫌だって言ったら、どうするの?」

「おまえがいいというまで、指一本触れない。傍にいてくれるだけでいい」


 あまりにも迷いのない口調で、それが不思議と嘘っぽく聞こえなくて、できやしないくせにと思いながらもミモネは苦笑してしまった。

 ようやく彼女の笑顔が見られて、セファイドも相好を崩した。以前に比べて彼女が太ったり痩せたりしていないことに、今さらながら安堵する。顔色もいい。本人も胎児も元気なのだろう。


「ほんとに、面倒臭い人」


 ミモネはセファイドの髪を撫でて、その頭をそっと自分の腹部に引き寄せた。

 少し戸惑いながら、セファイドは耳を押し当てた。大人のものよりずっと速い鼓動が、力強く鼓膜に響いてくる。確かな命の存在を実感できた。自分と自分の愛した女の子供が、今ここで生まれる日を待っているのだと思うと、不思議な高揚感が彼を包んだ。

 無駄な後継争いを回避するため、もう子は増やさないと決めていた。ミモネの懐妊はいわば事故だったが、セファイドは素直に嬉しかった。

 生まれてきたら、自分はどれほどこの子を愛するだろうか――。


「俺を父親として認めてくれるか?」


 神を待つ敬虔な信徒のような、祈りの声に似たその問いかけに、ミモネははっきりと肯いた。

 ほうっ、と低い溜息が見物人の間から漏れた。二人の交わす会話の内容まで聞こえているかどうかは分からないが、何となく結末が気になって、皆その場に留まって見守り続けているのだ。

 ミモネも膝を折って、セファイドと視線の高さを合わせた。腹が重いからか、その動きはゆったりとしている。


「初めて会った夜、あなたは私を助けてくれたじゃない?」


 抑えた優しい声音で囁くミモネに、セファイドは極まりが悪そうに笑う。


「お節介だと言われたがな」

「下心が見え見えだったもの。でもね……本当は私あの時、凄く嬉しかったのよ。いつも自分で何とかするしかなかったから、もう慣れちゃってたけど、こうやって真っ向から手を差し伸べてくれる人もいるんだなあって……テクスがそうだったみたいに」


 ミモネは彼の手を取り、自分の頬に当てて笑った。





 自分の元に通ってくるのはとんでもない身分の男だと、ミモネは徐々に確信を持った。

 最愛の恋人の死の上に生還し、平気な顔で次々と戦争に勝っていく男――自分もまたオドナスの繁栄を享受している以上、仇だと恨むのは間違いだと理屈で分かってはいた。

 それでも名もなき兵士の犠牲を思い知らせてやろうと決めた。

 身体を許してから、彼が自分に執着するようになったのはミモネにとって幸いだった。思う存分嘲弄して、手酷く捨ててやろうかとも思った。寝首を掻く機会も何度もあった。

 しかし、結局ミモネには思い切ることができなかった。彼女もまた、彼と過ごす時間を心地よく感じるようになったからだ。


 自らのもとに異性が訪れること、その男のために部屋を整えること、二人分の食事をこしらえること、くだらない会話を楽しめる相手がいること――そんな日常は彼女にとって久し振りで、復讐を遂げるまで彼を繋ぎとめる手段だと割り切ろうとしても、ひどく居心地がよかった。

 民のために尽くすべき国王が、女一人にうつつを抜かして職務を疎かにしていると思うと、自分の仕掛けた結果とはいえ腹が立った。それでいて。


 広い胸で包み込むように抱き締められ、指で髪を梳かれ、耳元で名前を囁かれると、目的など忘れてしまうほど甘やかな気分になる。自分を求める相手の気持ちが肌から伝わってきて、それに巻き込まれそうになる。そして何より――悪夢にうなされて目覚めた夜更け、隣で眠っている人間の存在がミモネを安堵させた。震えて息を整える彼女を、彼は寝惚けながらも優しく抱き寄せる。彼女はその度に泣きそうになった。

 その気持ちを安易に愛情と呼ぶほど初心な女ではなかった。自分が酔っているのは彼本人ではなく、彼の与える状況にすぎないと冷静に判断できる。ただ、肌を交えるとたやすく情が湧くものだと、自分はそれほど寂しかったのだと、ミモネはつくづく思い知った。

 女の業のようなものかもしれなかった。だから妊娠が分かった時、彼女は妙に納得したのだった。堕そうとは露ほども考えなかった。あの蜜月の果てに新たな命を宿したのは、自分が女である以上当然の結果なのだ。

 父親の素性など、どうでもよかった。





 セファイドはミモネの肩に腕を回して、強く引き寄せた。心地よい彼女の匂いがふんわりと漂う。長いこと嗅いでいなかった優しい匂いは、ひどく懐かしかった。

 ミモネは大人しく彼の胸に凭れて、目を閉じた。


「私、あなたのこと愛してないけど……嫌いじゃないと思う、たぶん」

「それで十分だ。嬉しいよ」


 本当に、こうやって触れ合っているだけで彼は身も心も満たされる気がした。温かくて強い彼女の生命力を両腕に感じていると、自分の中の欠落した部分が埋められていくように思える。


 誰かが拍手をした。つられて次々と、人々の間から拍手が湧き起こる。祝福というより、めでたしめでたしの演劇の結末に対する拍手のようで、セファイドは何とも居心地が悪かったが、今さら逃げ隠れするつもりもなかった。


「おまえを俺の傍に……後宮に迎えてもいいか?」


 ようやく腕の中に取り戻した女の髪を撫でつつ、是という返事を確信してセファイドは尋ねた。

 ミモネは顔を上げ、優しく艶やかに微笑んだ。幸せな結末の舞台劇に相応しく。

 そしてあっさりと、


「それは無理、ていうか、嫌。だってあなたには奥さんがいるでしょ」


 一瞬にして白く凍りついた空気の中で、何だ不倫かよ、と誰かが呟いた。




○●○●○




 あなたの子供は産むけれど、あなたの妻の一人になるなんてごめんだわ。後宮なんてややこしそうな所、絶対に行かない――ミモネは強固に申し出を拒んだ。

 ――子供は自由な平民として育てます。無理矢理奪い取ろうとしたら、この子連れて王都から逃げてやるからね。


 確かに、平民の女であるミモネを正式な側室に迎えれば、あちこちで不毛な反発が起こるのは目に見えていた。彼女にも不愉快な思いをさせてしまうことだろうし、生まれてくる子を微妙な立場に追いやってしまうかもしれない。

 その意味でミモネの拒絶は至極真っ当で、だからこそセファイドは無理強いはできなかった。


 子供が無事に生まれてからもミモネの態度は変わらず、彼はこれまで通り彼女の元へ通うしかなかった。

 ただ彼が外に妻と子を持っているという事実は王宮内で公になったので、側近の目を盗んで脱出する必要はなくなった。あくまで忍びではあるが、目立たぬように護衛がつけられ、公明正大に会いに行けるようになったのだ。


「子供と……リリンスとともに王宮で暮らせばいいと、何度も勧めたのだがなあ……」


 セファイドは空になった杯を床に置き、億劫そうに立ち上がった。少し足元がふらついて、楽師が素早く身体を支える。


「ご酒が過ぎましたか、陛下」

「うん、久々にな……飲みすぎたよ」


 顔こそ赤らんでいないものの、全身を倦怠感が覆っていた。楽師の手の冷たさが妙に心地よく感じる。

 セファイドは長椅子に腰を下ろして息をついた。


「おまえは少しも酔っていない。本当に強いのだな」

「体質です」


 最初と同じ答えを返して微笑む楽師から、彼は目を逸らした。王都中の酒を集めてきても、この異国の旅人を酔わせることはできないのではと思えた。

 時刻はもう夜半に近い。新月の今夜は空に神の姿がなく、短くなった蝋燭の覚束ない灯りだけが光のすべてだった。


「今思えば、無理にでもミモネを後宮に連れ帰っていれば、病気で死なせてしまうこともなかったのかもしれん……リリンスにも辛い思いをさせずにすんだ」

「野に咲いてこそ美しい花もありましょう。手折ってしまえばすぐに枯れてしまいます。陛下に大切にされて、御方様はお幸せだったと思いますが」


 楽師の言葉は慰めだったのかもしれない。セファイドは気だるげに笑った。


 彼にとってミモネは心底愛した最初で最後の女であったが、結局彼女は彼を愛しているとは言わぬままに逝ってしまった。また彼も、彼女を死ぬまで日陰の身に置き続けた。

 幸せではあっただろう。だが、時折こうやって波のように後悔と侘しさが襲ってくる。

 ミモネと出会った頃の自分はあまりに若すぎて、彼女の思いを推し量る余裕も度量も足らず、自分の気持ちばかりを押し付けてしまった。今なら、今の自分ならば、もっとマシな愛し方ができただろうに。


 酔いが回ってきて、セファイドは長椅子に横たわった。


「やれやれ……俺を酔い潰したのはおまえが二人目だよ……」


 声の最後は細く消えた。意識が混濁してくる。瞼が落ち、甘い酩酊に身体が落下してゆく。


 ――まったく、いつまでぼやいてんのよ。


 温かな掌の感触を頬に感じた。


 ――情けないわね、しっかりしなさい。王様でしょ?


 懐かしい匂いが鼻孔をくすぐる。心地よいこの匂いは彼女の香りだ。耳元に柔らかい吐息がかかる。額に唇が触れる。

 ミモネ、おまえなのか? そう言おうとしたが、声は出なかった。瞼も開かない。

 本当に彼女がそこにいるのか、自分が夢を見ているのか、セファイドには分からなかった。どちらでも大差はないと思って、その優しい愛撫に身を任せた。

 時折、こんなふうに彼女の気配を身近に感じることがあった。入眠の直前、浅い微睡にたゆたっている短い時間だ。完全に眠った後の夢の中に出てきたことはないのに。

 まだ見捨てられていないとすれば、自分はそれなりの生き方ができているのかもしれないな――酔いのせいか、珍しくそんな感傷的なことを考えながら、彼は深い眠りに落ちた。


 長椅子の上で寝息を立て始めた国王を、楽師は穏やかに見下ろした。不思議な色の瞳からは感情が伺えない。だが、今日出会ったばかりのこの男に興味を持ったのは確かなようだった。


「……砂に埋もれさせるには惜しい」


 そう呟いた声は、かすかな羨望と感嘆を含んでいた。


 恋人と眠るように安らかなセファイドの表情をしばらく眺めた後、彼は、隣室で待機する侍従見習いの少年を呼ぶためにその場を離れた。

 

                                        -第三話 了-

ミモネに泣きながら拒絶された上、説教を食らった経験はセファイドの中でかなりトラウマになっており、以来彼は女に泣かれるのが物凄く苦手です。第一話で大泣きした愛人に手が出せなかったのもそのせいです……ってこれはどうでもいい裏話。


これにて番外編は終了です。お読み下さった皆様、本当にありがとうございました。

性格の違うヒロインが書き分けられていたかどうか、そもそもちゃんと恋愛になっていたのかどうか、甚だ不安です。

ご意見、ご感想ありましたらお寄せ下さいませ。

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