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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第三話 初恋 ~ 蜜月の果て
24/25

<10>

 七ヶ月が過ぎた。


 その知らせがセファイドの元にもたらされたのは、まったくの偶然がきっかけだった。

 その日、王軍の大隊長であるシャルナグは、市中にある憲兵隊の詰所を訪れていた。組織の硬化と派閥化を防ぐ狙いで、王軍内では所属を超えた人材交流が盛んだった。シャルナグの隊からも数名の若手士官が憲兵隊に派遣されており、彼らの様子伺いを兼ねて視察にやってきたというわけだった。

 部下たちを激励し、上官と少し話をしてから、シャルナグは詰所を出た。あまり長時間居座ってしまうと煙たがられるだろうし、今日はこのまま自宅に直帰してしまうつもりだった。

 部下の随行を断り、軍服姿のまま午後の大通りをぶらぶらと歩いて帰途についたシャルナグは、庶民向けの安い布地屋の店先で、偶然にミモネを見かけたのである。


 熱心に商品の品定めをするその姿を目にして――シャルナグは血相を変えた。

 声を掛けて問い正そうかとも思ったが、身分を明らかにしてしまう自分の服装に思い至って迷った。また、何より先にセファイドに知らせるべきではと逡巡しているうちに、ミモネは店を離れて人混みに消えてしまった。


 直帰の予定を取りやめて大急ぎで王宮に引き返した彼は、セファイドの身体が空くのをジリジリしながら待ち、侍従たちが書類を抱えて退出すると同時に執務室に飛び込んだ。





 その夜は隣国の大使を迎えての晩餐会が催されたため、セファイドはどうしても外出することができなかった。

 大使との会談に集中しようと努めながらも焦りは募って、彼はほとんど眠れぬままに朝を迎えた。

 彼の自室へ来て、本日の仕事の予定を読み上げるエンバスに対し、


「もう二度と勝手はしない。これが最後だから見逃してくれ!」


 と頭を下げて、彼は返事を待たずに部屋を走り出た。





 『ねずの木』の店内では店主と女将が料理の仕込みをしていた。

 尋常ならざる勢いで駆け込んできたセファイドを驚いて眺め、それから夫婦で顔を見合わせた。まだ時刻は午前で、飲みに来るには早すぎる。


「ミ、ミモネは……どこにいる? 部屋に行ったが……留守で……」


 王宮からずっと走って来た彼は、さすがに息を切らせて尋ねた。額に汗の玉が結ばれている。

 唖然としていた店主であったが、やがて何かに思い至ったように何度も肯いた。


「ああ、そういうことか……あんたがミモネの……なるほどねえ……」

「あの娘に何の用があるっていうのさ!?」


 胡散臭げな視線で睨めつけてきたのは女将であった。普段は朗らかで威勢のいい丸顔が、今は敵意をたっぷり乗せて歪んでいる。


「あんたがミモネに何をしたか、本人は何も言わないけど私らだいたい分かってる。長いことほったらかしにしといて、今さらやって来たって遅いんだよ」


 叩きつけるような口調でなじられて、セファイドは目を伏せた。


「そうだ、遅くなってしまった、本当に……責められて当然だと思っている。でもまだ間に合うのなら、彼女に会って謝りたい」

「謝ったってあの娘が許すもんか!」

「いい加減にしないか、おまえは」


 店主は鼻息の荒い女房を窘めた。首に掛けた手拭いで禿頭を拭いながら、


「ミモネは市場に出かけていますよ。材料の買い出しを頼んでいてね。会いに行ってやって下さい――ただし」


 と、人の好さそうな細い目を鋭くする。


「あの娘を泣かせるような真似をしたら、儂らは決して許しませんよ」

「分かっている。ありがとう」


 セファイドは夫婦に深く礼をして、身を翻した。





 朝の買い物客でごった返す市場で、セファイドはミモネを探し回った。

 着替える間もなく王宮を出てきたので、上等な絹の衣服の上に外套を引っ掛けただけの彼の姿は、明らかに庶民とは異なっている。金持ちの放蕩息子の朝帰りといったところだった。擦れ違う人々が物珍しげに視線を送るが、彼に気にしている余裕などなかった。

 店主は買い出しと言っていたから食材だと思って、食料品を扱う店を次々と覗いていった。


 人混みを掻き分け、山盛りになった香辛料の向こうを背伸びして眺め、けたたましく鳴き声を上げる鵞鳥の籠の間を擦り抜けて――甘い果物の香りにむせ返りながら、セファイドは、ようやく求める女の姿を認めた。

 ミモネは魚屋の店先にいた。並べられたアルサイ湖の鮮魚を前に、店主と何やら喋っている。


「じゃこれも一緒に頂くから、あと少しまけてよ」

「勘弁してよミモネちゃん。これでギリギリだっつうの」

「うっそお、私毎日買いに来てるのよ?」

「その代わり店まで配達すっからさ。こんなにたくさん運ぶの大変だろ?」

「配達は結構よ。1人で持って帰れるわ。だから、ね、もうちょっとまけて」


 若い店主は顔をくしゃくしゃにして、頭を掻いた。


「ったくしょうがねえなあ! 今のあんたにこんな重い物持たせられるかよ。分かった、その値段でいいよ、後で店まで届けとくから!」

「ありがとう! また飲みに来てね。いっぱいおまけしてあげる!」


 ミモネは輝くような笑顔を見せて、財布から銀貨を取り出して店主の掌に乗せた。値切り交渉には慣れているらしい。

 野菜の入った買い物籠を抱え直し、満足げに魚屋の店先を離れたミモネの視線の先に、セファイドが立っていた。


 七ヶ月ぶりの、突然の再会。

 ミモネは一瞬何が起こったのか理解できていないように表情を強張らせた。それから、ゆっくりと息を吐く。

 軽い狼狽――まずいな、と噛み締めた唇が語っている。


 セファイドもまた息をついた。

 彼の目の前にいる女、彼が求めても手に入らなかった唯一の女は変わらず美しかった。初めて日の光の下で彼女を見て、その凛とした美貌に改めて感嘆した。夜の薄闇よりもずっと明るい日差しが似合う。

 長く真っ直ぐな黒髪を後ろで束ね、少女のように可憐な顔立ちは清楚に整っている。ただひとつ彼の記憶と違っているのは、木綿の質素な仕事着の腹部が――はっきりと膨らんでいることだった。


「ミモネ……」


 セファイドは呻くように彼女の名を呼んだ。シャルナグは街でミモネのこの姿を見て、慌てて彼に知らせてきたのだ。


「子供ができていたのか……」


 ミモネは答えず、籠を持っていない右手で腹を押さえた。


「俺の子だな」

「……例えそうでもあなたには関係ない」


 初めて返ってきた返事は、冷たいというよりさばさばしていた。必要以上の敵意は籠められていない。今日会ったばかりの他人に答えるような。

 素っ気なさすぎる態度にいちいち傷ついてはいられなかった。セファイドは大股で歩いてミモネに近寄った。


「大事なことだ、ちゃんと答えてくれ。その腹の子の父親は俺なんだな? それとも誰か別の……」

「馬鹿っ!」


 ミモネはいきなり怒鳴って、彼の顔を殴った。

 女の拳とはいえ、不意打ちを食らった彼は軽くよろめいた。これで3度目だ。


「おまえは! 何ですぐ暴力に……」

「他の男なわけないでしょう! 誰とでもこんなことする女じゃないって言ったはずよ!」


 ミモネは少し頬を紅潮させてセファイドを睨んだ。関係ないと言いながらも彼の失言にカチンときてしまったようだ。本当に気分屋で手に負えない――セファイドは呆れたが、腹は立たなかった。


 市場の真ん中で突如始まった痴話喧嘩を、通行人が興味深げにちらちらと見ていく。中には足を止めて成り行きを眺める暇人たちもいた。


「……ありがとう」


 セファイドは、ただそう言った。

 好きでもない男の種を処理する手立てはいくらでもあったはずだ。そういった手術を請け負う医師は、合法非合法を問わず王都には大勢いるし、怪しげな堕胎薬の類も出回っている。しかしミモネはそれをしなかった。セファイドが見つけなければ、おそらくこのまま一人で産んで育てるつもりだったのだろう。


「お礼なんか言わなくていいわ。この子は私の子だもの」


 ミモネは怒ったように顔を背け、再び下腹部に手をやる。

 妊娠が分かってから産むと決心するまで、どれほど心細い思いをしたか――それを気取られまいと意地を張っているのが分かって、セファイドは泣きたいような気持ちになった。


「すまなかった、ミモネ」


 彼はミモネの手を両手で包み込んで、詫びた。


「おまえとおまえの大事な男に、俺は酷いことを言った。おまえを傷つけて逃げてしまった。今さら謝って済むとは思わないが、許してほしい」


 硬く温かな掌の感触に、ミモネは強張った表情を一瞬崩しかけたが、すぐに首を振った。


「謝んなくていい。私の方こそあなたを殺そうとした。弑逆罪で打ち首になってもおかしくないのに、見逃してくれて感謝してる」

「殺す気などなかったくせに」

「それに、あなたを遠ざけたのも私。だから別に罪悪感を感じる必要はないわ」

「罪悪感ではない! 罪悪感ではなく……俺は……」


 ミモネの手を握った指に、彼は力を込めた。


「俺はおまえを愛しているんだ」


 よく言ったぞ兄ちゃん、頑張れ、などという声援が周囲から飛ぶ。

 気づくと、いつの間にか二人の周りには見物人の人垣ができていた。貴族かと思われるほど身なりのいい若者が美人の妊婦に求愛している現場など、そう見られるものではないから無理もない。

 セファイドは小さく舌打ちをする。自分の治める国ながら、この物見高い国民性は何とかならないものか、などと思いながら、とりあえずここから立ち去ろうとミモネの手を引っ張った。

 しかしミモネはその場から動こうとせず、セファイドの手を振り払った。彼女は冷ややかな眼差しを向けている。


「笑わせるわね『セト』。あなたの言う愛してるは、単に私が欲しいって意味でしょ? あなたは、ヤリたい時にヤレるそこそこいい女を手元に置いておきたいだけ。鳥籠の中に綺麗な鳥を捕えておくみたいにね。子供はその代償とでも思っているの? 冗談じゃないわよ!」


 身も蓋もない罵倒に、うわあ酷い、最低ね――今度はそんな女性陣の非難がざわめいた。


「違う! 確かに俺はおまえのすべてを手に入れたくて、死んだ恋人にも嫉妬して、おまえを奪い取ろうとした。だが身体を縛りつけたところで心までは得られないと……自分がどんなに浅ましくて愚かなことをしているか、ようやく気づいたんだ。そんなのはただの所有欲にすぎなかった」


 セファイドは翳りのない瞳をますます輝かせて、ミモネに語りかけた。彼がミモネに初めて見せる、真摯で切なげな表情だった。

 やはり普通の人間とは少し違う、その強い眼差しにミモネは気を飲まれた。


「今は……おまえが傍にいてくれればそれだけでいいと思っている……本当だ」


 泣かせるねえ、姐ちゃん信じてやれよ、という応援と。

 騙されるんじゃないよ、どうせ口先だけよ、という忠告と。

 いや一人で育てるのは大変だよ、多少のことには目を瞑れ、という妥協案が、交互に飛び交った。見物人の間でも見解が分かれているようだ。


「やかましい! 外野は黙ってな!」


 ミモネは大声で一喝して、無責任な野次馬どもを黙らせた。

 しん、と静まった市場の一角で、それでも好奇心に満ちた人々の前で、二人は対峙した。

次回で最終回です。

衆人環視の中、果たして彼は口説き落とせるのか!?

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