<8>
ミモネは死んだ恋人を今も想っていると、『ねずの木』でマテンは語った。だからどんな男が言い寄ろうと見向きもしないのだと。
テクスという名のその男は王軍の兵士で、酒場で酔客同士の喧嘩を仲裁したことがきっかけでミモネと知り合ったのだという。気の強い彼女とは対照的に穏やかな性格の若者だったが、二人はあっという間に恋に落ちた。彼らは深く愛し合っていて、将来は夫婦になるのだろうと周囲の誰もが思っていた。
しかし、テクスは戦死してしまった。
ミモネと同じく身寄りのなかった彼の遺骨は共同墓地に埋葬され、まだ妻になっていない恋人の元には何も戻ってこなかった。
「国王陛下の親征で東方に向かって、戦には勝ったのにその帰り道で他の国の待ち伏せを受けて、そんでやられちまったらしいぜ。テクスの奴……帰ってきたらミモネちゃんと結婚するつもりだって言ってたのに……気の毒なこったよ」
酔いの回ってきたマテンはそう言って鼻をすすり上げた。
シャルナグの調べた結果は、彼の話を裏付けるものだった。
2年前の東方親征はセファイドの行った初めての大規模な遠征で、十ヶ月にも渡る長い戦闘の結果、オドナスの国境線はそれまでの倍近く東へ向かって伸びた。戦争自体はオドナスの大勝利に終わったのだが、ガルダン渓谷の名を聞くと、今でもセファイドの胸に苦いものが去来する。
前線での激戦に勝利を収めた後、傘下に収めた隣国と講和条約を結んで属国とし、セファイドが率いるオドナス王軍は帰途についた。往路とは違い、それは長いが平穏な道のりになるはずだった。しかし、オドナスによる統治を是としない敗戦国内の一部勢力が彼らの行程に伏兵を潜ませていた。それがガルダン渓谷である。
結果からいうと、オドナス王軍の本隊は被害を受けずに済んだ。そういった不穏な動きがあるという情報をセファイドはあらかじめ掴んでいて、岩山に囲まれて道の狭量なその渓谷に入る前に、まず斥候部隊を先行させたのである。
用心深い彼の危惧した通り、道を挟む岩壁の上には伏兵が潜んでいて、斥候兵はそれを本隊に知らせに戻ったが半数がやられてしまった。
その中に、ミモネの恋人もいたらしい。
セファイドは想像する――若い国王のもぎ取った勝利に沸き返る王都の大通り。群衆の間を凱旋する王軍の兵士たち。どの顔も疲労していて、だが安堵と誇らしさに輝いていて。
ミモネは隊の中に必死で恋人の姿を探しただろう。帰ってきたら結婚する約束を交わした愛しい男の姿を。
だがどんなに目を凝らしても懐かしいその姿はなく、名前を呼んでも歓声に掻き消されて、彼女は不安に苛まれる。待っても待っても彼は帰って来ない。それでも、その死の知らせが届けられるまで、彼女は待ち続けたのだろう。
ミモネの笑っている顔と怒っている顔しか、セファイドは見たことがない。あの可憐な美貌を絶望が被い、喪失の悲しみに打ちひしがれている様を思うと心臓が痛んだ。
それは罪悪感であったかもしれない。彼女の最愛の男を死なせたのは、他でもない自分だったのだから。
「どなたか市中に気になる方がいらっしゃいますの?」
正妻にずばりそう訊かれて、セファイドは軽く目を閉じた。
何とか平静を保って振り向いた先で、タルーシアは淡く微笑んでいる。いつもと変わらぬ、隙のない悠然とした笑みだ。
午後ののんびりとした日差しの降り注ぐ、中庭の東屋である。目に染みるほどの植栽の緑の間を、同じ色をした微風が優しく通り過ぎている。
夫の動揺を鋭く察知して、タルーシアは笑みを深くする。多少意地悪く、
「やっぱり図星ですのね。こういったことに関しては嘘のつけない方だわ、あなた」
「ちちうえー」
可愛らしい声とともに、ぱたぱたと元気な足音を立てて幼子が走り寄って来る。少し離れた所で侍女たちと遊んでいた、彼の息子である。
「ちちうえ、これ、はっぱ」
「おお、大きな葉だ。よく取れたな、アノルト」
手にした大きな羊歯の葉を得意げに見せる息子の頭をセファイドは撫で、膝の上に抱き上げた。二歳の息子は手も服も泥だらけで、夢中で遊んでいたのがよく分かった。
タルーシアはそんな二人の様子を穏やかに見守っている。息子の教育に関しては、彼女は意外と大らかだった。どんなに汚れて遊び回っても、多少の傷を負うことがあっても、動じることはない。自身が王女として厳格に育てられてきたから、その反動なのかもしれなかった。
「いろいろ心配をかけてすまない」
セファイドは日に日に重くなる子供の体重を感じながら、そう詫びた。
妻も子も愛しく思う気持ちに偽りはない。家族を持ちながら他の女に心を乱される自分の身勝手さはよく分かっていた。
「今さら気にしていませんわ。あなたは私を正妃にするとは約束してくれたけれど、他の誰にも心を奪われないとは誓っていないのだもの。こうしてアノルトを可愛がってくれて、私は満足しております」
タルーシアは小さなテーブルに用意された茶を一口飲んだ。
姉である彼女はどんな時でも落ち着いていて懐が深くて、その態度が本心なのかどうか、セファイドは時たま懐疑的になることがある。勘の鋭い彼をしても底の窺い知れないタルーシアは、ある意味最大の脅威だった。
「その女性をを後宮にお迎えしたら? 気兼ねなくお通いになれるでしょう?」
「ああ、それも考えているんだが」
物分かりのよすぎる妻の言葉を聞きながら、セファイドはわずかに寒くなった。息子は膝の上で熱心に羊歯の葉を毟っている。
「……おまえはなかなか本音を口にしないな」
思わずそう言ってしまったが、
「あら、女は皆そうですのよ」
と答えたタルーシアの顔から微笑みが消えることはなかった。
狭い寝台は二人で寝るにはかなり窮屈だった。
ミモネはセファイドの胸に頭を乗せて、彼の両腕に抱えられながら目を閉じていた。耳の奥に彼の心音が響く。肉体が満たされて、心が柔らかく解けているのがよく分かる穏やかな音だった。
やがて呼吸が規則正しい寝息に変わり、力強いその腕が少し緩んでくると、ミモネは目を開けた。
「……セト」
彼女の知る名前を呼び、その唇に手を当てる。温かな息が指に感じられたが、返事はなかった。完全に眠ってしまったようだ。
ミモネは自分を抱き締めるセファイドの右腕をじっと見た。日に焼けて逞しいそれには、肘から手首にかけて精緻な刺青が施されている。オドナスの成人男性の証であった。
そっとその腕を解いて、彼女は身を起こした。乱れた長い髪を掻き上げつつ布団から抜けて、寝台の縁に腰掛ける。
部屋に灯りはない。窓から差し込む月光だけが、一糸纏わぬミモネの全身を青白く照らしている。彼女はしばらく顔を伏せてそのまま身を固くしていた。
やがて――顔を上げた彼女からは表情が消えていた。
素足で冷たい床の上を歩き、鏡台の前へ立つ。四角い鏡に映しだされた亡霊のような女とは目を合わさずに、その鏡と壁の間に右手を差し入れた。
そこから出てきたのは、丁寧に布で巻かれた包みだった。
ミモネが鏡台の上でそれを開くと――鞘に入った短剣が現れた。観賞用の美術品ではない。鞘にも柄にも何の装飾も施されていない、武骨な剣である。
ミモネはずしりと重く冷たいそれを手に取り、ためらいなく鞘から抜き放った。刃先は磨かれていて鋭い。月の光を跳ね返して、露が滴りそうなほど白く輝いている。
長い吐息が形の良い唇から漏れる。彼女は数度深呼吸を繰り返して、寝台を振り返った。
そこに眠る男は安らかな寝息を立てている。今夜も飽きることなく貪り合った相手を眺める彼女の眼差しは、黒い金属のように冷たい。
寝台に近付き、布団を跳ねのけて、彼女はセファイドの身体の上に跨った。
まだ眠りが浅かったのか、彼はすぐに低く呻いて目を覚ました。微睡の抜けないぼんやりした表情を見下ろして、ミモネは短剣を振り上げた。
セファイドの両目の焦点が合う――驚愕するかと思いきや、彼は恐れ気もなく真っ直ぐに見返してきた。
その翳りのない視線に、ミモネはなぜか怒りが湧き上がるのを感じた。重い剣を握る手が震える。
「……刺さないのか?」
彼の声は、刃を向けられている人間のものとは思えぬほどに落ち着いている。
「あなたこそ、逃げないの?」
「おまえに殺されるのなら本望だよ」
この男は――ああこの男は! ミモネは自分の頬が紅潮するのを感じた。激しい憎悪のために。
そう言えば私が躊躇すると思っているのだろうか? 私が自分を愛していると信じているのだろうか?
それとも――真実、死を望んでいるのか?
ミモネは身体の最奥から奔流のようにせり上がってくる激情に任せ、勢いよく刃を振り下ろした。
「なぜだ……?」
セファイドは石のような声で訊いた。驚きのあまり感情が失せてしまったのではと思われるほど、抑揚のない声だった。
彼の左首筋から指一本分の幅を置いて、短剣の切っ先が枕に突き立てられている。よほどの力を込めて振り下ろされたらしく、刃の半分が綿の中に沈んでいた。しかし彼の皮膚には一筋の傷もついていない。
短剣の柄を右手で握り締めたままのミモネは、上半身を傾けて至近距離からセファイドを見据える。黒い両眼の奥では暗い焔が燃えていた。
「……本当は殺したい。でも気づいたの。あの人はあなたを守って死んだ。ここであなたを殺したら、あの人の死は無駄になってしまう」
「どうして、分かった?」
自分が国王であると。
ミモネは黙って短剣から手を離すと、セファイドの身体の上から降りた。首だけを捻じ曲げて彼の右腕に目をやりながら、
「私の死んだ父親は腕のいい刺青職人だったの。父はとても研究熱心で、国中のあらゆる刺青の図柄を体系的に記録していたわ」
オドナスの成人男子が利き腕に施す刺青の幾何学模様は、出身の家系によって細かく決められている。見る者が見れば、その模様の持ち主がどこの家の何番目の息子かまで、明確に判別できるのだ。ミモネの父親は仕事の傍ら、それらの図柄を書き写して記録していた。その帳面はミモネの本棚に残されている。
「俺の腕の模様も、その記録の中にあったのか?」
「いいえ、逆よ。あなたの刺青の図柄は、父の帳面にはなかった。庶民から高位の貴族までほとんどの図柄を網羅していた父が知り得なかったのは、王族の模様しかない。それにあなたの容貌は、凱旋行進の先頭に立っていた男によく似ていたわ――二年前のね」
ついに彼女の恋人の戻らなかった、あの戦争の凱旋行進。ごくごく遠目ではあったが、群衆に向けて誇らしげに手を振る若い君主の姿は、彼女の脳裏に焼き付いていた。
ミモネは机の上に投げ出された夜着を手に取り、素早く羽織った。野蛮な敵から白い裸体を隠すように。
「オドナス国王セファイド陛下、お目にかかれて光栄ですわ」
そう告げる彼女の口元には、冷ややかな笑みさえ浮かんでいる。他人行儀な、どこか投げやりな笑みだった。




