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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第三話 初恋 ~ 蜜月の果て
23/25

<9>

 セファイドはゆるゆると身を起こした。

 枕に突き立てられた短剣は、どう見ても兵士の持ち物だ。彼女の恋人の形見なのかもしれない。憎悪の籠ったミモネの眼差しを感じながら、こめかみを指で押さえた。


「恋人の仇討ちのために俺に近付いたんだな」

「私のことも調べたのね。出会ったのはもちろん偶然だったけど、あの晩酔って眠ったあなたの腕を見て、身分を探ってやろうって好奇心を持ったの。父の帳面を見て……どこにも載ってなかったから何度も見直した。まさかとは思ったけど気になって……」

「確かめるために誘ったのか」

「そうよ。うまく引っ掛かってくれて助かったわ」


 あの時の口づけ――セファイドに強烈な印象を刻んだあれは、彼の再訪を狙っての罠だった。

 ミモネは自分自身を餌にして、彼に抱かれる度にその右腕の模様を調べては記憶し、父親の記録と照合した。

 通ってくる男の正体に確信を持ってからも、どうすべきか彼女は最後まで迷った。


「……思い知らせたかったのよ、あなたに。そうやって生き残れた裏には、あの人の犠牲があったんだって」


 その結果があの行動だった。ギリギリで気が変わったのか、最初から殺すつもりはなかったのか、結局未遂には終わったが、彼に衝撃を与える目的は達成できたようだった。

 思いは叶えられたのに、ミモネは夜着の前を強く掻き合わせ、悲しげに顔を伏せた。


「あの人は兵士だった。よその国の兵士を殺したことだってあるはずよ。だから、逆に殺されたって文句は言えないし、あなたを恨む筋合いじゃないって分かってる。でもね」


 蒼白になった顔が上がる。唇も色を失い、細い眉根はきつく寄せられていた。


「この国の人は誰も彼の死を気にしないの! あの戦争はオドナスの大勝利だったから、守られて生き残ったあなたでさえあの人を悼まない! あの人さえ生きていてくれたら、この国が滅ぼうとアルサイ湖が干上がろうと、私は構わないのに……!」


 彼女は声を荒らげて、寝台に腰掛けたセファイドに詰め寄った。彼が初めて見るような生々しい怒りが全身に漲り、美貌を石像のそれに変えていた。


 また戦争に勝った、うちの王様は本当に強い、これでオドナスも安泰だ――人々のそんな称賛を耳にする度、ミモネははらわたが煮えくり返る気がした。国王が強いんじゃない、戦った兵士が勇敢だったんだ、そう言いたかった。

 なぜ死んだ自分の恋人は讃えられないのか、と。


「ではなぜ俺を殺さなかった? 絶好の機会だったのに」


 セファイドは対照的に落ち着いた口調で尋ね、ミモネを見上げた。胸の中に暗い澱のようなものが溜まるのを感じた。ひどく不快な、ねっとりと重いものだ。

 今にも掴みかからんばかりの勢いだったミモネは、ふうっと大きく息を吐く。


「さっきも言ったでしょう。あなたを殺せばあの人は犬死になってしまうから、助けてあげる。私とあの人のお情けで、あなたは生き長らえたのよ。それを忘れないで」

「なるほどな」


 蔑みきった彼女の物言いに、セファイドはうっすらと笑った。薄闇の中でその表情はひどく禍々しく見えた。

 彼は立ち上がり、ミモネの右腕を掴んだ。骨が軋むほどの強い力に、彼女の顔が歪む。


「おまえの恋人はどちらにしても死ぬ運命だったよ、ミモネ」

「何を……」

「もしまだ生きていたら、俺が殺してやった。前線に追いやったか、それとも何か適当な罪を被せて処刑したか……とにかく生かしてはおかなかっただろう。たかが斥候兵一人、処分するのはたやすいことだ。おまえを手に入れるためになら手段は選ばない」


 残酷で嗜虐的で、ミモネの怒りを逆撫でするような言葉だった。

 彼女は腕の痛みすら忘れて逆上し、自由な左手を振り上げた。


「この人でなしっ……」


 頬を打たれても、セファイドは何ら怯まなかった。逆に暗い感情が高揚し、怒りに震えるミモネの身体を引き寄せた。


「おまえはこれからも俺の傍に置く。後宮に連れ帰って、死ぬまで飼ってやる。俺を憎んでいようと関係ない。俺以外の誰にも触れさせない!」

「やっぱり殺しとけばよかったわ……あんたは最低の人間よ!」

「その最低の人間と何度も寝たのは誰だ?」


 抵抗をむしろ楽しむように、セファイドはミモネを抱きすくめた。

 ミモネの両腕が何度も胸を打ち、渾身の力で押し返す。つい数刻前に柔らかく彼を受け入れた華奢な身体は、今や全身で彼を拒絶していた。

 彼女の拳が胸にぶつかる度、そこに溜まった黒い澱が皮膚を破って流れ出す――その痛みをセファイドは感じた。溢れ出したのは血か、それとももっと汚らわしい何かか。

 彼はミモネを抱えるようにして、寝台の上に押し付けた。激しく抵抗を続ける彼女にのしかかって、その動きを封じる。そうしなければ、全身の皮膚が内側から引き裂かれる激痛に耐えられなかった。


「離して! 触らないでっ!」

「何を今さら……おまえだって結構楽しんでいたじゃないか」


 彼女の薄い夜着が乱暴に開かれた。露わになった白い素肌は上気して、あちこちに小さな赤い鬱血が散らばっている。自らのつけた情交の残滓に、セファイドの欲望が掻き立てられた。


「淫乱な女め。恋人を殺した男に抱かれる気分はどうだ……?」


 本当に言いたいのはこんな言葉ではないと、彼は自分で分かっていた。けれど止められなかった。

 眼前の女への想いで心臓が焼けつく。何としてでも手に入れたい――滅茶苦茶に壊してでも。


 首筋に浮かんだ赤い痕跡のひとつに再び口づけられて、ミモネは顔を背けた。皮膚に爪痕がつくほど荒々しい愛撫に歯を食い縛って耐えていたが、両膝が強引に開かされた時、彼女はついに声を上げた。


「やめて! い……嫌あっ……!」


 気丈な彼女がこんな悲鳴を上げるのを、セファイドは初めて聞いた。


「嫌……助けて――テクス!」


 彼を死なせた国王の前では意地でも口にするまいと、おそらく彼女が誓っていたはずの恋人の名前だっただろう。大事なその名前、未だに愛し続けている男の名前を、ミモネは呼んだ。

 ミモネの大きな黒い瞳にみるみる涙が盛り上がり、目尻から頬を伝って敷布に流れた。口惜しさと恐怖がない交ぜになった涙だった。


 それを目にして、セファイドは動くことができなくなった。

 自分の身体からどす黒い何かが大量に溢れ出してぼたぼたと降り注ぎ、ミモネを汚している――その光景がはっきりと見えた。悪臭を放つ腐肉にも似たそれは、彼の妄執に他ならない。

 あまりの悍ましさに身震いがした。

 彼は怯えたような表情になって寝台から降りた。欲望が嘘のように引いて行って、代わりに苦い味がじんわりと口の中に広がる。自分が取り返しのつかないことをしてしまったと気づいたのだ。


 ミモネは跳ね起きて夜着の前を合わせ、枕に刺さったままの短剣を引き抜いた。それを構えるかと思いきや、守るようにしっかりと胸に抱えて、部屋の反対側の隅へと後ずさる。


 狭い部屋の対角線上で、彼らはお互いを見詰め合った。

 水底のような青い薄闇の中、荒い呼吸だけが生々しく響く。

 乱れた長い髪を梳くこともせず、ミモネは短剣と自分自身を抱き締めてセファイドを睨みつけている。その頬はまだ涙に濡れていた。

 対照的にセファイドは呆然と、まるで自身の亡霊にでも出会ったかのような恐れの色さえ浮かべて、ミモネを眺めている。


「ミ……ミモネ……すまなかった、俺は……」

「テクスはね」


 弱々しく何かを言いかけたセファイドに、ミモネは硬い声を被せた。


「彼はあなたのことを尊敬していた。国王陛下は理想が高くて、若いけど実行力があって、自分たち下っ端にもびっくりするくらい気さくで……あの方についていけば必ずこの国は豊かになれるって。私、軍隊なんて危険だから早く辞めてって何度も頼んだのに、彼は国王を守ればこの国を守れる、それは君を守ることと同じだと言い張ったの」


 彼女は恋人の言葉を反芻しながら、短剣をゆっくりと撫でた。愛しい男が彼女に残したたったひとつの形見であった。


「彼はたぶん満足してたはずよ……あなたを無事に生還させたんだから。自分の死が顧みられなくても、恨んだりはしないと思う。あなたに刃を向けたのは、私の身勝手だわ」


 自嘲気味にそう言って、彼女はゆっくりとセファイドに近寄った。まだ両目は潤んでいる。しかし深いその黒色の中にあるのは敵意ではなく、憐れみに近いものだった。

 剣を手にしているとはいえ、簡単に組み敷ける非力な女を前に、セファイドは壁に背を着いた――気圧されるように。

 ミモネは頬に貼りついた髪の毛を払いのけて、穏やかにセファイドを見詰める。


「……なのに、そのあなたはここで何をしているの? 私の大事なテクスが命懸けで守ったあなたは、役目を放り出して女に溺れて、挙句に殺されても本望だなんて言って、それで犠牲になった人たちへ顔向けができるの?」


 詰問であるにもかかわらず、口調は静かで柔らかだった。そのことが、なおさらにセファイドを揺さぶる。手の中に握り締められている短剣を、喉元に突きつけられているような気がして、自分の中の醜い浅ましい部分を全部晒されている気がして、身動きが取れなかった。

 ミモネはその口元に淡い微笑を浮かべた。


「あなたのいるべき場所へ戻って、するべき役目を果たしなさい――セファイド。それがあなたが死んだ人たちを悼む唯一の方法よ。二度とここへ来ては駄目」


 その瞬間、彼は悟った。自分は永遠に彼女を失ったのだ。この国が滅びようと、アルサイ湖が干上がろうと、彼女が自分を求めることは決してないだろう。

 そしてその時になってようやく、自分が生まれて初めての恋をしていたのだと、心の底から思い知った。

 だがそれを今告げてどうなるというのか――気づくのがあまりにも遅すぎた。


 セファイドはすべての想いを腹の奥に押し込めて、黙ったまま衣服を身に着けた。ミモネもまた無言で、夜着の裾を握り締めている。

 最期に長剣を腰に据えて身支度を整え、足早に部屋を出る。

 ミモネが追ってくるかもしれない、と淡い期待に背中が疼いたが、優しく温かな腕はつい彼に触れることはなかった。





 それからセファイドは、ここしばらくの上の空ぶりから人が変わったように仕事に打ち込んだ。

 もともと睡眠時間の少ない体質の男である。早朝から深夜まで、まさしく鬼気迫るほど精力的に執務をこなし、内政においては課題だった新組織の整備をほぼ完了させ、外政においては同盟を結んで力を集結しつつある南方への遠征を開始した。

 重臣たちは一様に安堵し、鋭さを取り戻した国王の判断力と行動力を喜んだが、シャルナグは友人のあまりに急激な変化に、少々不安を感じていた。

 もちろんセファイドは聡明で強い男だ。本来の姿に戻っただけとも言えるが、何やら無理をしているのではないかと思える。あれほど好きだった王都の視察にも出なくなってしまった。


「おまえ、フラれたんだな」


 もう答えはこれしかないだろうと確信してシャルナグが尋ねると、


「うるさい。放っておけ」


 セファイドは不機嫌そうに吐き捨てた。

 言い訳の一言もない、その素っ気ない態度に、彼は自分の指摘が図星を突いたことを知った。それ以上無遠慮な揶揄を許さない雰囲気を、セファイドは纏っていた。


 自分で自分に嫌気がさすほど強く執着した女――彼女は呆気なく腕の中から逃げていってしまった。絶対に追って来られないくらいに手酷く彼を拒絶して。

 その喪失感を埋めるためという理由もあったが、何よりも別れ際に言われた言葉がセファイドを突き動かしていた――いるべき場所へ戻りするべき役目を果たせ。それが死んだ人間を悼む唯一の方法だ。

 いくら口先で戦死者の存在を忘れているわけではないと言ったところで、何の役にも立ちはしない。自分は、行動で結果で、その想いを示さなければならない。

 愛した女に力尽くでそれを教えられた彼は、胸を針で刺されるような痛みに耐えながら、ひたすらに自らの職務に集中した。

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